Global Ethics


欧州放射線リスク委員会(ECRR)2010年勧告(翻訳出版) by limitlesslife
欧州放射線リスク委員会(ECRR)編集の2010年勧告の日本語訳が、明石書店から出版

されました。

この本は、福島原発事故以来、焦点化している低線量の放射線被曝の健康への影響について、内部被曝の影響を考慮していない現行のICRPモデルとその世界観をを体系的に批判し、内部被曝を考慮に入れた新しいモデルを提起した欧州放射線リスク委員会(ECRR)の勧告を翻訳・出版したものです。


【書名】放射線被ばくによる健康影響とリスク評価

     -欧州放射線リスク委員会(ECRR)2010年勧告-

【訳者】ECRR2010翻訳委員会(山内知也監訳)

【装丁】A5判 356頁 並製本

【定価】2800円+税

【発行】明石書店 (http://www.akashi.co.jp/book/b96169.html )

【発売日】2011年11月30日

【ISBN】978-4-7503-3497-4


この勧告の日本語訳は、すでに5月にネット上で緊急公開され、各方面でさまざまな反

響を得ました。その後、誤訳や表記ミスの訂正、訳語の統一などの修正を加え、膨大な

数の参考文献もすべて記載し、この本ではより質の高い日本語訳を提供しています。

 

放射線の健康への影響に対する体系的な科学書であるとともに放射線からの防護のた

めの指針を示しているこの極めて重大な文献は、ネットによる公開だけでは多くの人に

知らせるという点で不十分であり、書籍による出版に踏み切ったものです。

 

監訳者の山内知也神戸大教授は、福島の汚染調査を行い、効果を期待できない現行の>除洗よりも避難を、と多くの発信を行なっている放射線計測の専門家です。

(AERA11月28日号参照) 

 

http://blog.goo.ne.jp/capitarup0123/e/4b8c96ffd2b698dc5a5401671125d4a1

 

私は5人の翻訳委員会の1人として、科学史、科学論に関連する部分の翻訳に協力しま

した。

ECRRの見解を支持するしないにかかわらず、低線量被ばくや内部被ばくの健康への影

響を科学的に理解したいと考える人にとって一読する価値は十分あるでしょう。また、

放射線の人体への影響や放射線リスク論の科学史と倫理原理などを考察するうえで基本

文献ともなりうるものなので、大学や研究機関、公共の図書館などで購入していただく

価値も十分あると思います。



欧州放射能リスク委員会勧告2010第四章訳 by limitlesslife

第4章

放射線リスクと倫理諸原理

第 4.1節 取り組むべき問題

環境への放射性物質の放出が生きている有機体を汚染する結果となっている。環境中の同一放射性物質がもたらす内部放射線被曝と外部放射線が細胞損傷の原因である。ゲノム不安定性(genomic instability)と傍立人(バイスタンダー)信号伝達(bystander signaling)に対する最近の研究は、そのような被曝により、放射線飛跡が1本通過した全ての体幹細胞と生殖幹細胞の約3分の1が死ぬか突然変異を起こす事を示唆している。この大きな衝撃的結果の一つはこれら照射された細胞の子孫の小部分が癌細胞となりその個体を殺すかも知れないという事である。他の諸結果はその有機体に対する一般的細胞喪失が特異的または一般的健康障害の結果になるかも知れないという事である。第三に被曝した胚種系細胞への影響は被曝個体に限られず次世代に受け継がれるかも知れないという事である。

答えるべき質問はこうした状況を不可避的所産とする産業の操業を認可する事は倫理的に受け入れ可能かという事である。他に二つの質問が問われ得る:

・     第一に、そのような認可は選挙民の承認の後の政策的意志決定なのか、もしそうなら、それは適切な討論と正確な情報を充分入手した後の事であるのか?

・     第二に、その倫理的問題への解答はその所産がより大きな善とい観点から正当化されるなら少しの被害は受容されるという最小(事実上安全)閾値が承認されたのか? この後者の質問は暗黙裡に問われ答えられてきたようだが、本委員会はその解答の基礎は哲学的に疑わしいものであり再考しなければならないという事を論ずる(第 4.4.7 節)。

第 4.2節 盲目的人間中心主義(ヒューマン・ショービニズム; Human chauvinism

異なる倫理学理論の視野から放射能放出の是非に対してなされる論拠の探求に取り掛かる前に本委員会はここで提示される主な倫理学諸理論は、特に権利と功利主義は、人間中心主義だと認定する。言い換えれば、それらは道徳的意志決定に関わる範囲に合意し、それには唯一の生物種即ち我等自身の種だけをそれに入れるべきだとしている。ルートレイとルートレイ(Routely and Routely)は、自ら「人間偏重主義の不可避性(the inevitability of human chauvinism)」と名付けるものに次のような言葉で挑戦した。

自ら進歩的だと考える人達により、少なくとも理論上は殆どの形の盲目的自己中心主義(ショービニズム)が廃棄された我が啓蒙時代に、西洋倫理学は未だに盲目的自己中心主義の根本的形式の一つである盲目的人間中心主義を正にその中心に堅持されている様である。周知の西洋思想と殆どの西洋倫理理論の両方とも価値と道徳の両者は究極的に人間階級の利益または関心の事柄に還元されると前提している。

(Routley and Routley, 1979)

民間核電力計画の結果としての電離放射線被曝に対する指針作成はそのような盲目的自己中心主義の典型的実例である。人々よりも全ての野生動物と大部分の家畜の方が更に多くの時間を野外で過ごし、従って放射線に更に多く被曝するという明白な事実にも拘わらず、全てのモデルは人々の被曝線量を定めるように設計されているのである。

この章で提示する放射性核種による人々の日常的汚染についての倫理的問題はそれ自体相当強く興味を引くものであるが動物の権利を真剣に考えれば引き起こされる害悪水準は広大な急膨張になる事を示唆するだろう。本委員会は様々な機関(例えば、IAEA 2002、ICRP 2002)が人々の防護と別個に環境保護への様々な倫理的接近法を探求してきた努力を歓迎する。本委員会はそれらの再説には及ばないが環境はそれ自体の道徳的立場(moral standing)、即ちそれが人間の功用の為というよりむしろそれ自体の為に環境を保護する正当性を認めようとする全体的傾向がある事を銘記する。

こうして採用される立場は西洋精神に当初見えるよりも遥かに合理的でありうるだろう。環境保護に関する非人間中心主義的見解の源泉として(例えばIAEA 2002により)頻繁に引用される主要な東洋の哲学的・宗教的体系は、業、意図及び果報の法則(the law of action, motive and result、因果・応報・縁起の法など)-故意になされた害悪は殆んど常に将来不可避的に加害者に返ってくるという考え-を強固に保持している。これが悟りを成就するという卓越した目標の障害と見られている事は環境に対する東洋的態度の想定された非人間中心主義に斬新な光を当てるものである。業、意図及び果報はまた放射能防護に従事する者は誰であろうと、それについての証拠をわざと無視する限り、その長期的利益には疑問を呈するのである。皮肉にもこれらの責任ある立場の者達が自らの行為が齎した害悪の結果として苦しむだろうと望むのはそれ自体悟りの更なる障害かも知れない。

普通に見られる低レベルの被曝線量における環境欠損(detriment)を特定し定量化する困難とそのような被曝線量が重要かどうかという結果問題の観点から環境倫理学者間の論争から得られる重要な洞察(insight)を留意する事が助けになる。メアリー・ミッジリー(Mary Midgley)は、特定の環境的・社会的に破壊的な諸過程に共通の一つの問題を特定している(1983):諸過程は一般の道義的反感で受け取られるがそれらに対する反対を実証するのはしばしば困難であるという事である。自らの論点を例示する為に彼女はロビンソン・クルーソの日記から次の記事を引用している:

1685年 9月19日。この日私は自分の島が荒れるままにして顧みなかった。私の小型帆船は今や海岸で用意万端で私の出発に向け全ては準備されおり、フライデーの家族もまた私を期待しており、私の小さな港からは新鮮な風が吹いており、全てがどんな風に燃えるのかを見たいと私の心は欲した。それで特に選んだ乾いた薮の中に火の粉と火薬を巧みにしつらえ、間もなく私はそれを燃え上がらせた、残るものは何も無く、次の夜明けまでには、その焼け跡に何処にも緑の小枝すら残ってはいなかった…。

(Midgley, 1983: 89)

ミッジリーは、そのような行動を情緒不安定とする我々の反発は(西洋的)啓蒙主義の

道徳的伝統であると見做している。彼女の言葉によれば:

今日この知識人的偏見は一般的道徳の洞察をしばしば単なる「直感」と呼んで表わしている。これは全く誤解を招くものである、というのはそれはそれらが思考なしで到達されたという印象を与え、それとは対照的に、もし私達が物質界についての常識的「直感」と物理学あるいは天文学を対比してみれば、別の所に有り得る頭を下げるべき科学的解答があるとするからである

