◇京セラ名誉会長

 

創業した1959年ごろの京都セラミック(現京セラ)は、私が開発したテレビのブラウン管に使う絶縁材料ばかりをつくっていました。他に売るもんがないので、その材料を、国内の電機メーカーや研究所なんかに「こういう優れた性質があります。使いませんか」と売り込んでました。

でも、当時は京都の無名の弱小メーカー。できたばかりの零細企業の材料を使うところなんてありません。うちは住友系、三菱系、三井系ですと、系列の壁があって、相手にしてもらえない。日本では、うまくいきませんでした。

日本企業の多くは米国企業から技術を導入していました。米国に売り込みにいくしかないと思った。採用されれば、「京セラという会社の製品をゼネラルエレクトリック、IBMも使っているらしい。うちも使おう」と考えてもらえると思った。

 

■販路求めて米進出

米国では、良いものは良いと評価してくれた。偶然ではありません。全米を歩き回りましたが、言葉も不自由なのに会ってくれるし、説明したら興味を持ってくれた。繰り返していると「こんなもんをつくれないか」「すぐに試作品をつくってくれ」となる。

当時、米国はトランジスタ技術を発展させた集積回路(IC)の勃興期でした。66年、IBMからIC用セラミック基板2500万個の大量注文をもらった。当時の売上高は5億円でしたが、それだけで1億5千万円。大ヒットしたIBMの大型汎用(はんよう)コンピューターの中核部品。今から考えても、よくあんな注文とってきたと思います。

ただ、受注したのはいいけれど、IBMの仕様は厳しく、何回試作してもはねられた。仕様書は普通なら図面1枚なのが、本1冊分でした。寸法精度も1桁厳しい。京セラにはその精度を測る機器もありません。うちにできるんかと悩んだ。34歳、社長に就任したころです。

数カ月間、滋賀工場の寮に泊まり込みです。2段ベッドで寝起きしましたが、時間はあっという間にすぎていく。無我夢中。やっとのことで試作品20万個を納品できたと思ったら、不良品と判定された。

2年半かかりました。でも、やり遂げるという強い気持ちを持ち続ける大切さを知った。この取引が、京セラの名前を世界中に知らしめました。

 

■IC発展の波乗る

ICがどんどん発展し、米国ではうちがほぼ独占でICチップを保護するパッケージをつくっていました。米国防総省が「ICは米国製だが、不測の事態が起きて、日本の京セラという私企業から部品の供給が途絶えたら安全保障上まずい。京セラに対抗するものを米国でつくれ」と指示を出したほどです。

シリコンバレー半導体企業のほとんどと取引するまでになりました。日本の企業は、半導体やICをつくろうと思って情報集めに苦労していました。大手電機メーカーの人が「シリコンバレーの会社を紹介してください」と言ってくるようになっていましたね。

米国は、やっぱり実力主義。だからベンチャーが育つんです。でも、日本も国や人脈に頼らなければ、できないのではない。「ユニクロ」を起こした柳井正さん、楽天の三木谷浩史さんは、独自の道を歩んでおられる。志とやる気と創造力。日本は閉鎖的なところがありますが、やれる道はあると思いますよ。

(聞き手=編集委員・多賀谷克彦

 

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