特集ワイド:「核なき世界」への願い、本に 名物編集者2人 広島・長崎・福島の大学生も制作に参加

毎日新聞 2015年04月21日 東京夕刊

完成した本を見ながら思いを語る小沢一郎さん(左)と島本脩二さん=東京都文京区の講談社で2015年4月13日、徳野仁子撮影
完成した本を見ながら思いを語る小沢一郎さん(左)と島本脩二さん=東京都文京区の講談社で2015年4月13日、徳野仁子撮影

「核なき世界」へ−−。原爆が投下された被爆地にある広島大、長崎大、原発事故が起きた東日本大震災の被災地にある福島大の学生らの願いが一冊の本になった。「No(ノー) Nukes(ニュークス) ヒロシマ ナガサキ フクシマ」(講談社)。手がけたのは大ベストセラーを世に送り出してきた2人の名物編集者だった。【鈴木琢磨】

「なかなか突っこんだことをしゃべるんだ」。講談社で児童図書の編集をしている小沢一郎さん(57)が、テレビから流れる長崎市の田上(たうえ)富久市長の「平和宣言」に感じ入ったのは2013年8月9日のこと。市長は言った。「若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。『ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ』と叫ぶ声を。あなた方は被爆者の声を直接聞くことができる最後の世代です」

その年の11月、小沢さんは長崎にいた。長崎市民らが開いてきた「核兵器廃絶−地球市民集会ナガサキ」が気になった。「ナガサキの声を継承する若者の分科会に参加したんです。スマホにかじりついてばかりいる学生と違う。自分にできることを探している。打たれましたね。私も3・11からずっと探してて」。集会の終わり、それぞれの思いを紙に書いてステージのボードに張り出した。小沢さんは迷わなかった。<平和について考える本をつくりたい>

「小沢一郎」は政界だけでなく、出版界でもよく知られている。雑誌から書籍編集者になって初の企画が乙武洋匡(ひろただ)さんの「五体不満足」だった。1998年に出版され、これまで海外版を含め600万部を超える。父は昭和ヒトケタ戦中派の俳優、小沢昭一さん。その父を12年12月に亡くす。喪中のはがきに万感をしたためた。<鳥の目で眺める大きな世界のかがやきは圧倒的ですが、虫の目で見るほのかな光にも希望の種を感じます。虫になって、子どもたちと語りあおう。虫になって、おじいちゃんの話を聞こう。虫になって、笑おう。泣こう。虫になって、仕事をしよう>

そろそろ定年もちらつき、虫が動きだす。まずは元小学館の編集者、島本脩二さん(68)に会った。「『日本国憲法』が浮かびました。協力いただければ、百人力ですからね」。島本さんは写真雑誌「写楽」時代の82年、ルビ入りの大きな活字で条文を組み、大胆なグラビアで構成した、見せる「日本国憲法」を出版した。若者たちはこぞって手にし、2年前には軽装版も発売され、累計120万部を超える。島本さんはふたつ返事で引きうけた。「編集者としての小沢さんは存じ上げていました。ボールが投げられた。私は投げ返さなきゃいけない。これは最後のご奉公だなと思いました。アハハ」

編集スタッフには小沢さんが集会で出会った長崎大生だけでなく、広島大、福島大の学生も加わった。編集者2人は各大学に足を運び、学生のアイデアに耳を傾け、本のかたちを練り上げた。ページを繰って最初に目に飛び込んでくるのはフランスパンのような物体。広島の爆心地から600メートルの民家の金庫にあった象牙の印鑑である。作家の井上ひさしさんが原爆をテーマにした戯曲「父と暮せば」を書くための取材手帳の写真もある。「これ、なんだろうってのめり込むような写真がいいなあと。強すぎてのけぞるようなものは入れませんでした」(島本さん)

 ◇3・11が「最後のチャンス」

学生は原稿も書いた。冒頭は広島大4年の福岡奈織(なお)さん(22)。タイトルは「土は覚えている」。詩のような文章である。「感じたままを言葉にしました。なぜ反核なのか? 数字でもデータでも理屈でもない。自分たちが住んでいる街だったらと意識してみてほしかった。あの朝、中学2年だった祖父が登校していたら死んでいました。たまたま爆心地とは逆の芋畑に向かったから助かった。でもいくつもの命が失われた。土はすべてを見てきたんです」

長崎大3年の川崎有希さん(20)の文章のタイトルは「空を見上げる」。曽祖父が遺体処理のため入った広島で被爆した。「戦後70年、日本は普通の生活が脅かされない程度には平和です。世界はそうじゃない。銃を手に殺し合っている。悔しいし、むなしいし。私はちっぽけな人間だから、悩むことばかり。考えることしかできない。長崎の空を見上げながら、広島やあらゆる場所とつながっていると感じるんです。そして70年前のことを想像しています」

もうひとり、福島大2年の木村元哉さん(19)。原発事故で一時、全町民が避難した福島の広野町に生まれ育った。政治家志望。「僕の『No Nukes』」を書いた。「去年の暮れ、久しぶりに地元の公園を訪ねたら、子どもたちの笑顔が戻っていました。当たり前の風景ですが、感無量でした。このごろ、広島、長崎を思うんです。傷ついた僕の故郷もきっと復興するって。この本で広島と長崎にいる同世代の人とつながれたのがうれしい。僕の第一歩です」

3人の学生たちは口をそろえた。2人のベテラン編集者の「伝えたい」熱意への素直な驚きを。島本さんはちょっと照れた。「憲法は私が生まれた年に公布された。憲法と同い年なんです。とにかく読もうよ、憲法を、と本を出しましたが、なんだか変わりそうで……。でも本の力はあると信じています。声高に叫んではいませんが、パラパラめくっていくうち、反核がよい、と感じてもらえれば。原発に頼らない生活に変えなくちゃいけない。ついこの間まで、夏は行水で過ごしたんですから」

隣で小沢さんがうなずいている。「3・11が最後のチャンスじゃないか。小ささだったり、不便さだったり、弱さだったり、そっちで行こうよって。本がその糸口になってくれやしないか、そんなことも学生たちが教えてくれました」

かつてインタビューした小沢昭一さんが「ハーモニカブルース」を口ずさんでくれた顔と重なる。出棺のときも流れたらしい。♪ハーモニカが欲しかったんだよ……でもハーモニカなんて売ってなかったんだ 戦争に負けたんだ……。「45年の夏、父は海軍兵学校にいました。戦争に負けて東京に帰る時、広島駅で『ものすごい腐乱臭がしたんだ』と私が幼稚園のころからよく話していました。校了近く、ふと思い出しました」

Categories 核廃絶

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