(Midgley, 1983: 90)

我々の主題の観点から興味深いことに彼女はこのモデルを核物理学から持ってこれると見ているのである。

第 4.3節 民間核電力計画の倫理的基盤

第 4.3.1節 はじめに

ICRP 1990年勧告の第 101節は国際的核電力共同体(international nuclear community)がその活動の倫理的基盤を提供しに来るその最も近い所を代弁している。その節はこう述べている:

人間諸活動についての殆どの決定は費用や不利益に対する便益の釣り合いという暗黙の形式に基づいており、特定の一連の行為や業務がする価値が有るか無いかいずれかの結論に導く。これほど普通ではないが、業務行為は個人または社会に対する正味便益を最大にするように調整されるべきだという事もまた認識されている。 便益と欠損がその集団中に同じ分布でない場合には、必ず何らかの不衡平になる。由々しい不公平は個々人の防護に注意を払う事により回避できる。多く現在の業務が、将来、時には遠い将来受ける被曝線量を生み出す事もまた認識されなければならない。これら将来の被曝線量は集団と個人の両方の防護において考慮されるべきである。 ることが可能である。多く現在の行為が、将来において、時には遠い将来において受けることになる被曝線量の上昇を生み出しているということもまた認識されなければならない。これら将来の被曝線量は集団と個人の両方の防護において考慮されるべきである

ICRP、その衛星委員会、および彼らの後に来る政治的意思決定者達は民間核電力計画の放射能放出による不可避の結果である健康上の諸結末について自らの勧告の哲学的および倫理的基盤又は実に道徳的な正当化を判然と釈明して来なかった様に見える。しかしながら、上に引用した第 101節はその委員会の倫理的思考の基礎を暗黙裏に確認しており、それは功利主義的伝統にしっかり植付けられたものと見える。そのような哲学的基礎の結果としての意志決定方法は必然的に費用-便益分析である。ICRPのメンバーはそのような道徳的立場が普遍的に受け入れられ、たぶん唯一の倫理的指針の源泉であると明らかに前提している。ECRRの立場を概説する本章はそれよりも広い見地をとり、功利主義的立場特にその核電力に適用されたものの批判を提供すると共に多様な倫理理論の視野から核電力や他の放射能汚染源による健康影響の問題に取り組む。更に進んで民間核電力が強固な倫理的基礎を持つために解決される必要のある意志決定の特殊面に取り組む。

民間核電力は政策形成の興味深い事例である、というのはそれがかつて倫理的あるいは民主的な吟味に決して直面しなかったからである。この事は述べられる事は無かったが民間と軍事の核産業との密接な繋がりや冷戦時代にこの両者が生まれた為にその正当化は不必要だと感じられたと推断せざるを得ない。アカであるより死んだ方がましだと信じられていた時代には核過程の結果で少しの余分の死などは大きな国際外交のテーブルでの我々の立場と引き替えに払う少しの代償と見なされて来たであろう。政治的状況が変ったのであるから核電力の倫理的基礎はとうの昔に評価されるべきであった。

第 4.3.2節 異なる倫理的見地から見た核電力の健康への影響

功利主義(Utilitarianism)

功利(効用)主義は行為や政策の倫理的正しさを社会全構成員の幸福の総和を最大にする能力に基づいて評価する道徳哲学として良く知られている。ある環境倫理学者がそれを表現するように、「功利主義者達は長期にわたる社会福祉または功利の見地から考えられる好結果の最大化…に導く範囲である行為や決定が正しい道徳的質を持つと考える。」(Sagoff, 1988, p.171)。言い換えると、功利主義の中心的趣旨は結果が行為の道徳的評価の鍵であり、道徳的正しさを評価するには行為が生む幸福または不幸の観点でその結果を比較すべきであると言うことである(Shaw, 1999)。

この倫理的立場の目的は功利または幸福の総計の最大化である。その幸福の配分については何事も言っていない事を把握する事が重要である(Shaw, 1999)。事実、功利主義の最初の批判の一つは、それが奴隷社会と全く両立しうるというものである。その関心は平均して幸福を最大化する事にある。これは核汚染の倫理学上の議論の脈絡で興味深いもので、そこでは公衆への被曝線量もまた平均して考えられ、これは本報告の別の箇所で指摘している健康-リスク・モデルの不正確さの多くに導いたのである。これら「平均的福祉」計算が政策に翻案される政策メカニズム、費用-便益分析、には本章後半で探求する実際困難と共に基本的哲学的問題がある。

功利主義は何時も直接的魅力を持っている、そして特に政策立案者には。ショー(Shaw)は、「功利主義の目標は20世紀の公的な意志決定を形成してきた」と見なしている(1999, p.2)。功利主義が訴える重要な訳はその単純さである。それは難しい道徳的事例を単純な数式に縮小してしまうが、これは政策立案者に、自らが絶望的に複雑な状況を制御しており、また弁護しやすい解答を提案できるという二つの事を信じるのを許してくれるからである。

功利主義的計算の裏側はそれが多くの市民を道徳的に不快にする結果を生むという事である(Shaw, 1999参照)。例えば、殆どの市民は例え人口の極く少数成員に莫大な費用を出す事になったとしても早産児を死なせるのは耐え難く冷淡だと信じている。如何なる合理的功利主義計算でも癌の苦痛緩和や治療を改善する手段を見つけるために費やされるならその費用は人間の幸福の総計を更に増大させるとされる。しかし人間の幸福の総計とは対照的に個人の道徳的価値に人々が置いている重要性はブリストル(Bristol)で無能な医師達による手術で子供達が死んだ時に示された大衆の嫌悪に示されている。その死亡者の絶対数は毎年行われる心臓手術の総数と比較して小さかったが道徳上の憤怒は巨大だった。こういう訳で市民は「純粋な功利主義は道徳的思考の本質的諸成分を除外している」と生命倫理分野の討論で主張したアン・マックリーン(Anne Maclean)の結論に賛同するようである(1993)。

政府の文書を通読すると平均的福祉の配慮は確かに個人の権利より優先されることが明らかである。例えば、ゴミ埋立場近くに住む事が健康に有害な影響を及ぼすと記す最近の報告は、ゴミ埋立場近くに住む事に関係することを示す障害を実際に持って産まれた子供の数が少いという理由で報告者達自身により軽視された。これは功利主義計算の論理に従っているが我々の道徳的感覚では受け入れ難かったので南ウェールズのナント・イ・グヴィッドン(Nant-y-Gwyddon)丘近郊の先天性奇形の発生群は強烈な全国的抗議を引き起こした。(http://www.foe.co.uk/cymru/english/campaigns/waste/landfill.html,

http://www.foe.co.uk/resource/evidence/nantygwyddon_landfill.pdf)。

功利主義はエネルギー源から得られる社会的利益や国防兵器のためのプルトニウムと引き替えに核施設付近にすむ子供たちの白血病による死を許容する。何百万の家庭で電気の炎で得られた温もりは核電力施設の風下に住む女性たちの乳がんと相殺できるのである。功利主義は政策立案者には魅力的に見えるかもしれないが市民の道徳的感情には従っていない。このことが、市民と彼らを代表する為に選出された政治家の間の信頼の溝が深まりつつあることを一部説明するものかもしれない。

権利基盤の理論(Rights-based theories

功利主義は暗黙に又は判然と英国その他で一世紀にわたり倫理学の宿を支配し政策立案の哲学的基盤になっている。合衆国でのその人気は権利概念基盤の新倫理体系の人気が成長したのでその根本が侵食されてきている。功利主義が権利を善(the good)に従属させるのを特徴とすると権利基盤の理論は反対に善は常に権利に従属すると主張すると考えられるだろう。これは政策立案一般にとって特に民間核電力計画にとっては遠大な意味を持つ。

このような理論の出発点はどの個人の幸福も全共同体の更に大きな善の為なら犠牲にしようという功利主義の平均化原理を拒否する事にある。権利基盤の理論は人間は個人として不可侵の権利を持ち国家は個人の明白な許可によってのみそれを乗り越えてられると論ずる。

権利の強い法的防衛を提案しているロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)は、『権利論(Taking Rights Seriously:諸権利を真剣に引き受ける)』(1977)(木下・小林・野坂訳『権利論』、木鐸社、2002)の中でその基本的重要性を論じている:「(一般的善に)比較して重要な権利の侵害は極めて重大な事柄である。それは人を人間以下として扱うことを意味する。」功利主義と権利基盤の道徳理論との衝突に関して彼は国家が「一般的な善という想定上の理由で切り捨てる結果になるように市民の諸権利を定義してはならない」と論じている。

