集団的自衛権の行使をめぐり、戦闘がもたらした犠牲の受け止めに今も苦しんでいる国がある。米国との結びつきが強いカナダと韓国の事例を追った。

 

カナダ 「治安維持」で息子は死んだ

「ジョークだと思った。息子は戦争に行ったのではなく、治安維持活動に行っていたのだから」

16日、カナダ東部の町ボーマンビル。アフガニスタンで治安維持活動中に死亡した装甲兵ダリル・キャスウェルさん(享年25)の遺影を眺め、父ポールさん(55)は大粒の涙を流した。

ダリルさんが亡くなったのは2007年6月11日。国連安全保障理事会決議に基づいて設置された国際治安支援部隊(ISAF)のカナダ軍にいた。当時、たまたま朝日新聞記者の1人がダリルさんの部隊で従軍取材をしていた。

その日の任務は、アフガン南部のカンダハル州北部でタリバーンと戦闘している米国・カナダの連合部隊に、水や弾薬を運ぶことだった。昼過ぎに12両で同州内にある基地を出発すると、数時間後、荒野の一本道で車列が止まった。

「先頭車両が地雷を踏んだみたいだ」。記者が外に出てみると、先頭の装甲車両が地雷を踏み、操縦席が吹き飛んでいた。軍のヘリコプターがダリルさんの遺体を運んでいった。

7年が過ぎた今でも、キャスウェル夫妻は心のどこかで息子のダリルさんの帰りを待ち続けている。「この悲しみは一生消えない」。ポールさんは言った。

カナダはアフガンで今年3月の撤退までに計158人の犠牲者を出した。カナダ軍によると、このうちダリルさんと同じ20代の死者数が98人(62%)で、30代の45人(28%)と合わせ全体の9割を占める。戦場で犠牲になるのは多くが若者だ。

<参戦拒否 若い命代償> カナダは、約9千キロにわたって国境を接する米国に対し、輸出の約7割、輸入の約6割を頼る。北米航空宇宙防衛司令部を共同で運用するなど、軍事的な結びつきも強い。

その米国からISAFへの協力を要請されたのは、米同時多発テロから2年後の03年のことだった。当時、政策決定に携わったユージン・ラング元国防相補佐官によると、同年1月にあった米国との国防相会談で、当時のラムズフェルド米国防長官から「カナダがISAFでリーダーシップをとってほしい」と打診されたという。

この頃、米国は国連安保理決議を経ずにイラク戦争へと乗り出す構えをみせていた。だが、カナダのクレティエン首相(当時)は「カナダが軍事作戦に参加するには安保理決議が必要だ」と参戦を拒否。世論調査でも約7割の国民が首相の判断を支持した。

ISAFへの派兵も、カナダ政府内では泥沼化を警戒する声があった。ただ、最終的には「イラク戦争に参戦しないのであれば、対米関係維持のためにもアフガンには派兵すべきだ」との意見が強まった。

その結果が、158人の兵士らの犠牲としてはね返ってきた。大半が歩哨や補給などの任務中に、地雷に触れて亡くなった20~30代の若者たちだ。

ラング氏は当時を振り返りながら指摘する。「こんな結果になるとは誰も予測していなかった。カナダはアフガンの詳しい情報をほとんど持っていないまま、ISAFへの派兵を決めてしまった」

三浦英之=ボーマンビル〈カナダ東部〉、岡野直)

 

■韓国 経済発展、5000人犠牲の上に

ソウル中心部の丘に広がる国立墓地・顕忠院には、16万を超える戦没者らの墓石が並ぶ。今月6日の「顕忠日」には大勢の遺族が訪れ、花を供えていた。

「我らは英霊の犠牲のうえに、経済発展と民主主義を成し遂げた」。朴槿恵(パククネ)大統領は、顕忠院での演説でこう強調した。

同じころ、約35キロ南の京畿道水原(スウォン)市であった追悼式には、黄圭承(ファンギュスン)さん(67)が軍服姿で臨んだ。

海兵隊員だった1968年から1年間、ベトナム戦争に派遣された。帰国して10年後、皮膚がただれて神経痛に悩まされた。米軍がまき散らした枯れ葉剤が原因だとわかったのは、ずっと後のことだ。

「まともな仕事につけなかった。自由と平和のために戦ったのに政府の補償は十分じゃない」

米国は64年、当時の南ベトナムへの支援を韓国に求めた。朴大統領の父で当時大統領だった朴正熙(チョンヒ)氏は、医療部隊とテコンドーの指導者を派遣。翌65年、米国は北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始し、南ベトナムから要請があったとして豪州ニュージーランドとともに集団的自衛権の行使を国連に報告した。

韓国は65年から「猛虎」「青竜」「白馬」といった戦闘部隊をつぎ込み、73年に撤退するまで延べ約32万人と米国に次ぐ規模を派遣。約5千人が戦死し、約1万人が負傷した。一方、ベトナム戦争に関する特需により、韓国は経済発展のきっかけをつかんだ。

<韓米同盟、無視できず> 韓国憲法は海外派兵に国会の同意を義務づけているが、ベトナム戦争当時、戦闘部隊派遣に歯止めはかからなかった。さらに、朝鮮戦争後も北朝鮮との対立は続き、最大の後ろ盾で「反共」を掲げる米国の要請を断るすべが韓国にはなかった。

歴史学が専門の朴泰均(パクテギュン)・ソウル大教授(47)は「当時の国会で韓米同盟に反対することはタブーだった」と話す。

ただ、60年代から続いた軍事独裁政権が倒れ、80年代後半に民主化を果たしてから、ベトナム戦争を見直す機運が高まった。90年代以降、ベトナム戦争の際に韓国軍による「虐殺」が行われたとする資料なども、個人や民間団体から発表されている。

国会も世論に押され、戦闘部隊の派遣には抑制的だ。91年の湾岸戦争でも米国から要請を受けたが、韓国は医療部隊や輸送部隊の派遣にとどめた。2001年のアフガン戦争、03年のイラク戦争でも、現地に送ったのは医療部隊や工兵部隊が中心だった。

韓国国防省などによると、14年1月現在で国外に派遣された韓国軍は16カ国に約1650人。91年の湾岸戦争から計12人が犠牲になっているが、自爆テロ攻撃によって1人が亡くなったほか、戦闘で死んだ兵士はいないという。

ソウル大の朴教授は指摘する。「ベトナム戦争への参戦は韓国に経済成長をもたらした。だが、米国の要請により戦地に駆り出されたことが、他国からは『金で雇われた傭兵(ようへい)』のように見られていたことが分かってきた。ベトナム戦争の負の側面について、改めて検証すべき時期に来ている」

(ソウル=広島敦史)