日本人の倫理を問う(後)

みなさまへ    松元

【日本人の倫理を問う】(後)

▼倫理と希求を押し潰してきたサム ライ日本

それにしても、これほどまでに嘘と 誤魔化し、隠蔽と 策術に長けた日本人とは何であろうかと思ってしまう。政府と原子力ムラの意向を最優先に報じるメディアの「大本営発表」はたびたび揶揄さ れてきたし、科学 と科学者の信用を失墜させた御用学者の誤魔化しも白日の下に晒された。こうした奸策は、はたしていつごろから日本人に定着したものなの か。

いまだに「維新」をありがたがる風 潮は跡を絶たない が、黒船到来から西南戦争の内乱、そして明治憲法の成立にいたるサムライたちの権力闘争とその民衆統治には姦策が付き物だった。アイヌモ シリと琉球の植民 地化、江華島事件にはじまる対外侵略の過程では目を覆うばかりの、民衆を虫けらのように犠牲にして怪しまない奸計、姦策、陰謀、謀略の歴 史が敗戦まで続 く。

これらの姦策、奸計は、敗戦直後の 昭和天皇自ら保身 濃厚な沖縄無期限貸与発言を含めて、支配層の常套手段であったばかりではない。数多の軍人、官吏、一般市民の卑劣な奸計行為が日本人の他 民族支配の本質を なしてきた。その具体的事例は、例えば朝鮮半島支配の実態、強制連行、軍「慰安婦」、関東大震災時における朝鮮人虐殺のデティールを見れ ば明らかである。 帝国軍隊はさながら人殺しの道場のようであったとしても、戦場に駆り出された兵士たちの目に余る蛮行も一人一人の人間が行ったことだし、 強制連行も、軍慰 安婦の調達、隠匿、使役、その後の隠蔽も、日本人民衆が関わる制度的な奸策なしには為されなかった。戦後憲法制定時の人民規定を「国民」 に限定したのも在 日朝鮮人排除を念頭においたものであったし、今日の高校無償化不適用の画策にいたるまで、朝鮮人に対する一貫したあの手この手の差別排除 の行為は行政権力 だけでなくそれに関わる国家・地方公務員および支持する市民の共犯あってのこと。しかもデティールを見れば明らかな姦策、悪巧みを自民族 の行為として直視 し謝罪したくないものだから、フォーカスをボカしてはついには「なかったことにする」という他者に対する倫理的欺瞞と卑劣さ、ここに日本 人の特質があると 言わざるをえない。それを覆い隠す象徴的遺物はなんといっても天皇と軍隊と靖国神社であろう。高橋哲哉氏は、靖国=沖縄=福島を犠牲のシ ステムと呼ぶ。

日本人の倫理を考えるときもっとも 困難で重要なこと は、いったん民衆から自生した倫理的審査要求が国家形成に継承されることもなく徹底的に押し潰されたことである。幕末からの数多の百姓一 揆を引き継いだ自 由民権運動から田中正造をへて幸徳秋水に至るまでことごとく弾圧され押し潰され小林多喜二の虐殺に行き着く暗黒の歴史によって、日本人の 民衆倫理はついに 国家や天皇を超える自立したものにはならなかった。倫理を教導するはずの諸宗教は、ことごとく教義をねじまげて戦争協力になびいた。

ところで武勇を奉るエートスは、維 新のはるか昔から和人の表の顔でもあった。神武以来8代の天皇に武がつくという逸話もさることながら、坂上田村麻呂の征夷によって謀殺さ れたアテルイとモレの話はじつに9世 紀初頭の話である。コシャマインもシャクシャインも和合を偽っての謀殺である。秀吉の東北アジア征服構想による鼻塚・耳塚はいまも京 都にあるが、クナシ リ・メナシ惨殺後の塩漬けの話は知らない人が多い。アイヌの記憶に耳を傾けると幕末のイシカリ浜民族浄化から明治の土人扱いにいたる まで、和人および日本 人の卑劣、野蛮は、その後につづく琉球人、朝鮮人、中国人に対しても同様、標本のように並んでいる。西洋に媚を売る新渡戸稲造は武士 道を美化したが、「勝 つためには手段をえらばず」、敵に打ち勝ち自分の身内一族郎党のためには姦策・謀略何をしてもよいというのが武士道の本義だった。無 論サムライはオトコ社 会であって、女性は最初から隷属排除されてきた。非倫理の下手人は天皇はじめすべてオトコであった。こうしたサムライのモラルは利益 を目指す企業人エート スに接ぎ木され、武勇は受験、スポーツ、企業競争へのエネルギーとして肉体化され身内への集団主義的貢献、保身と栄達のための克己に 転化してきた。

