毎日放送ラジオ 特別番組 燃え尽きた春…大阪大空襲から70年(2015/3/30)

永岡です、毎日放送ラジオの特別番組で、大阪大空襲から70年、浜村淳さんの司会、大阪大空襲の体験を語り継ぐ会代表の久保三也子さんのお話がありました。1945年3月13日の大空襲を、ラジオドラマで再現です。ナレーションは森本栄浩さんです。この番組のために、TSUKEMENがテーマ曲を作曲しています。

(昨夜の放送を再生して書き起こししました)

3月13日深夜に B29が274機来襲、14日、梅田から、4km離れた難波の百貨店が見えたというのです。その大空襲の模様の特集です。戦争の中、人々がどう生き抜き、命、平和の尊さを考えるものです。

久保さん、1929年生まれ、敗戦時16歳、浜村さんは10歳で、空襲を語る会、73年から語り継ぐ講演をされて、去年は43の学校で講演されました。戦争当時、大阪・野田・福島(梅田の、JR、阪神で一駅西)におられて、戦争は女学校の時に始まり、当時の少年少女は、小学4年で日中戦争、太平洋戦争で、1年目は英語も学べたのに、敵性語として学べなくなり、紀元2600年、心は華やぎ、日本は海に囲まれているから戦場にならないと言われて、軍部もマスコミも言っていたのに、一部の大人は、この戦争、資源もなく、アメリカやイギリスに負けると、小さな声でいい、久保さんの父も、小さな声で、アメリカは強く、2年持つたらいいと母にいい、久保さん国賊みたいな親だと、軍国少女、生まれてから戦争ばかり、何と言う親だと思われました。

しかし、浜村さん、アメリカ映画、トップハット(1935年)、こんな映画を作る国に勝てない、その後、ディズニーの白雪姫、風とともに去りぬ(1939年)、1941年の開戦で、これらの映画を観たら、アメリカに勝てないと思ったのに、暴走した軍部を止められず、大阪の空襲は1944年に始めてやられて、18発落とされ、これは新聞にも出ず、大阪市内は45年1月にやられ、これも近くの人しか知らない。

大空襲は45年3月、空襲は初めてで、当時野田におられて、大変なことで、焼夷弾が滝のように落ちて、開いてバラバラになり、1平方メートルに3発落とされ、怖いを越えて、姉妹であっけにとられて、高射砲は当たらず、物量は違い、飛行機が山のように来て、新聞は90機来襲と書いたが、実際は274機。

空き地に防空壕を掘り、家に掘ったところもあり、近くで5人は死んだ。

 

この、空襲、ラジオドラマによる再現があり、野田みち子さんの、命運んだ謎の地下鉄というものが、ドラマで再現されました。戦争を生き抜いた三姉妹のお話です。

1941年12月8日、真珠湾攻撃で、三姉妹は当初喜び、その頃、家族は大阪西区の北堀江にいて、父は学校の先生、5人家族で幸せであり、しかし戦争で世の中は変わり、1937年の日中戦争は泥沼、日本は追い詰められて、太平洋戦争に突入、日本の暗黒の始まりでした。

やがて、学校の教師にも召集令状、どこに行ったか、分からず、そして1945年3月13日、この一家に、疎開していた姉が帰ってきて、家は賑やかでした。父は、外地に出征、どこにいるか、分かりません。太平洋戦争から3年以上、日本は追い詰められ、3日前は東京大空襲、前日は名古屋もやられました。

ところが、夜に、B29編隊が紀伊半島から大阪を目指して飛んできて、空襲警報、夜の11時半、服を着たまま寝て、靴は枕元に置き、そして、防空壕に入れと母はいい、その時、警戒警報→空襲警報になり、家を出て、防空壕に入ろうとしたら、母は祖父母の位牌を忘れたと、家に戻り、それが、母を見た最後になりました、母は家に戻った時、爆発で、家は焼夷弾に直撃されたのです。

大空襲の夜、逃げ惑う人たちは、どんなことがあっても生き抜くと、三姉妹は、母とはぐれ、大阪市内を、姉妹だけでさまよい、どこへ行ったらいいか分からず、どこもかしこも火の海、家を離れて、空襲の続く町をさまよい、川には空襲を逃れた人たちが入り、どこも燃えている。

それで、親戚のいる天下茶屋(天王寺の南、朝ドのふたりっ子の舞台)に逃げようと、周囲にいたおばあさんが、声をかけてくれて、今のアメリカ村にいたおばあさんが声をかけてくれて、ここは風向きの関係で火は来ておらず、まんじゅうを食べさせてもらい、こたつに当たらせてもらった。

しかし、空襲は続き、この家にもいつ空襲が来るか分からず、なら、天下茶屋への避難、電車もバスもなく、しかし、地下鉄は動いている可能性があり、息子さんは地下鉄に電気を送る変電所にいて、今夜は非常時といい、地下鉄の心斎橋に行き、しかし、おばあさんは、住み慣れた家から出たくないと、心斎橋に残られました。

空襲は続き、火の粉が舞う中、地下鉄の駅にたどり着き、イチョウの木は燃えて、大丸も、そごうも燃えており、地下鉄にたくさんの人たちが逃げてきて、この大丸、家族で訪れた百貨店もやられました。昔の思い出も、つらいものです。

その際に、地下鉄の駅員が、構内に誘導して、地下鉄の駅に導かれ、ホームに降りて、そこには煙も熱もなく、照明もあり、人々はホームに座り込み、姉妹の顔はすすで真っ黒でした。