では我々は権利基盤の倫理理論を核電力産業の活動にどう適用し得るか。放出物の有害水準について論争が続く一方、核源泉のエネルギー生産は一定量の放射性汚染物質を生み出し環境中に放出されてその環境に住む者の身体を不可避的に汚染するという事はどちら側にも受け入れられている。一般市民の十分な知識なしに、また充分に情報を得た上での承諾も確実に欠いたままで行われてきたそのような活動は最も基本的な自然権:身体不可侵の権利の侵害である。この権利は権利理論では基本的なものと見なされており、例えば自分の身体が攻撃された場合自己防衛として暴力使用を正当化するために用いられている。

我々は国連人権宣言第3条に「誰でも生命、自由、及び人(the person)としての存在の安全の権利を有する」と述べている個人の汚染されない権利の更に明確な記述を見出す事ができよう。法廷で試されたものではないが核廃棄物による市民の身体の汚染がその人(person:persona原意:顔:面:個人・人格として)の安全に受容出来ない脅威であり、従って国際法違法である、という強力な一見証拠確実な事柄であると思われる。権利の視野からは核産業が合法的に営業を続けるには、潜在的に汚染されたかもしれない全員にその核の諸過程により健康に及ぼす真の危険を正確に知らせ、その諸過程を継続しても良いか同意を得なければならないと言う事になろう。

ロールズの正義論(Rawls’s Theory of Justice

道徳哲学と政治哲学に影響力ある貢献がジョン・ロールズ(John Rawls)によって1971年『正義論(A Theory of Justice)』(矢島訳『正義論』、紀伊国屋書店、1979)の出版でなされた。これは権利理論そのものではないが、ロールズの関心が倫理学的に公正な分配を保証する正義の原理を決定する事にあったので、彼はしばしばその理論との関連で論じられる。彼の関心は主として富の分配であったが、我々は彼の理論を核の諸過程に関連する「病い(illth)」の分配を考察するのに拡張できるであろう。ロールズの中心となる知的道具は「無知のヴェール」である:彼はある分配はもしひとりの市民が、彼女又は彼が、分配のどちら側に立つか判らないまま諸選択肢の範囲内から選択するなら公明正大(fair)であると提案している。こうしてこの理論は、福祉合計を最大にするだけであり、こうして少数の非常に不快な状況も、快適な状況と均衡する限り、容易に許してしまう功利主義とは反対の立場に立つ。ロールズの体系では、対照的に、個人は起こり得る最悪の結果から彼女又は彼自身を守ることになろう。このような道徳世界で市民に直面する問題は、核産業が少数の死を引き起こす放射性廃棄物を放出し続けるのを許すべきか否かという事になろう。市民は「無知のヴェール」に覆われている為に白血病を発症するかも知れな者が彼又は彼女の子供や孫かもしれないという事を知らないのである。その機会は小さくとも自分達が引き受ける可能性のある状況かも知れないのである。

ロールズにとっては、このような問題はいずれにしても二次的なものである。彼の道徳理論が一切を乗り越えて献身するものは、前節で論じたものと同じく、人間として持つ絶対的権利である。彼はこの点を以下のように表明している:

各人は社会全体の福祉と言えども乗り越え得ない正義に基づく不可侵性を所有している。(Rawls,1971: 3)

この「不可侵性」は身体的不可侵性を含むと考えられるだろうし、この故に排出物を生む過程がどれだけ社会全体に利益を与えたとしても、市民の知識も同意もないままに放射性排出物で市民を汚染する事は正義の国家内では不可能であろう。現代国家の市民は核廃棄物の常習的放出による身体の汚染に決して了承した事が無く(又そのような過程が日常的に生じている事を気付いてすらいないだろうから)、そのような放射能排出は権利基盤の理論によれば唯 不道徳としか言いようが無い。

(訳注

http://sun3.lib.uci.edu/~scctr/philosophy/rawls.html;

ISBN: 4314002638)

徳倫理学(Virtue ethics

徳倫理学として知られる道徳哲学の流派は我々が行為を倫理的だと如何にして判断できるかというもう一つの見解を提供している。計量と計算とに関わる技術や権利の根本的不可侵性の主張に基づくのではなく、それは倫理学的に堅実(健全妥当、sound)な行為とは、有徳(virtuous)と見なされる行為であると提案している。どのような種類の行為が有徳かという事について客観的合意はあり得ないので、この学派の理論家達は一見有効な指針を実際に提供しないという指摘に対して当初は弱みを持っているようである。しかしながら少し考えてみると、このような主観性の問題は実際には他の理論をも悩ましている事が明らかとなる。例えば、功利主義は、「幸福」とか「功利」とは何かという事でそれ程主観的判断に基づいていない訳ではない。そして同様に二つの権利が衝突するときに、どちらの権利が根本的で不可侵であるかとい事についての完全な合意もあり得ない。徳倫理学は対照的に、客観性を主張するものではない。ロザリンド・ハーストハウス(Rosalind Hursthouse)によれば(1999)、倫理学は中立的な観点から基礎付けられ得ない;むしろ、我々は皆後天的に得た主観的な倫理的視野を持っているのである。

これは政策立案者には魅力のない哲学的立場である、と言うのはそれは過酷な事態に対する遺漏ない解答を彼らに提供しないからである。しかしながら、我々はそれが道徳的決定をする場合の込み入った現実をより正確に反映しているものだと考えて良いだろう。徳倫理学は個人の行為を出発点とする体系であるが政策立案者に対して重要な教訓を持っている。第一に、我々は個人の美徳を制約する如何なる組織もその個人を道徳的に害しているのだと結論して良いだろう。だから、悪徳行為の一形式で例えば嘘をつくといった事を一般的に容認する事は徳の水準の全般的衰退を奨励する事により全般的な文化的反応を更に不誠実な方向へと奨励する事になろう。対照的に、一般に有徳と認める行為は他者に一種の道徳教育として作用する。

核産業という見地からは徳倫理学の接近方法から幾つかの重要な教訓を引出せよう。民間核電力計画の運営は幾つかの高度に疑義のある道徳的決定に基づいてきた。多分最も重要なのは機密に関してである。当初は核兵器との関係の為、そして今ではテロの脅威の為に核産業は秘密と不正直の雰囲気の中で運営される傾向にある事は明らかである。一例として1957年のウィンドスケール原子炉火災事故に伴う放射能放出の全貌と有り得る結果を覆う秘密である。他にも多くの例がある。徳倫理学の視野からはこれは有徳な社会の土台を掘り崩すと見なされる。汚染と健康損傷の正当化やそれに伴うリスクの極小化はまた無情の例証を表すものであり道徳的に堅実(健全妥当、sound)な社会をもたらさない

(訳注:ロザリンド・ハーストハウスについては、次のサイトに紹介がある:

http://www.arts.auckland.ac.nz/phi/staff/rosalind_hursthouse.htm)

第 4.4節 政策立案者のための倫理的考察

第 4.4.1節 費用-便益分析の諸問題

費用-便益分析は所与の過程の開始を認可するか否かを決定しようとする際に今では政策立案者達が好んで用いる方法論である。例えば新しい核発電所を建設する許可を与えるか否かを決定するのに使われる方法である。しかしながら政策立案を援助するものとしてのこの方法には考慮すべき諸問題がある。

第一の問題として、それは費用と便益を正確に計量する能力に依拠する事である。環境の費用を計量するのが困難な事は悪評高い(例えばPearce, 1993; Funtowicz & Ravetz, 1994を見よ)。この報告の他所で例示しているように核電力の場合、健康への陰性(悪)影響の計量は同じく手におえない。同様に如何なる過程の便益も既存の枠組内でその過程を見る方法でしばしば査定され貨幣価値で表される。例えばエネルギーの価値はエネルギー節約や需要者側管理の可能性を無視して我々のエネルギー必要量が不可避的に増大すると企画する政策枠組内で評価されている。我々が常に不可避的に更に多くのエネルギーを必要とするという仮定の背後には経済成長は続くという更なる仮定があるが、これは長いこと激しい討論の対象となっている(例えば、Daly, 1973を見よ)。そのような一連の仮定の中では(必要とされる)余分エネルギーの便益は誇張されるだろう。

費用-便益分析は功利主義哲学に起源があると特定されており、これがその持つ第二の主要な欠陥:費用と便益の公平な分配の疑問を説明する。我々は功利主義が平均化の過程を基盤としており、費用-便益分析も同様に全社会構成員の費用と利益を平均化する事を見てきたが、これは全ての個人の効用関数の単純な加算で表される「社会的効用関数」呼ぶものを考えている。しかし産業過程の現実は社会のある部分に費用の不均衡な分担を負わせている。これは ICRP1990勧告第 101節で明白に自認しているのにICRPはそれを倫理的基盤に基づいて正当化する必要を無視している。

