◇京セラ名誉会長

 

鹿児島大学を卒業して入った最初の会社が京都市郊外の神足(こうたり)駅(現長岡京駅)の近くにあったもんですから、あまり「京都」という意識はありませんでした。

その後、京セラをつくって、接待するのに街中で食事をするようになった。木屋町の料亭でした。おかみさんが私の発音から京都人じゃないと見抜いて「稲盛さんはどこの出身ですか」と聞かれた。「鹿児島、薩摩です」と答えたら「うちのおばあちゃんが明治維新の時、薩摩の人は粗野で、いやだと言ってましてね」というわけです。やぼったい田舎者の私には、上品な京都とは相いれないと思ってましたが衝撃でした。

でも、時間が経つと、そんなに居心地は悪くない。京都は1200年前から都でした。昔は渡来人として、朝鮮、中国からも多くの人がきて、色んなところに住んでいた。そういう質の違った人々を1千年間も受け入れてきた。様々な人を受け入れてくれる不思議な街ですね。

ワコールを創業した塚本幸一さんから突然「京都の経営者とつきあいあるか」と電話がありました。「いえ、仕事だけして、客先も東京、大阪が中心で、京都では友人らしい友人もいません」と言ったら「そりゃ、かわいそうや。私が主催してる大正、昭和生まれの経営者が集まる正和会というのがある。おれが主催してるから、おまえ入らんか」と言うわけです。

塚本さんとは本当に仲がよくてですね。12歳離れていますから同じ干支(えと)。塚本さんが70歳すぎても、しょっちゅう電話してこられるわけです。「いなちゃん、きょう飲もうか」って。

 

■請われ京商会頭に

塚本さんは京都商工会議所(京商)の会頭もやっておられた。1989年の夏、塚本さんから「副会頭になってくれ」と言われました。「私は何もしませんよ」と言ったんです。そしたら「それでいいから」と言うから引き受けました。

私は経済団体なんかの仕事にあまり関心がありませんでした。仕事に専念しておれば、そんな暇はないはずだと思っていたんです。

塚本さんは会社の仕事もやり、京商の仕事もしてました。94年末に「次の京商会頭になってくれ」と言われた。一度は断りましたが「おまえがせんで誰がやる」と言われ、引き受けました。

就任後は、気持ちを切り替えて「21世紀に持ち越せない問題を、自分の間になんとかしたい」と言いました。一つが京都市と京都仏教会との和解です。

 

■市と仏教会を仲介

《両者は82年、市が寺院の拝観料に課税する古都税構想を表明したために対立。仏教会が85年から3回にわたり最長10カ月間、拝観停止で対抗した。古都税は廃止となったが、88年の市街地での建築物の高さ規制の緩和に仏教会が抵抗。対立は長期化し、観光産業には痛手となっていた。》

私は、97年に得度していたので仏教会の方々とはお付き合いがあった。それで、当時の桝本頼兼市長と仏教会の有馬頼底理事長の間を取り持ったんです。

「低迷する京都の観光を何とかしよう」と呼びかけました。高さ規制には「経済界として、京都駅の北側は保存、開発するなら南側」という方針を伝えた。和解は99年5月、お互いに「感情的なしこりはない」「観光振興への協力を惜しまない」と言ってもらった。塚本さんから引き継ぎ、少しは京都のお役に立てたとほっとしましたね。(聞き手=編集委員・多賀谷克彦

 

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