そして、地下鉄が走ってきて、梅田へ行けて、けが人を先に乗せ、地下鉄は姉妹を乗せて梅田に行き、助かったのです。

大阪大空襲、火の気のない地下鉄心斎橋駅、炎の町にいた避難者の、多くの命を守り、地下鉄は無事梅田に着いて、目的地のない人は、近くの学校が受け入れてくれて、曽根崎国民学校で、炊き出しのおにぎりの味は忘れられず、ここで3日間お世話になり、再び地下鉄で、天下茶屋に行き、そこは空襲の被害も少なく、ようやく祖母の家で落ち着けました。

そして…敗戦、1945年8月15日、敗戦後2年目、父がボルネオから復員し、父は男手ひとつで、三姉妹を育てました。

この、三姉妹を助けた地下鉄、不思議な思い出で、なぜ地下鉄は動いていたか、姉妹はその後、高校で、戦争時に、叔父が地下鉄の配電係、大勢の人を救うため、シャツターを開けて、避難者を地下鉄の駅に入れてくれたと知り、叔父の知り合いの、大阪市電気局の人が、地下鉄に電気を送ってくれと、指示を出してくれた、この人たちのおかげで、助かったのです。

この叔父さんは地下鉄の会社を辞めて、自分で会社を作り、あの夜、多くの人により、姉妹は助かりました、地下鉄のおかげで三姉妹は生き延びられ、今はおばあちゃんですが、今も元気に、そしてよく生き延びたと話し合い、もう戦争はいやと語り合うのです。

そして、今も、大阪の地下鉄は動いています。そして、決して、この夜のことは忘れてはいけないのです。

 

再び、久保さんの体験談、大阪は50回!空襲に会い、100機以上の大空襲は8回、最後は7月の末に、湾岸の工業地帯もやられて、8月14日にも森ノ宮も1トン爆弾を落とされ、民間→工場、敗戦ギリギリまで攻撃され、これまで潰すべきとアメリカにやられ、恐怖。

そして、空襲で逃げて、たくさんの人が川へ落ちて流され、運河の橋でみんな息絶え(煙で窒息)、交通局の庁舎(今の大阪ドーム付近)に黒焦げの人が集まり、久保さん一人で逃げて、他はみんな殺され、防空壕は黒焦げ、どこをどう歩いたか、記憶がない。

地下鉄で助かった人もあり、満員で、梅田までノンストップ、8月15日、日本は負けて、軍人たちは日本は最後まで戦うという始末。先生はおらず、寮も追い出され、結局朝一番、京阪電車で帰り、始点の淀屋橋は焼け野原の地獄図。人間の肉片がこびりつき、動員された人たち、今は体験を語り、9月一杯バケツで骨を拾ったのです。

この方、亡くなるまで躁鬱で、75歳で亡くなられました。

1947年に日本国憲法が出来て、久保さん戦後栄養失調、呼吸器が火薬工場にいたためやられ、戦後2年、焼け跡でどう自分が生きていたか分からず、そして憲法が新しくなり、明治憲法と異なり、平和憲法だけでなく、国民主権、命令していた人たちが憲法を守らなくならなくなり、戦後2年の久保さんに新鮮なものでした。

新憲法公布の、大阪の食糧事情は、戦時中より悪く、買い出し+闇市、1947年は月給15000円、米が1800円、そんな中闇米も何百円で、しかし食べるのは大変。焼け跡で野菜も、種がなく育てられない、淀川の河川敷で雑草を取って食べた。

久保さん、こういうお話をされて、たくさんの人が亡くなり、思い出すのも悲しい。

久保さん、1973年から40年以上、学校で戦争体験を語り、大阪府下の中学校で講演、これを聞いた中学生、戦後70年、平和を考える中学生に、久保さんのお話、年間43の学校でお話をされて、子供たちの感想文、先生も感想を書いて、中学生の感想、久保さんの見た、みんな死んで置いていかれたという言葉が印象に残り、平和が大切、修学旅行で長崎に行き、平和を学びたいと書いた。

さらに、道徳の時間で大阪空襲を学んだが、久保さんのお話の内容は大きく異なり、戦争のことを生々しく、恐ろしく感じ、焼夷弾で明るくなるほど恐ろしく、戦後の遺体の処理を女学生がやったことへの思いいれ、久保さんが戦時も、今も生きていることも感慨深く、忘れてはいけない、16歳で戦争の部品を作っていたとは信じられず、自分にはできないという感想もありました。

毎日、穏やかに暮らせるのは日本だから、世界では戦争が起こり、日本が戦争に引きずり込まれるかも知れず、しかし平和な日本を守りたいなどの感想文で、久保さんも感動され、久保さんも講演を続けられてよかった、まだ語り続けないといけないと語られ、浜村さんも、戦争を繰り返してはいけない、戦争体験を語ることは大事と言われて、久保さん、浮浪児は靴磨きといわれるが、占領軍のものをやったので、日本人はわらじ、学徒動員は断れず、断ったら生きられなかった。

浜村さん、疎開、学徒動員などは死語になり、注釈がいり、これはいいことなのか、この平和が続く保障はなく、だんだんきな臭く、今の平和を続けたいと言われました。

久保さん、子供たちが懸命に聞いてくれて、励まされ、感想文を読むと、続けないといけないと締めくくられました。

大阪大空襲のことは、うずみ火の矢野さんの報告もありましたが、今回は、空襲を語る会の方の証言他をお送りいたしました。

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