毎日新聞 2015年02月14日 東京朝刊


物音一つ、聞こえてこない。「どうすればこの子を死なさずにすんだのか。母親失格だな……」。東京電力福島第1原発事故により、日中の出入りはできても寝泊まりが禁じられている避難区域の自宅で、50代の母親はうつむいた。原発事故から2年以上たった2013年、大学4年生の息子は、下宿先がある関東地方で自殺した。22歳の誕生日だった。「原発事故さえなければ、死ぬこともなかっただろうに」と声を震わせた。
高校時代、息子の部屋は同級生のたまり場だった。大学に進学してからも、帰省すると友だちと会うのを楽しみにしていた。だが、原発事故で多くの友人が避難し、離ればなれになった。「自分は関東にいて苦しい思いをしてないのに、福島に残った友だちに会っていいんだろうか」。疎遠になっていった。
12年1月の成人式に帰省した。自宅周辺は当時、立ち入りが禁じられた警戒区域だった。人の姿はなく、商店や家は地震で壊れたまま。息子は「異次元に来ているみたい」と言った。「まだ家に帰れないの?」と尋ねられた母親は「まだ帰れないんだよ」と答えた。
命を絶った時、息子は就職活動の真っただ中だった。大学の友人たちは次々に地元で就職口を見つけていた。母親が1人で避難していた1LDKの借り上げアパートに、息子は時々、就職先を探すため身を寄せた。はじめは忙しそうにしていたが、しばらくすると寝間着のまま過ごすようになった。「こっちは除染関係の仕事しかないのかな」
福島にこだわる理由があった。震災前に地元で就職し自宅で暮らしていた兄が、原発事故で会社が被災したため県外に転勤した。兄は10代近く続く土地と家を継ぐ予定だった。息子は大学の友人(23)に「兄ちゃんが実家を出たから、自分が福島に戻った方がいいのかな」と相談していた。そのことを母親が知ったのは、息子の死後だった。
13年の正月、息子は戻ってこなかった。「まだ(避難先の)アパートなんでしょ。帰りたくない」。気になって下宿先へ様子を見に行くと、きちょうめんだった息子の部屋が、ごみや服で散らかっていた。「仕事を辞めてでも息子にもっと寄り添っていれば、死ななかったかもしれない」。涙がこぼれる。
亡くなる約1週間前、携帯電話にメールが届いた。「お母さんが苦労しているおかげで、自分の今の生活があるのだと感謝しています」。遺書はなく、これが最後のメッセージとなった。
母親は息子を失った後、仕事を辞めた。昼間は毎日のように避難区域へ行き、高校の制服姿の息子の遺影に見守られながら、自宅の掃除をして過ごす。息子の月命日には、亡くなった場所で線香を手向け、近くのベンチに独り座って息子に近況を報告する。【小林洋子】