そうした国家体制そのものは、敗戦 によって清算されたかに見えた。日本国憲法の倫理的自己批判が、このような精神構造を廃棄させたかに見えた。しかし原子力ムラの強固な布 陣が見せているのは、国家制度全体が巨大独占資本に乗っ取られているということだ。60年 もの自民党支配のもとで網の目のような資本系列に加え中央地方の行政組織が利益誘導の潤滑油となって、ほとんどあらゆる企業、労働組 合までもが国策誘導に なびくシステムになっている。大は資本の海外進出から小は地域の土建屋まで、どんな小さな企業や組織で働こうとも企業・組織への貢献 は国家社会への貢献に 連動して無意識化される。だから、無批判な「サムライニッポン」の掛け声が、「絆」がそのまま動員の原動力にもなる。

ここでは、個々人の「倫理的重心 (魂の重心)」は毎 日のメシをあてがってくれる「組織の恩恵」を超えるものであってはならず、それは容易に「国家の恩恵」に拡延されて多くの市民が「国家・ 組織に依存する 個」を脱却できずにいる。こうして組織的隠蔽が正当なものとして扱われ、制度的犯罪、国家犯罪が横行してしまう構造になっているのではな いか。オキナワも フクシマも巨大な国家犯罪である。例えば、隠蔽を暴くはずのメディアの報道犯罪をメディア自身が暴くことができない。カネに縛られている 地方自治体も住民 本位に出来ない。企業や組織に個人の倫理を表現する場はなく、表現したものは組織から排除される。国家の嘘、組織の嘘は、同胞の嘘であっ て、許容し合うと いうムラやサムライの倫理が司法の頂点まで残存支配しているように思える。国家・組織に忠誠を尽くし貢献することによって日々の安楽と将 来の保障を対価と し受け取る構造は、戦前の一枚岩的な国家主義の構造と基本的には変わらない。朝鮮統治時代や南京虐殺最中の当時の新聞をみると、「安楽全 体主義」が粛々と 生きていたことがわかる。

こうして対外的な奸計、姦策、陰 謀、謀略に対する に、対内的な「国家・組織への忠誠」「仲間への監視」というサムライの倫理パターンが受け継がれてきた。戦前戦後と一貫しているこの倫理 無き倒錯は、絶え ず武人としての克己振る舞いを正当化することを属性としている。簡単に言うといつも自分を「よい子」に扱っていたがる。この自己正当化 は、自民族中心主義 の温床となって生きている。

明治以降の他民族支配の歴史をけろ りと忘れ責任ある 謝罪も賠償もなく「平和愛好国民」と思い込む。かつての「一大家族国家」の残影からすぐに「絆」に「領土防衛」に踊らされる。「組織への 忠誠」こそ倫理だ と思い込むところから、組織全体が加害者になっていることにも目を塞ぐ。自分自身が加害者の一端を担っているということにも目を塞ぎ心を 閉ざす。直近の見 本は、がれき処理に反対して不当逮捕された大阪の下地真樹准教授の「学生のみなさんへ」を読めば明らかだ。犯罪を取り締まる警察と検察と いう組織そのもの が犯罪を犯し共犯者を生み出している。組織中心の閉鎖的な視野狭窄世界こそ、島国ニッポンの安楽な居場所となる。

例えば、米国批判の論調にも無意識 に「よい子」があ らわれている。オキナワにせよ、TPPにせよ、F35にせよ、その都度「日米同盟」への従属が、米国の誘導が指摘される。だが肝心の日本 の権力中枢、巨大 独占資本の野望と実態はいつも隠されている。日本の中枢の要望無しには果たされ得ないのに。アメリカが悪いのでなく(無論世界に冠たる悪 だが)日本人が悪 いのだ、とは思いたくない。自己を、身内を、抉ることができない。

こうした組織への忠誠と自己肯定が 日本人と日本社会 の根底にあって、この土壌の上に排外主義と敵視政策が連綿と続けられてきたといえる。朝鮮学校無償化排除が決定し、このたびの核実験後 は、北朝鮮への偏見 とバッシングはさらに一層強まろう。(米韓日の核脅迫外交で封じ込め、戦後一貫して足蹴にしてきた事実に頬かむりして、倫理無き日本人は 怒る。)それに乗 じて日本の軍事拡大化に拍車がかかろう。その準備ともいえるあからさまな情報遮断の秘密保全法が危ぶまれている。ハンナ・アーレントは、 「国家のドグマを 受け容れようとしない者、あるいは何らかの理由から教化の対象から除外されている者すべてに対する、婉曲で間接的な脅迫…ここにはすで に、全体主義テロル の完全に発達した最終段階が顔をのぞかせている」と指摘する。

