毎日新聞 2015年02月14日 東京朝刊
科学者は専門世界に閉じこもらず、国民に全て伝えよ。森さんは彼の根にあるこの考えを、米占領下の1950年にすでに書いている。トルーマン米大統領が水素爆弾製造を指令したのを受け、雑誌「自然」8月号の編集後記でこう記した。<わが国の物理学者といえども、水素爆弾について出来うるかぎり、民衆につたえる責任を忘れてはならない。かくして世に盛んなる「平和論議」に科学性をもたせることは科学者の任務である>。政治家や国にではなく、科学者に公開原則を託した形だ。
中公の同期入社で「中央公論」の編集者だった橋本進さん(87)は「僕は科学に弱いから森さんの仕事はわからなかったけど、当時は占領軍の検閲がひどくて、緊張感、警戒感の時代だった」と振り返る。「『違反したら沖縄で重労働させられるぞ』と上司に言われ、占領軍をいつも意識してました。敗戦で軍国主義の正体を知るわけですが、ああいう戦争をやらせちゃいかん、民主化だ、と言っても、占領軍は『その民主化は行き過ぎだ』と弾圧する。民主革命をどうすべきかという座談会をやると掲載禁止になる。油断している暇はなかった」
森さんは、当局も学界も黙っていれば隠すと考えたのか、繰り返し「公開」を説いた。日本学術会議が53年に開いた委員会について、学者の集まりにせず<国民との結びつきを強くするように努力すべきである>(「自然」54年6月号)と公聴会ではない積極的な公表を求めた。研究についても<兵器の研究はすべて行わない><完全に公開で行われて秘密の制限を受けない>重要さを説く。
だが時と共に、学者への失望に変わる。54年3月に起きたビキニ事件の被害調査では学術会議を糾弾した。<日米合同調査に持込もうとする政府側に、学術会議出しゃばるな、といわれておとなしく引下ってしまった(略)学術会議は諮問機関であって実行機関ではない等といってすましていられない問題である>
<(米)大使の声明“日本の専門家の意見では(被ばくした第五福竜丸の)23名の患者は軽症である”と思いあわせて、原爆症の治療さえ秘密にされ始める徴候がある(略)唯一の道は、学術会議がもっと積極的に乗り出すことであった><(当時の吉田茂政権の岡崎勝男外相は)学者も秘密保持には協力してくれるだろう等という発言をしている。ここで屈服したら、原子力研究に公開の原則を守ることなど到底不可能となってしまうであろう>=次回は17日掲載<文 藤原章生>