チィーテンバーグ(Tietenberg)は合衆国の例を提供している(2000)。1979年にテキサス出の社会学者がヒューストンのアフリカ系アメリカ人が自分達の居住区内の有害廃棄物処理施設の設置に反対するキャンペーン(法廷闘争)の報告を書いた。彼等はそのキャンペーンに負けた。彼は人種と収入だけに限られないものがその土地使用決定の要因であると示唆した。1983年の更に十全な研究は商業での危険施設の4つの内3つがアフリカ系アメリカ人の居住区にあるのを明らかにした:その4番目のものは貧困地区にあった。代替政策センター(Center for Policy Alternatives)の 1994年の研究はその状況は更に悪化している事を明らかにした。

誰でも全ての核発電所が失業率の高い地域に立地されている英国の状況と容易に対比できるだろう。引き合いに出された理由は技術革新の恩恵を広める試みであるとの事であったが、セラフィールドの白血病発生群で証明されるように、そのコスト(損害・費用)もその人々に不当に負わせられてきた事は容易に見て取れる。この政策はそれ以来起業家を惹きつけるために、高失業地域を区画して、そこの環境保護基準を下げるのを許す計画指令の中に秘蔵されてきた。

幾つかの理由から如何なる潜在的に危険な産業過程の費用もその施設を貧困地域に設置する事で常に最小化できる:

・これらの地域では土地代が更に低い;

・将来の法的責任を最小化できる、というのは貧困者は法的行動で更に争えないから;

・貧困地域では補償金が低いから、というのは早死で失う彼らの潜在的将来所得は更に低いから。

それで費用-便益分析で使用される平均化の方法論は考慮中の過程の費用が貧困者に不当に課せられるのを確実にしている。しかし、その便益はどうか?富裕な世帯は更に高い水準の消費をし、したがって環境汚染物質を生む過程の更に大きな需要をもっている。例えば食器洗い機やセントラルヒーティングを備えた家は更に多くの電力を必要とし、こうしてエネルギー生産の結果である汚染物質の更に大きな部分に責任を負うべきであろう。そのような家はエネルギー生産の便益を更に多く受けるだろうが実費より少なく払ってきただろう。

第 4.4.2節 割引問題

環境上の意志決定で一つの鍵となる問題は、前に指摘したが、現在の諸活動が長い将来にわたり影響を持つ事である;これは核電力の場合には、その廃棄生成物が政策決定に合理的に組込めるより長い将来にわたり危険であるので、特別な関心事である。異なる時点で便益と費用とが生じる場合の選択の為に政策立案者は現在価値の計算として知られる貨幣利子率に基づく割引係数を使って将来の価値を割り引く方法を使う。

言い換えれば、今日投資した 1ポンドは利子率が10%だとすると1年後に1.10ポンドになる。そこで今から1年後に受け取る 1.10ポンドの現在価値は 1ポンドである。今から1年後に受け取る量の貨幣 xの現在価値は次式で計算して出せる:

x/(1+r)

ここでrは現行の利子率であり、今は「割引率」として使われる。

利子率が rで2年後に 1ポンドの価値はどうなるだろうか。複利である為にその価値は次のようになるだろう:

£1(1+r)(1+r)=£1(1+r)

したがって、今から2年後に受け取る xの現在価値は次のようになる:

x/(l+ r)

もし同じ型式に従うなら今から n年後に受け取る一回の純利益(B=Benefit)の現在価値(PV=Present Value)は次のようになる:

PV[B]= B(1+r)

何年かにわたって受け取られる一連の純利益 [B,.., Bn]の現在価値は次のように計算

される:

PV[B,.., Bn]= ∑Bi/(1 + r)i

i=0

ここで rは利子率であり、Bは即座に受け取る純利益の額である(iは年)。

この方法は現在の費用と便益と共に未来のそれを生む物の現在価値をより明確に見る為に使われる。未来世代に対する費用と便益の価値は割引過程により大きく影響されるが、費用か便益の現在価値が有限の極く短時間では下限値ゼロに収束する傾向になるようかなり限定された時間的水平(範囲)を持っている。割引の過程自体が遠く離れた将来に生じる費用と便益を有限時間内に実質上ゼロに減じるのである。ハッセン(Hussen)は便益について次のように述べている(2000: 329):

多くの環境関連計画の場合にそうであるように、考慮中の事業計画の時間的水平がかなり長い時には3%から5%の範囲にある個人と社会の割引率の間の違いは問題にはならない。これはその割引率が正の値である限り割引がはるかに遠く離れた将来に得られる便益を限られた時間内に実質上ゼロに減ずるからである。問題は正の割引率が使われているという正にその事実である

同じ事は費用にも適用され、結果として割引の過程は長く続く費用の重要性を根本的に減少させ、こうして将来にわたり何千年も支払われる核産業の費用のほとんが費用-便益分析から数学的に排除される事になろう。

割引の全過程は社会にとっての得失が将来への距離が遠くなるほど低価値になる事を意味する。割引率が、どんなに小さくとも、正である限り(今日のジャムは明日のジャムより常に良いという事を意味し)、割引は常に費用と便益の時間経過による不平等評価を意味する。我々が未来世代に費用を強要する時これを倫理的に正当化できるだろうか?世代間衡平の要求を真剣に受取るなら我々は割引率ゼロを使わなければならない。

第 4.4.3節 予防原則(The precautionary principle

予防原則はある産業過程やその汚染物質のリスクについて確信が無い時は我々がその安全を確信できるまではその着手を許すべきでないと提言しているのである。そのような原則は民間核電力産業に適用された事は決して無かった。用心を欠いた主な理由は新奇未知の手順に取り組むのに核物理学者達が公衆の健康リスクは無いと信じて政策立案者にも信じさせた事にある。しかしながら放射性核種の健康影響については考慮すべき疑問があるという事は本報告書の他の所で示した科学上の所見から明白である。ある分野特に細胞生物学と免疫系研究での科学的発見は核電力計画の開始以来すさまじい進歩を遂げてきている。これは核電力計画で現在使われているリスクモデルがDNA発見以前に作成されたという事実によって特別に例証される。この程度まで科学的不確定性があるのだから公衆の健康の為に予防原則を核発電所の操業に適用して極く最近の生理学上の発見に従いそれが安全であることを最終的に証明できるまで更に放射性排出物を放出するのを防止する事が勧告されるべきだろう。

第 4.4.4節 誰がその費用を負担するのか?

民間核電力の倫理的基盤と認可による放出によって起きた癌に対する挑戦に答えて、核電力産業弁護人達は石炭火力発電所のエネルギー生産の全サイクルで死んだ鉱夫の人数と核放出の結果生じた癌により殺された市民の人数との比較を提出した。しかしながら、これは倫理学的に欠陥のある立場である。鉱夫たちは自らの雇用の危険な性質を十分知らされており直接の金銭的利益の見返りとしてそれを受容したのである。彼等の状況はセラフィールドから放出された放射性粒子を空気中にあることを知らず、又(電力)生産から直接的利益を得る事もなく吸い込んでいる大人や子供の状況と同じではない。そのような人々は実際上は傍立者(バイスタンダー)であるから汚染物質の生産に従事する人達とは道義的に別個の立場にある。その状況は石炭火力発電所や工業プラントで起きるスモッグによって死んだロンドンの人々の状況にもっと良く類似している。市街地での無規制な石炭燃焼の健康リスクの事実が一旦知られると、これらの死亡は道徳的に受忍出来ないと見なされて無煙地帯の導入になった。核電力産業に関しても同様に厳格な道徳的立場が採用される必要があり、もし放出の真の水準や実際の健康影響が更に広く知られれば、そうなろう。

第 4.4.5節 放射線敏感性の異なるレベルに責任も持つこと

全ての人間組織が放射線に同様に反応するのではない事は科学的事実として受容されている;放射線敏感性のレベルには変動がある。人口の約 6%は、DNA損傷を特定し修復を可能にする機構を不活発にする遺伝子 ATMに異質接合的(heterozygous)である:これらの人々は放射線に(統計上)有意に敏感である。多くの他の遺伝的欠陥が放射線による発癌に絶妙に敏感にしている下位グループが特定されている。これは一定レベルの電離放射線被曝はある人達には他の人達に比べて遙かに大きなリスクになる事、言いかえると、ある市民に安全と見なして認可された排出レベルは放射線敏感性の更に高い他の市民に癌の発生を起こすかなり高い確率があるという事である。