戦前の対外的な責任を回避する方法 は戦争であった。 戦後は米国の核の傘のもとで札束で責任を回避し、経済の触手が中東、アフリカ、ユーラシアに広がってきたいま、再び軍事力で解決しようと しているのが倫理 無き国家の有様である。過去の遺伝子から容易に全体主義の軍事国家になるだろう。中国だ、北朝鮮だと、絶えず「敵」をつくっては「敵」に 立ち向かうサムラ イ倫理にぴったりと符合する。

しかし心ある日本人の魂は引き裂か れ、「諦め」を乗り越えて魂の安寧を保つことは並大抵ではない。安子ちゃんのように真摯な反省が魂を浄化させ新たな倫理的人格を獲得する という努力は、日本のような社会では容易なことではない。

みなが、「生活」を奪われないため に善意を「誤魔化 して生きる」生活を強いられる。そんな卑怯な生き方が出来ないものは、結局、企業や組織から一抜けたというところで自然農法などで没社会 的に生きるか、家 庭と立身を犠牲にして市民運動に飛び込むか、はたまた幸徳や多喜二のように死を賭してでも闘わなければ倫理に忠実に生きることが出来な い、というところに 追い込まれているのが、倫理無き国家の民衆の在り様なのではないか。国家から独立した個、国家や組織の向こうにある生身の他者がかかわっ ている歴史や未来 に対する責任という倫理本来の在り方を多くの市民が身に着けることが出来なくなっている。この制度全体を支えている、飼い馴らされ抵抗も しない中心部日本 国民の変革無くして、日本民族の未来はむなしい。

いま日本人は、露呈されたこの「ど うしようもないオカシサ」の前にたじろいでいる。日本人全体が「ダメになっている」とささやかれている。仮に一人一人がおかしくなくと も、15世紀のヒエロニムス・ボスが描いたように全体の構図においては普通の 顔の人々が超現実の地獄絵に収まる世界が呼び起こされる。あるいは我が子を喰らうサトゥリヌスを描いたゴヤが…。

▼希望は自然と共に―責任倫理と民 族形成の課題

子どもが外で遊べない、海で泳げな い、川遊びができない、野山をかけっこできない、魚や貝が食べられない、食べ物、空気、飲み水、住まい、触れるものすべてがいつも不安 だ。人類史上、こんなことがあっただろうか。大地に抱かれていた自然への帰属感が根底から揺らいでいる。

事故後の8月、福島県二本松市のゴルフ場が除染を求めて東電を提訴した。そ れに対して東電が「無主物」に対する責任は負え ないと反論し話題となった。言うまでもなく天然自然には誰も所有者がいないというローマ帝国以来の「無主の地(Terra Nullius)」を逆手に取った責任逃れである。挙証責任を被害者になすりつける卑怯な便法である。

この「無主地」に由来する「先占(Occpatio)」 は、世界各地の先住民族を除外し敵視したわずかな国家間の「国際法」となった。自然支配と人間の虐殺・奴隷化・隷属化、さらに人権の 剥奪・侵害が必然的に 交差している原型は、日本列島でサムライの犠牲となったアイヌを含め世界いたるところの先住民族の記憶に刻まれている。先住民は野蛮 人で征服されるべきも のというキリスト教起源の観念はシェイクスピアにも正直に描かれている。この、対イスラームにはじまったカトリック、さらにプロテス タント国に引き継がれ た大規模な植民地時代が、今日の「近代」をつくった。しかし未知の自然と異民族は神が人間に委託した被造物であり征服支配の対象など とは考えないイスラー ムは、この「無主地先占」には与しなかった。西洋植民地主義を可能にしたこの地球支配の戦略は、「自然」への身勝手な定義によって ヴァリエーションを変え て続いている。すなわち、未知の生命体の知的所有権として、遺伝子組み換えの新しい経済支配として。そして原発と核兵器という核開発 による、人工放射線核 種を全地球に拡散しても「自然」には所有権がないと責任を回避する方便として、人間と自然の汚染と破壊と収奪は現在も続いている。

今回の「無主物」発言は、はからず も核時代におい て、数百年も続いてきた植民地主義の継続と資本のグローバリズムが告白されているわけだ。核を軍事と産業の基軸に据えた現代は、科学と技 術の限界というよ りも資本・国家と結合したそのあり方が限界点に達したと見るべきであろう。

とりわけ自然の恩恵を被ってきた日 本は、「公害列 島」および「列島改造」によって罰当たりなほどに自然を毀損・破壊してきた民族であって、さらにフクシマ後「放射能汚染列島」にしてし まった罪は途方もな く深く重い。日本の人民は、サムライの夷狄征伐、維新以降の対外侵略、さらに敗戦後の自然破壊の経済一辺倒という二重三重の過去の非倫理 を乗り越えて未来 を展望しなければならい。

責任とか倫理とかモラルなどと何と 迂遠な話を、とお叱りを受けるかもしれない。しかし倫理とは、過去と未来の歴史を見据えた、たえず現在にかかわる実存的態度決定のことで ある。決断とは断つことである。

