昨今、憲法や脱原発の集会で、ノーベル賞作家大江健三郎さんのお話を聞く機会がたびたびある。わりと訥弁(とつべん)で、お話の内容も文学的感性が卓越しておられるせいか、ちょっとわかりにくい時もある。しかし、4月8日の東京・日比谷公園での「解釈で憲法9条を壊すな」という集会でのあいさつは、私にもよく呑(の)み込めた。

「ちょうど100年前に小説家の夏目漱石は「こころ」を書きました」

何を思ったか、大江さんはそんな話から切り出した。「英文学者の漱石は、デモンストレーションという言葉を翻訳して『示威運動』という訳語をつくりました。イギリスでは不平があると示威運動をするから社会が安定していた」と述べ、これから「集団的自衛権」行使に反対するデモに出発しようという5千人を励ました。

それはともかく、大江さんはさらに漱石の話を進め、1914(大正3)年に朝日新聞に連載した「こころ」は「明治時代の精神」を描いたものであること、同年の有名な講演「私の個人主義」で世の中がおかしくなっていると指摘したこと、果たして30年後、日本は大戦争を起こして滅び、漱石の心配が当たったことを語った。

■漱石と大江さんの危惧

さて、漱石は一体何を心配したのだろう。漱石が学習院で講演したという「私の個人主義」を読んでみた。実は「坊っちゃん」の赤シャツは自分だというような面白い語り口に引き込まれていくと、当時の時勢を慨嘆するくだりが出てくる。

「或(ある)人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないようにいいふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙(じゅうりん)しなければ国家が亡(ほろ)びるような事を唱道するものは少なくありません」

「国家は大切かもしれないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取り付かれたような真似(まね)は到底我々に出来る話ではない。…豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、決して国家のために売ってあるくのではない。…自分の衣食の料を得るためである」

漱石にとって、「こころ」で描いた「明治の精神」は殉ずるに値するものであったけれど、その後の国家主義の高進はそれを裏切るものであるということらしい。「国と国とは…詐欺をやる、誤魔化(ごまか)しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)なもの」と断じた。

漱石の小説「三四郎」で、三四郎が上京の車中で広田先生に出会って、日露戦争後の「日本も段々発展するでしょう」と話しかけると、広田先生が「亡びるね」と答えた、そんな思いであったのだろう。

大江さんは、漱石の心配は現代に当てはまると思っているようである。秘密保護法にせよ集団的自衛権の問題にせよ、近ごろ国家の防衛とか国家の発展の話ばかりで、大江さんが生きてきた「平和と民主主義」を旨とする「戦後の精神」が沈みゆく、危ない渦潮のように思えるのであろう。大江さんは79歳、自身がその中で生きてきた「戦後の精神」に殉じたい思いらしい。

山本有三が好んだ「竹」の精神

憲法と作家ということでいえば、毎日新聞の鈴木琢磨記者が発掘した山本有三のことに触れておきたい。

去年の冬、彼はひいきの古本屋で山本有三の「竹」と題する本を見つけた。私も見せてもらったが、100ページ足らずの薄さながら、和紙づくり、青い表紙の品のある装丁である。1948(昭和23)年発行だから、まだ敗戦からまもない。鈴木記者はそれをもとに「日本国憲法の初心」(七つ森書館)という本を書いた。

知る人ぞ知る、「路傍の石」の作家、山本有三は、戦争期の宰相近衛文麿と一高時代で同じクラスの親友だった。戦後、近衛は自殺、有三は貴族院議員から参院議員になって、近衛の果たせなかった新憲法づくりにかかわり、とりわけ憲法条文の口語化に貢献した。有三はこう書いている。

「天智天皇の時に、日本は百済に援兵を出した。その戦争は大敗に終わった。そのとき以来、明治の初めまでの間に、日本が外国を襲ったことが、なんどあるか。秀吉が朝鮮に兵を出した以外には、全然ないのである」

そのうえで有三は、明治以後の軍国主義とか侵略主義とかは「輸入思想であり、模倣である」と弁明している。

であればこそ、武力などは「きれいさっぱりと投げ出してしまって裸になることである。裸より強いものはない」と述べ、憲法9条こそ本来の日本の生きる道と説く。

有三は「桜」より「竹」が好きだと書く。なんで「竹」なのか。

桜はぱっと咲いてぱっと散る。竹は、雪が積もって圧迫があれば、腰を曲げて辛抱している。雪が小やみになると、自分の力で払い落(おと)して、ぴいんともとの姿に返っていく。日本もそんなふうに建て直したい。

さすがに作家の目は時代の先を見ている。山本有三こそ、「戦後の精神」の出発点に位置していたのかもしれない。(早野透=桜美林大教授・元朝日新聞コラムニスト)