これは非常に特殊な倫理的問題を提起する。例えばナッツ・アレルギーや色素性乾皮症のような多くの遺伝的敏感性の場合、そのような状況に苦しむ人々はナッツを避けたり太陽光を受けない事を我々は合理的に期待できる。しかしながら、放射線敏感性の市民は現代社会ではこのような自己防衛の点で二つの乗り越え難い問題に直面する。第一に、医学的検査が無いので彼らはその状況を気付いていない。第二に彼らがその状況に気付いたとしても警告なく放出され空気と水を通して広がる発電所からの排出物を避けるために何も出来ない。放射線敏感性の人達への唯一のメッセージは、ジョン・ゴフマン(John Gofman)の「放射線に耐えられないなら、その環境から離れた方が良い」である。再び我々は平均化に依るリスク・モデル体系の結果に直面する。この場合には人間組織の平均的放射線敏感性がそのモデルの基盤として使われている。これはその人口の中の幾らかの特に放射線敏感性のある人が癌や他の放射能疾患を発症する非常に大きなリスクに直面する事に不可避的に導く。幾つかの報告によると放射線敏感性の高い人の割合は約20%である。これに加え人種が異なれば放射線敏感性も異なるようであり、日本の原爆被爆者寿命調査(LSS)に基づいた放射線防護の基準は異なる人種グループには適用できない。その人口集団の様々な放射線敏感性を一旦考慮に入れるなら、最も影響を受けやすい市民の健康リスクに基づいてリスクモデルを開発する以外に道徳的に受容できる代替案を考える事は難しい。その問題は第9章で再び検討する。

第 4.4.6節 越境問題

費用-便益手順とそれを支える功利主義哲学は両方とも所与の共同体内の人間の満足の計算に基づいている。だから例えば核電力の生産による英国国民への被曝線量の全ての計算は英国の人口に基づいている。しかしながら環境汚染が国境を認識しない事は明らかである。セラフィールドからの汚染は北海の至る所で発見されておりスカンジナビア諸政府の苦情に導いた。サンクト・ペテルブルグ(St. Petersburg)のある研究所はバレンツ海の汚染の主な原因がそこに沈んだ核力潜水艦クルスクよりもセラフィールドによるという証拠を見つけた。汚染はカナダ北部ほど遠く離れた所でも見つかっている。英国の民間核電力計画による汚染で最も酷く汚された国はアイルランド共和国である。このことは自らは核電力を持たない同国で凶暴な政治的運動を引き起こしている。アイルランド政府はセラフィールドの操業の費用-便益分析は英国人口集団には便益を授けるが何の便益も受けないアイルランド共和国市民にも費用の負担がさせられると正当にも主張している。

このように英国の核電力を正当化する方法論は英国国境外での影響には何の配慮もしておらず、それが健全な倫理的基盤を持つ為には他国市民に対する有害な結果もまた考慮される必要がある。深刻な越境問題の別の例は1964年 4月 21日の出来事のような人工衛星による破局的惨事である。この時米国の人工衛星「トランジット5 BN3」は全世界の大気中に含まれる量の 3倍にあたる 950gのプルトニウム 238(約 170,00キュリー)を撒き散らしたのである。

第 4.4.7節 極小と自然背景(放射能)(バックグラウンド)との対比による正当化

本委員会は被曝を許容する二つの正当化を考察した、即ち極小論(de minimis argument)と「自然背景(放射能)」論である。極小論は「法は些細な事柄に関与しない」という法律上の原理に基づいている。こうして例えば被曝した十万人の中の一人が死亡するリスクを有すると想定される被曝はしばしば取るに足りない些少なリスクであると提示され、自動車事故で殺されたり喫煙生活による癌で死ぬといった更に大きなリスクと対比されるのである。これらの議論は些少な害の損害補償の法律に立ち入るのを最小にする為に利用されているかも知れないが、本委員会はこれらが倫理学基盤を持っているとか大いに実用的であるとは信じていない。もし狂人が拳銃を持ってロンドンのホテルに泊り込み60人を射殺する積りだと警察に告げたら(人口の10万分の1)、又は例え1人でも(600万分の1)、社会は自然に彼が逮捕、監禁される事を期待するだろうが、核施設からの放射性物質の放出にそのような刑罰を要求する事はない。また如何なる費用-便益理論もその仮想の狂人に対する社会の態度に衝撃は与えないのである。例えば、彼が老女を襲ったり銀行強盗をしている人達だけを見て射殺したとしても許されないのである、泥棒でさえ権利を持っているのだから。

ICRPはこの議論に対する問題を明らかに考慮してきたが、(始めは)決定的標的集団(critical target group)、更に最近(2007)では標的「代表個人」という防護概念の方に好意を寄せ集団線量の考えから忍び足で遠ざかっている。これは誰でも個人線量と被曝した人口数及び関係するリスク係数を掛け算して実際の死者数を得るのを避けている様に見える。勿論何も変わっておらず死者はまだいるが、ただ死者の数を正確に計算する為に ICRPのデータを利用することはもはや不可能であるという事である。放射能はまだ放出されており食物連鎖や空気中に入り、それで誰でも例え少なくても幾らかの放射能を取り込み常に一定量の健康欠損を受けているのである。ICRPは被曝線量が限られた代表人物の被曝線量より少ないという理由でこれらの人々をもはや気にかけてはいない。

核施設からの被曝は自然背景(放射能被曝)よりずっと低いので何とか許容可能だという議論は権利基盤で同様に片付けられる。枝が落ちて下を歩いていた人を殺せばこれは自然災害と見なされる。一方誰かが同じ枝を拾って他の誰かの頭を打って殺すならば殺人になるだろう。損害や死さえも生む事の出来る放射性物質の放出は自然との類比に基づいて正当化する事は出来ない。

更に重要なのは本委員会は推定点の発生源からの人造放射線誘導癌の疫学的特定は被曝及び非被曝集団間の癌発生率の統計的比較に依拠しているという事も特記する。本委員会は核施設からの人造放射性核種の環境内蓄積に関連して放射線被曝の全般的増加がそのような比較を不可能にしている事を指摘する、と言うのは汚染されていない参照集団はもはや無いのであるから。本委員会は1900年以前に存在した水準の自然同位体のみに関わる自然背景放射能の想定に基づいた方法を採用する事を勧告する。

第 4.5節 ICRP:集団線量,制御可能な線量及び正当化

上に記したようにICRPは低線量領域での集団線量(Collective Dose)の概念を事実上放棄して、それを限定的代表人物への被曝線量を考慮する「制御可能な線量(Controllable Dose)」過程に換えてしまった(ICRP2007)。代表個人は今や考慮中の業務を正当化概念以内で考慮されなければならない。起きる放射線被曝の全変化は「代表人物」の被曝量によって正当化されなければならない。代表的人物は決定集団と以前呼ばれていた集団内の平均的な一構成員であるが考慮中の業務の結果この集団は放射線被曝を蒙っているのである。こうして代表人物のリスクがその人又は社会に対する善という観点から正当化される限り公衆の防護は適切だと見なされるよう。万一「社会」という正当化がなければ、これは権利基盤の重点転換として歓迎されるかもしれない。というのも社会への利益個人への利益より優先する状況は多い(実際、医療被曝には全てが隔離されている)のだから。このように ICRPの哲学的基盤はまだ几帳面に功利主義者の陣営にある。その上に最も決定的に被曝した集団内の一個人に集中する事がこの量より低い線量被曝を受け限定的障害で苦しむ何千恐らく何百万の人々を全体的に軽視する事になっているのである。これ等の人々の障害は現実であり、被曝は低くても同じリスク係数が当てはまり、数は遙かに多いのである。本委員会は潜在的な致死的突然変異に対する被曝線量の閾値は存在しないと ICRPが認める事は論理的にも倫理的にも集団被害に対する何らかの処置を要求するものであり、一方労働者被曝を規制する脈絡で制御可能線量の概念を採用することは合理的であるもしれないが集団線量は如何なる経路からでも環境中に放出される放射性核種による欠損を評価する方法として保持されるべきであると信じる。集団線量を放棄する事は明らかに政治的論議操作であり正当化の原理(Justification Principle)に合致しない。それは「遠い将来…被曝線量は集団と個人両者において防護で考慮されるべきである。」(ICRP 1990、第 101節)とする ICRPの前の立場に辻褄を合わせる事が出来ない。

更に、制御可能な線量に関する方法論で「代表人物 」(通常 ICRPでは、参照人)の使用は放射線敏感性の多様性を考慮して「最もリスクを受け易い人」に変更すべきである。例えば、胎児や子供は高圧架線工夫や農民に当てはまるかも知れない「最も被曝した人」よりも低い被曝線量しか受けないかも知れないが、胎児は放射線に対しはるかに敏感でありそれより低いレベルの被曝で病的健康状態で苦しみ得る。同様の考慮は放射線敏感性の個人達にも当てはまる。

