南半は英国が取るという山分けを、秘かに取り決めていた。
この協定が、ロシア革命の勃発によって白日のもとにさらされた。
ロシア帝国外務省の金庫にあった秘密文書が革命政権の手で
世界に向けて暴露されたのだ。
自由を守る戦いと言っていた英国首相は議会で戦争目的を
説明し直さなければならず、米国のウィルスン大統領は汚い戦争
に関わってはいないという身の潔白を証明するため「十四カ条」
の原則(無併合・無賠償、秘密条約反対、国際連盟設立など)
を発表しなければならなくなる。
サイクス・ピコ協定によってフランスの勢力下に入るはずだった
北イラクには、モースルやキルクークの地下に石油資源が眠っていた。
第一次大戦終結とともに、英国はフランスの取り分と予定されて
いた北イラクをフランスから取りあげ、北と南を合わせてイラク
という国をつくり、英国が国際連盟の委任統治という名目で
これを支配することとした。
私は、パリ講和会議でロイド・ジョージ英首相がクレマンソー
仏首相と談判して、テーブルを一発叩いたら、イラクという国が
出来たようなものだ、と説明している。
英国はフランスに北イラク石油の取り分を保障することによって、
この変更を実現した。
一九二〇年、連合国が開いたサンレモ会議で、イラクという国の
枠組みとこれを英国の委任統治下に置くこととが承認される。
連合国の一員としてサンレモ会議のメンバー国だった日本は、
イラクという国の組み立てに責任を負うべき当事国の一つ
だったのである。
第一次大戦でドイツの同盟国だったオスマン帝国は敗戦とともに
起きたトルコ革命を通じてトルコ共和国へと変身する。
それは一九二〇年連合国が押しつけた屈辱的セーヴル条約を
いったんは受け容れなければならなかったものの、二三年には
トルコの独立を確保するローザンヌ条約を結び直すことに成功した。
だが、このローザンヌ条約によって、クルド人はセーヴル条約で
約束されていた自治権を否定され、彼らはトルコ、イラク、イラン
などに分断されることになる。
トルコはクルド人の多い北イラクに対する権利を主張したが、
英国はこれを抑えた。
モースル地方などのイラク帰属がやっと決着するのは、一九二六年である。
すなわち、イラクという国の形が最終的に確定するには、
サンレモ会議から六年を要した。
クルド問題はイラク国家の最大の不安定要因であり、
中東諸国体制の全体を揺るがす可能性を秘めたものである。
イラクという枠組みに組み込まれたクルド人は、複雑な条件のもとで
抵抗しなければならず、トルコ・イランはもちろん、
ソ連・イスラエルなどさまざまな外部勢力の浸透や干渉と結びつき、
その結果いっそう苛酷な抑圧に直面してきた。
「やがて歴史は対イラク戦争をどう裁くか」
板垣雄三著「イスラーム誤認」143-144ページより
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