特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 「平和」の名の下に 洋画家・野見山暁治さん

毎日新聞 2015年06月03日 東京夕刊

=竹内紀臣撮影
=竹内紀臣撮影

 ◇押し流される僕たち

テレビをつけると、やれ後方支援だの、やれ機雷掃海だの、安保法制をめぐる国会審議をやっている。「言論の府」とはいえ、戦争がゲームのごとく語られていやしまいか。これが戦後70年の風景なのか。そう嘆息しながら、東京が真夏日となった昼下がり、94歳になる画家、野見山暁治さんを練馬のアトリエに訪ねた。

戦争の時代を芸術家のタマゴとして過ごした。なにせ東京美術学校(現東京芸大)予科に入ったのは1938年、日本が戦争へ、戦争へと突き進んでいたころである。「それでも油画科は午前中はヌードのデッサンでした。ただね、スケッチブックを抱えて新宿を歩いていると、特高がポケットの中を見せろ、と言う。中には鉛筆、小刀と消しゴム。小刀は凶器じゃないかと問い詰める。鉛筆を削るんだと答えると、貴様、本官に反抗するのか、だ。戦争に疑問を持っても、本屋から参考になりそうな本は消えている」

戦争のため繰り上げ卒業し、陸軍2等兵として旧満州(現中国東北部)へ。入営の前夜、ふるさと福岡の実家で別れのうたげが開かれた。「せめて最後くらい静かにしてもらえんかと思ったが、そうもいかん。敵を一人でもなぎ倒せみたいな激励が続く。おやじがあいさつしろとせかすから、とっさに私は口にした。名前は忘れたが、ドイツの詩人がわれはドイツに生まれたる世界の一市民なりと言いました。私は日本に生まれた世界の一市民です。どうして他の民族と戦わねばならないのか−−。その場にいた将校は、もういっぺん言ってみろとすごむ。私は何度も繰り返しました。もう自分は死ぬだろうと思っていたんでしょう」

天井からやわらかい光が差し込む。アトリエは油絵の具のにおいに包まれ、テーブルに創作のヒントにする新聞に載った写真の切り抜きが散らばる。「まだあがいているんだよ」。ちびまる子ちゃんのおじいさんそっくりの顔をほころばせる。キャンバスとの格闘に疲れると、近くの石神井川べりを散歩し、食器洗いで「無心」になる。老いてなお新しい境地を求める、そのすさまじいばかりのエネルギーは、再び絵筆を握ることなく異国の地に倒れた友らの視線をずっと感じてきたからだろう。「もうすぐ信州に行くんです」。画家は言った。

長野県上田市の郊外に「無言館」がある。戦没画学生たちの残した絵やパレットなどの遺品が展示されている。この小さな地方美術館の設立へ向け、館主の窪島誠一郎さんと奔走したのが野見山さんだった。6月の第1日曜を「無言忌」と名づけ、遺族らが集まってきた。「97年にできたときは親、兄弟もいたんだけれど、いまは若い世代がやってくるね。ここで成人式もやっていたりする。同じ年ごろの学生が戦場に散った、その無念を肌で感じようとしてくれているんでしょうか」

戦争の手ざわり−−、そんな絵を期待していると裏切られる。美術館に並ぶ作品はおだやかそのもの。「そもそもはNHKの番組で画学生の遺族を回って、絵を集めた。描かれているのはお父さん、お母さん、友だち、妻、家の前の道……。のんきなものだと、できあがった画集はすこぶる評判が悪くて。でも私も美術学校を出るまでの時間を死刑の執行猶予みたいに感じましたから。アッツ島玉砕とか、もはや負け戦でした。恋人に毎日でも会っていたい、家族そろって晩飯を食いたい、そんなところでしょ。私は池袋にあったアトリエ村で、妹をモデルに描いていました」

「日本に生まれた世界の一市民」が送られた先は旧ソ連との国境。目の前、ソ連領の丘にあるいくつもの穴から銃口がこちらをうかがっていた。「棺おけの底をうごめいている実感があった」。だが、忘れえぬ光景もわずか1カ月で見納め。胸膜に水がたまり、入院する。さらに悪化すると内地へ。「福岡から電車で30分ほどの傷痍(しょうい)軍人療養所で右肺を手術した。手術中もアメリカの飛行機が飛んでくる。福岡大空襲は屋根から見ました。翌日、わが街を歩いた。黒々した肉体が転がっていた……。それから日本が負けるとわかるや、日ソ中立条約もなんのその、ソ連軍は私のいた満州に攻め込んできた。国際間の約束など当てにならん、戦争とはそういうものだ。友好もくそもない」

自ら体験した戦争の断片を画家は語っているのだが、それは想像力を欠いた国会論議のむなしさを浮かび上がらせてくれる。集団的自衛権の行使となれば、自衛隊員のリスクは高まるのかどうか。いざとなれば、アメリカとの同盟すらどうなるか。歴史から学ぶべき教訓は多い。平和国家のかたちを変えようとしている安倍晋三首相については「なんともね。体面をつくろおうとしているだけの気がしてしようがないな」とぽつん。そして悲しげな顔をする。「戦争の時代を生きたものの抜き差しならぬ恐怖感がある。生き物は戦う、勝つとなったら戦う。弱者をやっつけるよ」

「九条美術の会」の発起人のひとり。戦後60年の発足だから、10年になる。メッセージにこう記した。<戦争をしないというのは、どういうことなのか。平和を守りとおすためには、どういう事態が待ちかまえているのか。他民族の支配を受けないために、国はどうあればよいのか、九条を遵守(じゅんしゅ)することの困難を私たちは、安直に考えてはいけないと思います>。「ええ、平和を勝ち取るのは、戦争以上の切ない状況で勝ち取らないと。ただ安逸に暮らしたいがため、お題目で平和を唱えているだけじゃだめだ。平和を求めるのは肉親が焼け死んだからではない、相手も焼け死んでいるんです。そこもちゃんと知って、平和が必要なんだ、戦争はいけないんだ、そう言っているのかどうか」

文化勲章を受章した昨年秋のこと。お祝いの席で野見山さんは天皇、皇后両陛下と同じテーブルに座った。「皇后陛下から無言館、戦没画学生の遺作を探す旅はどうでしたかと尋ねられました。いきなりで戸惑いましたが、つらかったです、とこんな話をしました。美術学校の同級生宅を訪ねて、帰ろうとしたとき、年老いた母親が私にコートを着せてくれた。袖を通しおえると、そのまま離れようとしない。私を息子だと思いたかったのでしょうか。生き残った私はなんとむごい、楽天的な男だと思いました、と」

憲法を改正し、はては「戦争のできる国」へ。それでいいのか。かつて画家はこう書いた。<永劫(えいごう)に動かない無言館の死者の眼差(まなざ)しが、他愛なく時代に押し流されてゆく僕たちを、じっと見つめているような気がしてならん>(窪島さんとの共著「無言館はなぜつくられたのか」かもがわ出版)【鈴木琢磨】

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■人物略歴

 ◇のみやま・ぎょうじ

1920年福岡県生まれ。43年、東京美術学校油画科卒。52年、渡仏し、サロン・ドートンヌ会員。安井賞、毎日芸術賞。「四百字のデッサン」で日本エッセイスト・クラブ賞。

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