第 4.6節 結論

この短い章で本委員会は民間核電力、軍核兵器実験やウラン兵器使用の不可避的な副産物から結果する環境汚染の倫理学的基礎を議論してきた。結果的健康欠損は最極端(医療的介入、放射能研究および技術的使用)の場合を除いてこれらの諸活動を倫理的に正当化出来なくする。もし核産業と軍が妥当な倫理的枠組内で存続しなければならないならば厳粛な問題に応対する必要があり、健康への悪影響を蒙る人達はかつて受けたより遙かに広範に情報を告知され相談される必要がある。これは政治的重要事項である、というのは民主主義では選挙民やその代表者が最善の情報への接近権・方法を持つ事は当然視しているのであるから。放射線リスクの場合には選挙民も彼らの代表者もこれら諸過程による影響、自分の身体の汚染やその結果についての正確な情報への接近権・方法を持っていない。このような状況下では議会制民主主義は機能喪失である。

多くの事例では市民達をぞっとさせるが、それにも拘わらず、彼らは元に戻すのは困難だと分かるのこそ環境破壊なのである。これは資本主義の倫理による普遍的な知的支配の結果であり、ワイルドの言葉で言い換えれば、全ての物の価格は知っているが何物の価値も知らない経済体系の結果である。ミッジリーが指摘するように合理性はもはや人間活動を正当化するのに十分な論議ではなくなった。その限界は子供達が放射能放出の結果として白血病で死ぬ事が避けられないのにその因果関係は否定され、いずれにせよその人数は「絶対的少数」だとする政策決定に暗黙裡に含まれている結論によって明らかである。そのような正当化が道徳的に破産していることは直感的にはっきりしている。もしも我々が経済成長に駆り立てられる世界体系の内側にある価値を越えるように価値概念を広げるなら民間核電力は安過ぎて計れないどころか、実際には高過ぎて容認できないという事が明らかになる。

軍事関連の活動(核兵器実験、ウラン兵器)に由来する中位および超長寿命の放射性核種が環境中に組織的に増加している問題は決して正当化されることが無かったし、したがって功利主義を含むあらゆる倫理体系の枠組みを越えるものと受け取られ得たのだろう。それは汚染の越境性と無差別性からして第二次世界大戦後のニュールンベルク裁判で議論された類型の人道に対する普遍的犯罪と見なすべきである。



中村行明上人弾き語り:だから原発止めよう! by limitlesslife

中村行明上人の弾き語り:だから原発止めよう!

http://www.youtube.com/watch?v=EqTzwRq-WXA&feature=share



たね蒔きジャーナル年末スペシャル 2011/12/30 東電会見に出ているおしどりのお話 by limitlesslife

永岡です、毎日放送ラジオのたね蒔きジャーナル、スペシャル版であり、このコーナーは毎日放送アナウンサーの水野晶子さんの司会、毎日新聞の近藤勝重さんの案内で放送されました。今日はスペシャルで、様々なゲストが出て、7時20分より原発問題で東京電力の会見に出ている夫婦漫才師、おしどりのお話がありました。

ケンさんとマコさんのコンビで、スタジオに登場です。その後の活躍は、闘いはどうなっているかについて、おしどりさん、吉本の所属で、東電、国の会見に出られて、仕事はなくなっていないかについて、「バリバリなくなっている」、マコさん、神戸の出身で(私の高校の後輩)、阪神・淡路を経験し、慰問に来た芸人さんに感化されて芸人になったのです。今年から東京に行き、そして震災、避難所に慰問に行ったのは、阪神・淡路の体験からなのです。福島の30kmのお客さんは様子が異なり、笑わせるだけでなく、取材、会見に出たのです。

入り方は分からず、東電は民間企業で入るのはきつくないものの、国の方は資格を問われて、記者クラブ制度で大変であり、しかし、おしどり対応シフトが出来たのです。マコさん、医学部におられて、ヨウ素剤備蓄しているか聞いて、マコさん、放射線をよく知っていたのです。人生が変わったより、変わらざる人生、本来のものを得ているのです。

冷温停止「状態」の会見、「言葉遊び」で、細野氏、海外特派員協会で、保安院がNRCと論議してやったら、冷温停止は英語でどうなるかといい、コールドショツドダウンエクイヴァレントではなく、疑似(スクイーズシャットダウン)冷温停止と言うことを認めたのです。つまり、「疑似」がないと、外国では通じないのです。言葉遊びになっているのです。

収入は減り、6月にマネージャーから、原発をやると売らないと言われ、しかし舞台はあるのです。この番組に10月に出て、応援してくれる社員もいて、おしどりに仕事をくれたりしているのです。

芸人の危機ではあるものの、ケンさんは原発抜きで舞台に立つことがお客さんのためか、横山ホットブラザーズの弟子で、こいし師匠が1月に亡くなられ、第2次大戦のお話をこいし師匠がして、漫才師も戦争協力があり、芸人は国のためではなく、お客さんのために漫才をしろと言われて、漫才師は誰のためか間違えるなと言われて、原発を言うと仕事が減るものの、そのために言っている。お客さんに子供が多く、子供さん、妊婦さんに逃げてくれと言い、きちんと話をしないといけないとなり、収入は1/6~1/10になったものの、お金が続くならやりたい、芸人で御祝儀もあり、金銭でも応援してくれる人もいるのです。福島の人からのご祝儀が多く、切ないのです。

リスナーで、福島の人とのやり取りも聞きたいとあり、週に何度も福島に行き、年末はあきらめと失望、声が届いていない、負けたよという声があり、一番虐げられている人に大声を出せと言うのが大変なのです。福島のお母さんが寒い中、文科省に座り込み、除染をして住むと言うものの、それを望まない人も多く、住民のアンケートを取れと、5,6月から言っているのに、どこの役所もアンケートを取っていないのです。役所の協力がないと住所が分からず出来ない。除染は放置しても2年後に40%減る、除染しても10%しか下がらない人もいるのです。

芸人は国のためではなく、お客さんのためと言う言葉に感銘を受けました。次のコーナーに行きます



たね蒔きジャーナルスペシャル2011/12/30 内部被曝 矢ケ崎克馬さんのお話(その4) by limitlesslife

永岡です、たね蒔きジャーナル、続いて、内部被曝の専門家、琉球大学名誉教授の矢ケ崎克馬さんのお話がありました。おしどりも同席です。電話での出演です。

矢ケ崎さん、夏に3回出ていただき、(1)内部被曝は外部より怖い、体内に入ると放射線を出して分子を切断し、細胞破壊、生命の機能破壊がある、(2)免疫の低下、(3)細胞が生き延びても、DNAが異常になり子孫に影響がある、ことを説明され、(4)核の被害は広島・長崎で経験しているのに、アメリカが核の恐ろしさを小さく見せようとしていたのです。

具体的ケースが出ており、各地で様々な症状が出ており、東京・町田で被曝から子供を守る会、子供に鼻血が出る(3月以前なし)、医者の診方により、ICRPの見方になり、放射線が鼻の粘膜に留まるとひどい被曝をして、傷もないのに鼻血になる(一般には傷から出る)、被曝範囲が小さいところに集中すると下痢・血便があるのです。東京でこの症例があるのです。

ICRPの見方だと、大線量でないと出るはずはないとなり、放射線の影響ではないと医者に考えが多く、子供たちが見捨てられているのです。ICRP=国際放射線防護委員会のやり方で国もやっているのです。福島で、内部被曝をボディーカウンターで調査しており、これについて、逆用されるケースもある、自治体が二つの要素で動き、安全神話により、被害を考えず、事故の際に原発の対応も出来なかった以上に何もできないが、市民がこれをしてくれと言い、それで動き出しているのです。

ホールボディーカウンターでの検査、安全神話より、何をやっていいか分からない国が、原爆投下以来犠牲者を隠す政策をやっており、ホールボディーカウンターで雑な測定で、検出限界を高くしていることもあり、被曝している人なしとの結果も出せるのです。設定は、1時間測定しないと出ないものを5分でやる、そういうこともあり、出てくるものも出ないのです。体内の放射能の証拠なしとされる恐れもあるのです。

おしどりさんの質問で、ホールボディーカウンター、追及しているが、内部被曝を測定しても経口被曝しか分からず、爆発によるものは分からない、飯館村より、3月15日に放射能が降り注ぎ線量が上がった(プルーム)、汚染のひどいところで、口の中で金属の味がすると100人単位で訴え、後から放射能の味と4月に気付き、しかし検査してもらえなかった、この内部被曝の評価は出来るかについて、放射線プルームはどうかとの質問で、金属の味は矢ケ崎さんも味わった、ヨウ素、セシウムの原子が入ると唾液の作用で電気を帯びて、金属の味になるのです。金属の味=大量の内部被曝、放射性物質なのです。

