「中道」はいま:公明党結党50年/1(その2止) 平和と安保の板挟み 支持者押し切った「PKO」手本に

毎日新聞 2014年08月05日 東京朝刊

 <1面からつづく>

(右上から時計回りに)安倍晋三首相と高村正彦自民副総裁、北側公明副代表、山口代表コラージュ・末松久奈
(右上から時計回りに)安倍晋三首相と高村正彦自民副総裁、北側公明副代表、山口代表コラージュ・末松久奈

6月26日、東京の公明党本部で開かれた中央幹事会で、党常任顧問の市川雄一元書記長が発言を求めた。「これまで『解釈改憲反対』と言い続けてきた党をマスコミは攻撃するし、支持者もいろいろ言ってくる。覚悟はあるか!」。集団的自衛権の行使容認の閣議決定を控えた執行部に、市川氏は鋭いまなざしで警告した。

市川氏は2月以降、一貫して国際主義に基づく現実路線を説いてきた。いわば、尻押し役だが、この日は1992年に党内の慎重論を抑えて国連平和維持活動(PKO)協力法を制定した経験を踏まえ、国民への説明を尽くして難局を乗り切る心得を説いた。混乱を予見してのことだった。

公明党は64年に「中道」を掲げて誕生。安保政策では「日米安保の段階的解消」(67年)、「日米安保即時廃棄」(73年)など「反自民」を基調にした。連合政権を目指し、社会党右派と民社党との連携を中心に模索したが、81年に日米安保・自衛隊容認に転じた。

PKO協力法に賛成したのは非自民・非共産の細川政権誕生の前年。初の自衛隊海外派遣への反発は強く、「1人で300カ所を説得して回った」と幹部は述懐する。当時、安保部会長として市川氏の薫陶を受けたのが、今の山口那津男代表だ。細川政権での与党入りは結党以来の転換点だが、それは「平和の党」の伝統と安保政策のジレンマに苦悩する時代の幕開けでもあった。

自民、自由両党との連立を組んだ99年以降、公明党はテロ特措法(2001年)、イラク特措法(03年)を成立させ、軸足を「親自民」へと移してきた。幹部らはその都度、「社会党のようにいつか自民党にのみ込まれ、つぶれる」などと支持者の厳しい批判を浴びた。

「結党当初の方針を少しも変えないというかたくなな対応はバランスを失い、国民・大衆の共感を得られない」。山口氏は「中道」は柔軟なバランス感覚が重要だと説く。支持者の反対を押し切りながら、今や「成果」とされるPKOの対応が手本だ。執行部は集団的自衛権への対応も「後世が評価してくれる」と「成功」の再現に期待を寄せる。

「歴史の審判にも十分堪え得る」。市川氏は山口氏らの対応に「合格点」を出した。しかし、全面的な集団的自衛権行使や海外での武力行使の懸念もはらむ閣議決定が党の評価を高める保証はない。

集団的自衛権をめぐる与党協議の責任者だった北側一雄副代表は協議のさなか、自らに言い聞かせるようにつぶやいた。「今の公明党は右からも左からも責められ、批判される。でも多分それが正しい道なんだ」。その言葉は激動の時代によりどころを模索し、もがく党の姿と重なる。

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