「平和の為の核」(原発ムラ作り)の真相

知人友人の皆さんへ
杉浦公昭本日、光栄にも私が友人にさせて頂いている沢田昭二 様から以下のようなメールが届き、

拡散することを御了承下さいましたので、ここに添付資料を付け加えてお送り致します。

戦後、核を巡って日本の科学者や政治家がどのように対応したかの一端が見られるものと期待致します。

お忙しいとは存じますが、何とか時間を作って視聴して下されば幸いです。

視聴後に感想などありましたらお聞かせくださればありがたいと思います。

敬具。

—–Original Message—– From: 沢田昭二

杉浦 公昭 様

活発な情報発信ご苦労様です。

7月5日の夜遅く23:00から24:29までEテレで「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか

知の巨人たち 第1回 湯川秀樹と武谷三男 原子力の科学者の発言」という番組は放映されます。

ディレクターの浜田祐造さんは名古屋に2度来られて番組制作に一部協力しました。

とくに1975年のパグウォッシュ京都シンポジウムの湯川先生の「湯川朝永宣言ー核抑止を超えて」の活躍

と写真と1995年のパグウォッシュ会議広島でのロートブラットへの影響などにかかわりました。

Eテレで深夜ということですがNHKでも真面目に頑張っている方々の作品です。1953年12月のアイゼンハワー

米大統領の”Atoms for peace”演説は核兵器開発競争を継続するための濃縮ウラン製造インフラのために同盟

国に濃縮ウランを用いる原発をつくらせるためでしたが、すでに謀略的に正力松太郎をCIAのスパイ役として

戦犯から釈放し、中曽根康弘を米国に呼んで原発を見学させるなどして洗脳していたときでした。1954年3月

に原子力予算を中曽根らに議員提案させ、1955年に発足した科学技術庁長官と原子力委員長に正力松太郎が

座って日本の原発推進が始まりました。

1954年当時私は学生で原水爆禁止広島学生協議会の実行委員長になり、広島市と広島県の助成金で原水爆展を

つくって、1954年8月6日のまだ原爆資料館がない広島の平和公園で原爆展示をしました。私に相対性理論を教

えて下さった三村剛昂(よしたか)先生は日本学術会議での原子力問題の議論で核兵器開発競争のある中で原

発の開発をすることに反対され、これが「原子力の利用は未完成であるので研究だけに」という日本学術会議

の日本政府への勧告につながりました。

以上のようなことはテレビでは難しいかなと思います。

沢田昭二

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Categories 原爆, 原発

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