そして、子供にヨウ素131がどれだけ吸収されたか、半減期が8日で、過ぎると測定不能(測定は8月)、しかしヨウ素の被害はベラルーシ、ウクライナで子供の甲状腺被害がひどく、ポーランド、国民にヨウ素剤を飲ませていた。ベラルーシで亡くなった人の体内の放射能、バンダジェフスキー博士が死体解剖で調査して、甲状腺にセシウム137が大量にあり、初期にヨウ素とセシウムが出て、ヨウ素とともにセシウムに甲状腺に入るのです。

矢ケ崎さん、ヨウ素がないから調べられないのではない、セシウムを調べて、丁寧に測定して出来るのです。

矢ケ崎さん、内部被曝の研究会を立ち上げて、今の学会は外部と内部被曝、後者が隠されている、犠牲者を隠すためで、隠し続けないといけない政治支配があり、政治に支配されないまともな科学を立ち上げて、政治支配=命を軽視、命を大切にしたいのです。

政治に支配されない科学が大切なのです。次のコーナーに行きます。



小出先生 たね蒔きジャーナル2011/12/30スペシャルでのお話(だまされた責任はある、科学は中立ではない、弱者が虐げられることが問題) by limitlesslife

永岡です、毎日放送ラジオのたね蒔きジャーナル、スペシャル版であり、水野晶子さん、千葉猛さんの司会、毎日新聞の近藤勝重さんの案内で放送されました。そして、お待たせしました、小出先生の登場です。リスナーより、たね蒔きは政府の情報が正しいかを確認する場との声もありました。小出先生は電話出演で、データのそばにいたいとの意図からです。自分にしか出来ないことをするため現場にいたいのです。

これから、100万年小出先生のお話を聞かないといけない、事故の収束に、リスナーも生きていない。事故が劇的であったのは3月であり、東電も放射能と闘う力を持ち、これから事故が劇的な進行はなくなると言われました。しかし、それは事故後の対処が正しい場合であり、出てくる情報、「腹の立つことばかり」であったのです。

小出先生、3月11日を敗北と言われて、近藤さん、懺悔してもしようがないと言われて、水野さんはメディアの敗北と言い、これだけの事故が起こらないと、水野さんも小出先生としゃべることはなかったと言われたのですが、これほどの悲劇が起きた歴史が大切であり、小出先生、こんなことが起きないようにと生きてきて、何のために生きてきたか、なのです。

リスナーより、小出先生の言葉は感情が御用学者と違い入っていると指摘があり、小出先生に異端とレッテルを貼っていた、しかし、小出先生には、だまされた人間には騙された責任がある、小出先生は原子力に抵抗してきた、悲劇の前に原子力を止めさせたかった、その責任は自分にある。小出先生が何を言っても皆さんに届かず、国、マスコミと原子力は安全と言っており、だまされたのは仕方ないが、それを認めると繰り返す、騙された責任を考えて欲しいのです。

近藤さん、広島・長崎、そして福島、核の被害の代表が日本であり、日本だけこれほどの目に会っているのに、日本は変わっていない、国の意思が見えないと言うと、小出先生は原子力をやる、輸出すると言っていて、困った国なのです。変わろうと言う意思がないと近藤さん言われて、小出先生は恥ずかしいと言われました。

水野さん、個人は変わっているのに、団体・組織は変わらないと言われ、近藤さん、人災と言われて、なら原子力はやっていけるという理屈になっていると指摘し、小出先生失笑されて、それなら、まずやめないといけない、人間は間違う、人災は必ずある、必ず間違う、原子力では悲惨すぎるのです。人災なら,誰の責任か考えるべきで、個人の責任を処罰すべきと小出先生言われました。

小出先生、日本が変わるとは思わない、絶望され、政治に絶望したのです。近藤さん、政治が戦争をするなど、政治が人を幸福にしたことはないと言われて、その通りで、しかし小出先生黙っていられないが、この国の政治が変わるかは、一人一人がかしこくならないとだめなのです。

戦争中、巻き込まれた国民は圧倒的で、闘おうとした人は思想があり、しかし殺された、原発の中で、どうすることも出来ずもがいている、10年後、戦争中はどうであったと言われると近藤さん言われて、小出先生、戦争中声を上げたら殺された、しかし、小出先生は声を上げても殺されない、声を上げ続けたい、やり続けたいと言われました。

矢ケ崎先生、政治に支配されない科学と言われて、小出先生、矢ケ崎さんはまじめで、しかし学問の世界はそれを許さない、科学は、無色透明、中立と思われるが、実態はそうではなく、社会の中でしか発展の方向はなく、どういうものかしか発展できない、しかし、反対するものとして、存在したい。中立で真実を求めるものではない歴史なのです。近藤さん、核のゴミ100万年どころか、原爆も出来なかったのです。

おしどりさんが来られて、小出先生うれしいと言われて、事故前から小出先生のことを知りつつ、何もしなかったのが恥ずかしいと言うと、そんなことはないと小出先生言われて、おしどりの活動で、デイズジャパンで見て、うれしく思うと言われました。おしどり、原子力の資格をとろうと言われました。経産省は自治体を分断させて仲たがいさせようとしている、弱者が虐げられ、福島に目を向けないと、福島が原発ノーと言わないと言われて、「弱者が虐げられる」ことに、我々がどう向かうかなのです。

リスナーより、小出先生、講演会の会場に入れない人に、事故を防げなくてすみませんと言われたことの意味を国、東電が理解しろと言い、さらに、原発報道が減っているが、たね蒔きは追及してくれというリスナーもありました。小出先生のことで、生き方の変わった人もいるのです。

最後に、RCサクセションの反原発歌を流して、このコーナーは終わるのです。小出先生、この選曲にうれしいと言われました。

2011年、100何回かこの番組で小出先生のお話を追及しました(その他、自分でも小出先生のお話を何回お伝えしたか、覚えていません(笑))。これを、お伝えいたしました。2012年も、この爆後の続く限りフォローします。それが反核運動を30何年続けている私の闘いです。



たね蒔きジャーナルスペシャル2011/12/30 脱原発俳優山本太郎さんのお話、京都へ避難した人とのお話 by limitlesslife

永岡です、たね蒔きジャーナル、この前のスペシャルウィークにも出られた俳優の山本太郎さんのお話がありました。このスペシャル、フォローはここまでさせていただきます。ここから案内は千葉猛さんと平野幸夫さんにバトンタッチです。山本さん、スタジオに登場で、人生は変わったと言われました。

山本さん、チェルノブイリとドイツを訪問され、その時に喋りきったと言われましたが、山本さんにとって今年は、3・11のあと、この国の本当の姿が見えた、知らなかった、知ろうとしなかったうちに好きなようにされていた、そういう膿が見えてきたのです。

山本さん、福島に数十回入られて、避難を考えている人に会い、学校職員とお話もされています。反応は、ネツトでは山本さん「歩く風評被害」と言われ(子供を汚染地帯から出せと言っているため)、しかし、何とか子供を外にと、お母さん、その上の世代の反応は大変なものなのです。

福島市議選、市民派の応援をして、当選できなかったが、聞いていた男性が「悔しい、農業が出来なくなった」と反応したのです。原子力により、たくさんの人が引き裂かれ、大の大人が涙するものなのです。

今日は、福島から、京都・山科の市営住宅に避難されている人の声がありました。52世帯135人が避難され、37世帯が福島からで、そこから二人、福島で被災された方と、茨城から子供連れで避難された人、放射能を避けるため、母子疎開(お父さんは現地、二重生活)しているのです。福島から遠く離れて、実感がない、福島で正月を迎えるべきが、事故以来一歩も進んでいないのです。どうして京都にいるのか、原発から避難のためだけなのです。

3・11以前、まさか京都に来るとは思わなかった、地元の人たちと年を越したかったのです。福島を離れるのは、放射能の恐怖から、子供を避難させるためで、1号機爆発でご主人から逃げろと言われて、16日に水道水から放射能と聞き、やっと集めたガソリンで山形に逃げたのです。これ、山本さん、判断が速いと言われて、御主人が反原発の関係であったからです。その後北海道に行き、GW前まで知り合いの実家にいて、その後福島の喜多方に行き、夏休みにドイツの団体の全額支援で沖縄へ行き、そして京都に来た(5回)、京都は、福島の友達の京都が実家で、知り合いのいるところで、またご主人の知り合いも京都にいて、ここを選んだのです。ご主人の意識の高い人であるのですが、平野さんは、政治の無策である、30万人の人が8万円で寒空に放り出されていると指摘がありました。この人たちに、公的な支援はないのです。