福島の事故後、脱原発へと大きく舵 を切ったドイツの 倫理委員会共同委員長マティアス・クライナー氏はつぎのように語った。「私はひとりの父親として自問自答しました。大量の廃棄物を生み、 巨大事故のリスク を抱えた技術を、利用して良いのだろうか、負の遺産を未来の世代に押しつけることが本当に許されるのだろうか、原発の是非は単なる経済の 是非ではなく、倫 理の問題として考えるべき課題なのです。」

倫理無き日本にはこうした委員会も 委員長も不在であ るが、ナチスを生み出したがゆえにドイツには強い知的伝統がある。カール・バルトからボンヘッファーにいたる告白教会の系譜やドイツ敗戦 直後の罪責につい てのカール・ヤスパースの思索などが背景にあってヴァイツゼッカー演説を導いたことはよく知られている。倫理的責任という応答可能性が、 人間の無くてはな らない本質だという認識がドイツおよびヨーロッパには根強くある。こういう普遍的言説空間あるいは精神性が社会的に共有されていない、デ モや市民運動以外 に共有の場がない、というところに日本人の大きな困難性があるといえる。碩学ヤコヴ・ラブキン氏は「みずからの政治について道徳的な問い かけを許容しない 社会は必然的に腐敗した社会となる」と警告している。

事故後の日本では哲学者の高橋哲哉 氏が、この責任に ついて精力的に語っている。ヤスパースの罪責論を下敷きに、福島原発事故の①刑事上の罪、②政治上の罪、③道徳上の罪について的確に告発 している。④番目 の形而上の罪とは、通常一神教における「神の呼びかけ」に応答しない罪であるが、日本にも「天の恵み」に感謝する、あるいは反する行いな どの観念が古くか らあった。

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム の一神教の聖書で は、人間の織り成す歴史と天変地異に神意をみる格闘が描かれている。こうした伝統にあった人々の「形而上」という観念は、神意を帯びた意 味性の領域であっ た。倫理とは、自然との営み、他者との応接、そして歴史や伝統に自己を位置付ける「意味と応答」をめぐる精神の営みであった。神意をどの ように見るかはこ こでは問わないが、自然と他者とを自分のように尊重する伝統が日本にもあった。

例えば「真の文明は 山を荒さず  川を荒さず 村を 破らず 人を殺さざるべし」と説いた田中正造、「森を守る事は人間の暮らしそのものを守る」と説いた南方熊楠、あるいは「循環と調和」と いうエコロジーを 先駆的に説いた安藤昌益のように。そうした際立った達人もさることながら、地域の自然と仲間を守るために立ち上がった無名の農民一揆のダ イナミズムに日本 人の倫理の根源があるような気がしてならない。戦後も自然と地域の内発性の再発見あるいは森と里の思想など日本の自然と伝統の知恵から近 代を超える提言が 続けられている。自然の多様性に包まれて生きてきた東アジアモンスーン地帯でこそ、自然の復権に豊かな未来の可能性が潜んでいるのではな いか。

ついでに言えば、人類はカメラや自 動車を食って生き るわけにはいかない。世界諸民族の生存は、まずもって農水畜産の恩恵なしには立ち行かない。産業革命以降の囲い込まれた工場での賃金労働 を主とした「一部 文明国」の経済から、自然に帰属し自然と共に歩む「人類史的」な経済が土台にならなければならない。福島事故の最初の犠牲者が、牛と共に 生きてきた畜産農 家であったことは痛ましくも象徴的な警告である。

日本にも近代法を超えた「母なる大 地の法」が施行さ れ、新しい倫理的審査基準をつくって人間と社会を形成し直すべきだ。自然との共生にもとづく人権の再定義が、企業法人の再定義が必要とな ろう。教科書も大 幅に書き変えられよう。それはまた、倫理性を備えた日本民族の未来を選択することでもある。先住民族の世界観の復権をともなって、アイ ヌ、沖縄および周辺 諸国民との和解と共生の道へとつながる。倫理の復権は、自然の復権にあると考える所以である。

私たちは、自然を失ったことの「形 而上的な罪」をい まこそ考えなくてはならない。冒頭の安子ちゃんに代わって武藤類子さんが自然を毀損したことの謝罪からはじまる素晴らしい未来への言伝を 残してくれた。彼 女が、責任者を裁く告訴団の代表であることは心強い。繰り返すが、真摯な反省と謝罪、賠償がなくては、日本人はまっとうな倫理的人間にな れない。そのため に「裁き」は不可欠の関門である。革命はつづく…。

2013年2月14日

松元保昭(パレスチナ連帯・札幌)

(後、終わり)

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コメント:倫理は人を共(友)にまとめる理。それが無いのは崩壊・破滅。

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