永岡です、サンテレビのニュースPORTで、久々に震災20年特集、今年10月に開設された神戸市の震災20年特別サイトと、それに関わるお話です(しかし、選挙が1月にあったら震災のことは報じられなかったところです)。
http://1995kobe20th.jp/
震災の教訓を発信するサイトで紹介されていて、震災の記憶を継承し、下水道局の畑さんも紹介され、東灘処理場、夜中の3時からダンボールを敷いての作業、処理施設は100%停止し、行き場のない汚水処理で、下水道の関係者は頭を悩ませ、下手したら伝染病も懸念され、なら町を下水で汚染させてはいけない、そしてトイレも水洗は使えず、マンホールから溢れていたのです。
町の混乱を防ぐため、隣の運河を仮の処理場にすることで、そこをせき止めて、近隣住人に、においなどのことを納得してもらうのが大変だったというのです。それで、住民の理解を得て、100日後、処理場が仮復旧し、運河の仮施設の役目は終わりました。
畑さん、自然に立ち向かえなくても、自然と共存する教訓を得たと言われます。
震災から3年、東灘処理場は本格復旧し、震災で出来たスペースは遊歩道になり、震災で出来たところは、市民に喜んでもらえるようにと活用されました。
下水処理場を使ったせせらぎも好評で、アーモンドの木も市民の憩いになっています。春先は静かできれいだと、好評です。
震災から数年後、畑さんは震災の対応をまとめたファイルを作り、もし何かがあれば、神戸の経験を全国に伝えるのが神戸の責務と言われます。ここは、神戸市の下水道局に置かれて、2004年の中越地震の際に参考にされ、役に立ちました。
ファイルの背表紙に、どこかで大地震があれば、これを持って応援に行くとあり、神戸は全国からの恩返しをするべきとの使命感を、畑さん語られます。今後の災害時に、市民と神戸市が一緒になり取り組むべき、一緒になり街づくりをと言われます。
このサイトに、今年度に60人の証言が掲載されます。今は23人のインタビューで、震災の記憶があります。
あと1ヶ月で阪神・淡路20年、その記録をお送りいたしました。
http://1995kobe20th.jp/
震災の教訓を発信するサイトで紹介されていて、震災の記憶を継承し、下水道局の畑さんも紹介され、東灘処理場、夜中の3時からダンボールを敷いての作業、処理施設は100%停止し、行き場のない汚水処理で、下水道の関係者は頭を悩ませ、下手したら伝染病も懸念され、なら町を下水で汚染させてはいけない、そしてトイレも水洗は使えず、マンホールから溢れていたのです。
町の混乱を防ぐため、隣の運河を仮の処理場にすることで、そこをせき止めて、近隣住人に、においなどのことを納得してもらうのが大変だったというのです。それで、住民の理解を得て、100日後、処理場が仮復旧し、運河の仮施設の役目は終わりました。
畑さん、自然に立ち向かえなくても、自然と共存する教訓を得たと言われます。
震災から3年、東灘処理場は本格復旧し、震災で出来たスペースは遊歩道になり、震災で出来たところは、市民に喜んでもらえるようにと活用されました。
下水処理場を使ったせせらぎも好評で、アーモンドの木も市民の憩いになっています。春先は静かできれいだと、好評です。
震災から数年後、畑さんは震災の対応をまとめたファイルを作り、もし何かがあれば、神戸の経験を全国に伝えるのが神戸の責務と言われます。ここは、神戸市の下水道局に置かれて、2004年の中越地震の際に参考にされ、役に立ちました。
ファイルの背表紙に、どこかで大地震があれば、これを持って応援に行くとあり、神戸は全国からの恩返しをするべきとの使命感を、畑さん語られます。今後の災害時に、市民と神戸市が一緒になり取り組むべき、一緒になり街づくりをと言われます。
このサイトに、今年度に60人の証言が掲載されます。今は23人のインタビューで、震災の記憶があります。
あと1ヶ月で阪神・淡路20年、その記録をお送りいたしました。