「おじいちゃんの原爆体験」。表紙にこう書かれた画用紙の束を机の上に置いた橋川武士(たけし)(90)は、うれしそうにほほ笑んだ。そばに長男夫婦、孫2人、ひ孫3人、今春に生まれた玄孫(やしゃご)ら計9人。広島県世羅町の武士の自宅に先月末に集まった橋川家5世代のまなざしが、画用紙に注がれた。

「顔の皮がぶらさがり、目はつぶれていました」

40枚ほどある画用紙を武士の孫・小松裕衣(ひろえ)(34)がめくり、読んでいく。23年前、小学5年生だった裕衣が社会科研究で作った武士の体験記。武士から聞いた原爆の惨状を描いた。

その裕衣の隣には、長男の修也(しゅうや)(9)。武士のひ孫にあたる元気盛りの小学3年生だ。だが、この時だけは神妙な様子で言葉の意味をかみしめていた。

1945年8月6日朝。米軍は原爆を広島に落とした。強烈な閃光(せんこう)と爆風、熱線。爆心地から約2キロ離れた陸軍工兵隊の兵舎にいた武士は吹き飛ばされた。

武士はやけどを負ってむずむずする顔を洗おうと、川へ行った。水面に映った顔は左目がつぶれ、頭の皮がめくれて垂れ下がっていた。気が遠くなる自分を奮い立たせ、小高い場所へ。市街地を見下ろした。

「やけどの人がいっぱい、しゃがんだりころんだり、うなっていました」

修也が声を上げた。「信じられん」。体験記を読んでいた裕衣が語りかけた。「おじいちゃんが原爆に遭って、それでも生き残ってくれた。だから、みんながこうしておるのよ」

裕衣は武士の体験記の最後に「二度と起こらないよう、平和であることを大切にしたい」と書いた。修也の前で23年前の誓いに改めて触れた裕衣は「おじいちゃんのこと、もっと修也に話そう」と決めた。その姿を見つめていた武士は画用紙の束を手に「うちの財産だ」と目を細めた。

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越智晴子(91)。札幌市立大で6月末にあった平和の講義で150人の学生を前にマイクを握った。「生かされた命。お役に立てばと思って話しています」

69年前。22歳の主婦だった。広島市の実兄宅を訪れていた時、原爆が炸裂(さくれつ)した。越智は家の下敷きになり、ガラス片が体のあちこちに突き刺さった。

終戦後、夫の故郷の札幌に移り住んだ。36歳の時、北海道被爆者の会ができた。原爆放射線を浴びた影響と思われる病気に悩んだり、早くに子どもを失ったりした被爆者と出会った。会長となった後はひと月に1回は学校や集会で話すようになった。

だが、今も核兵器はなくならない。核の使用につながるかもしれない争いは世界で頻発する。「戦争はだめ」。越智は札幌市立大の学生に語りかけ、こう締めくくった。「死んでいった人たちが報われません」

越智の姿をまっすぐ見つめていた中里森人(19)が言った。「69年前に起きたことを見つめ続けていく。それが凶悪な兵器を食い止めることにつながれば」。越智の思いは届きつつある。=敬称略(おわり)

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