いろいろ回り、子供さんは3回転校し、避難生活をきつく強いているのです。子供はその場に馴染み、病気もせずに過ごせています。しかし、家計は厳しいのです。家族が離れることと、放射能から逃げたいジレンマがあり、御主人と子供の交流が出来ず、究極の選択なのです。御嬢さん、お父さんに会いたいのです。一緒に遊びたいのです。一番パパにいてほしかったのは、風邪を引いたときでした。さびしいのです。友達はたくさんできているのです。

もうおひとり、実家が福島にあり、爆発直後、両親と親戚のため情報を収集し、そうなると茨城も危なくなり、錯綜して、御嬢さんが体調を崩し(鼻血)、北関東の食材がほとんどで、給食も問題、調べて安全と分かってから体育とかと思ったものの、茨城は農業県で、ホットスポットであり、茨城を離れる決め手は、体調不良と、郡山の人が京都に行くと決断し、一緒に行ったのです。同級生で避難を決意した人もいて、出るのは怖かったが(風当たりがきつい、給食も遠いものをと言いにくい)、しかし子供に放射能を与えられず、3月11日以降、誰のことも責められない(東電、政府は別)、一緒に避難したい人はいたのに、農家でしか生きられず、避難できなかった人もあるのです。

平野さんの知り合いも茨城にいて、情報の出方が不十分、政府が暫定規制値を高く設定し、恐ろしいものを食べていた、自分の作物が放射能汚染とは、作った人は信じたくないのです。作付けを許可したのが間違いであったのです。古古米をこの方、確保されているのです。

国、自治体への支援策、自主避難の人すべてに支援してほしい、それで避難できない人もいるのです。区切りなく、茨城、宮城にも被害があり、補償してほしいのです。山本さん、それを除染とすり替えていると指摘し、しかし、除染がどこまで住んだら帰れるか、それは分からないのです。除染は帰る理由にはならないのです。知事が避難者に戻るように工作しており、「冗談ではない」、もう大丈夫だから受け入れを止めろとはムチャクチャなのです。

ここで、「圏内の歌」、10km圏内の意味の曲がかかりました。まだCDになっていないデモ音源が流れました。

そして、山本さんのお話に戻り、山本さん、生の声を聞けて良かった。しかし、福島から出られない人がいて、旦那、家族の了解を得ないと避難できない、避難してもお金が続かない、せっかく避難しても戻らないといけない人がいるのです。離婚になる人もいて、ムチャクチャなのです。健康被害が出たら、家族が崩壊するのです。福島では、山形に避難する人が多いが、北海道、沖縄だと年1回しか会えないので、年末年始、福島に戻る例もある、国が子供を避難させないといけない、チェルノブイリでもあった、しかし、日本は人を逃がさなくなった、人がいなくなると経済活動がなくなり、健康より、目の前の金を国は優先したと言われました。狂っている、切り捨てだ、福島だけでなく、明日の全国の人の運命で、原発震災が起これば全国どこでも20ミリシーベルトにされるのです。ひどいのです。

せめて、自主避難の人に仮払いしろと山本さん言われ、それは安全でないことを認めるため国はやらない、地元選出の国会議員に電話を入れて、救わないといけないと言われました。

平野さん、野田氏が収束宣言で、海外ではスリーマイルは公聴会を公開で10何回やり、市民も質問する、刑事的な責任も問う。日本は情報を隠し、逆に放射能のひどいところに逃げさせられた、刑事事件(業務上過失傷害)であり、国会が国政調査権で問うべきであるのです。国会の調査委員会で調べるべきなのです。

山本さん、チェルノブイリを見て、日本と言う国は何もしていない、自分たちの都合のいい未来を描き、子供に20ミリシーベルトとかして、子供は放射能の感受性が高い。チェルノブイリは年間5ミリで強制移住、その4倍で日本は許容、日本と言う国がはっきりするのです。

チェルノブイリは30km圏内(同心円内ではない)は死の街、立ち入り禁止、検問がある、除染して、土はアスファルトになっているものの、見た目は牧歌的で美しいが、ガイガーカウンターで警告音が鳴る世界で、住んでいた人は避難して、しかし、勝手に住みついている人もいる、94の村が廃村になり、避難先に落ち着けず、この人たち、福島の人にメッセージ、「数値を測定して、納得できるなら帰れ、帰りたい気持ちだけで帰るな」であったのです。チェルノブイリ、健康被害、ベラルーシは17年間独裁で、原発を推進しようとしている、原発由来の病気の蔓延と分かるとまずい、IAEAと結託して、今はチェルノブイリ由来の病気はないとしているのです。

病院を回っても、病気は事故前からと言われて、しかしNGOの人と聞いたら、子供が甲状腺がんであり、実際は病院の話は嘘で、肝臓、腎臓、脳にも来る。医者は、本当のことを言えない、原発推進の独裁政権で言ったらKGBに逮捕される、バンダジェフスキーさん、逮捕されて、国外追放になりました。「病気の花束」、体内被曝が20ベクレル/kgで遺伝子が傷つく、60ベクレルでさらに危険なのです。

平野さん、「チェルノブイリハート」の映画で観たものであり、心臓の奇形は高く、こういう厳しい状況を、日本も公開されるべきなのに、この映画、福島で公開されないのです。国際的に、ジャーナリズムの頑張りが必要と指摘されました。

山本さん、今年1年闘い、脱原発の署名運動をやっており、大阪市は関電の筆頭株主、大阪市民は株主で、東京の電力のために福島が犠牲になった。電気は足りている、発電方法を考えればいい、しかし署名は集まり具合が良くなく、ミラクルを起こさないと難しい。大阪、民度が低いと思われるのが悔しい。署名を集めるのも大変で、関西は福島から遠い、日本海に爆弾がある危機感が少ないと山本さん言われました。原発の是非を野田首相、何もしなかった政治家ではなく、市民が決めたいのです。

しかし、東京でも石原慎太郎氏が当選し、そのため、推進派の勝利もあり得るが、投票は何度でも出来るのです。

山本さん、全国で活躍し、佐賀で事情聴取を受けて、嫌疑不十分ではない、佐賀県庁で請願書を出して、ストレステストで騒ぎを収めようとしているのに知事が出てこない、なら代理人が出てくるべきで、門前払い、怒った人が別の場所から入り渡そうとして、「山本太郎がデモ隊を先導して佐賀県庁に突入」と面白おかしく報じられ、しかしインディペンデントのメディアは事実を報じていたのに、京都の人がテレビを見て告発して、それはいいが、受理する地検はどうか、そんなことなら何でも告発されるのです。告発だけで仕事がなくなることもある、これで山本さん大打撃で、これこそ風評被害なのです。

平野さん、九電の玄海原発、原発が止まっても大丈夫なのに、国と九電が遮二無二に再開したいのはなぜかと言われて、全国の再稼働キャンペーンであり、発送電分離を真剣に考えるべき、原発がないと困るとの脅しではダメ、火力、バイオマスでも電力会社は確保する義務があり、節電を消費者に独占会社が求めるのはおかしい、責任放棄と指摘されました。平野さん、原発がないから節電と言う価値観は捨てるべきと言われて、山本さん感激され、「電力ないない詐欺」、今6基しか動いていない、原発抜きで足りる、ピークを気を付けて節電したらOKなのです。電力ないない詐欺は、原発の利権構造を崩したくない人のやり口で、ドイツでもやられた(サッカーの国際試合で停電した)のです。

そして、水野さん登場で、山本さんはたね蒔きジャーナルで3・11以降の真実を聞けたといい、水野さんは山本さんかっこいいと言い、水野さん映画ファンで、山本さんが温度が高いと言われました。それは、3・11以降の行動で理解できたのです。山本さんは、日本映画界初めて社会にものを言う役者と言われ、自分の信念を貫く人が必要で、山本さんがいい役者と言われていいと言うのです。山本さんは反原発活動家とレッテルを貼られるが、自分では言っていないと言うことです。

これは平時ではいいが、緊急事態であり、来年、いい役者になってほしいと水野さん言われました。しかし、選挙が来年あり、仕事をしていない国会議員がたくさんいる、それを落とすと電話してほしいと山本さん言われました。段階的停止がおかしい(甘い汁を吸いたい人の言い分)、汚染地にいる人をどうするか、これで、大阪、関西の危機にどうするかが分かるのです。次の選挙でダメなら、地震大国、地震の活動期で、もう一度福島事故が起これば日本は終わりなのです。それにブレーキを掛けられるのは市民だけだということでした。被災者を救えるのは人間だけなのです。

放射能瓦礫の拡散、フィルターの機能も不明で、放射能は動かしてはいけない、測定も不明で、東京でも分かっていない、第3者、市民と図って低いなら、受け入れるべきなのです。

これで時間になりました。私の体力の限界も来ました(山本さんのが一番長かった…)。2011年のたね蒔きジャーナルの追跡はこれで終わりです。来年も頑張ります。皆様のご支援に感謝いたします。