永岡です、関西テレビのゆうがたLIVEワンダー、敗戦70年企画、今回は、敗戦
直前の大阪大空襲がテーマでした。
なお、今、那覇空港で、航空機の前を自衛隊機が横切る、一歩間違えたら大惨事と
いうものがあったのです。
(以前、航空安全会議の方より、伊丹空港や関西空港に、勝手に自衛隊機が着陸する
という話を聞いたことがあります)
大阪大空襲は、うずみ火の矢野さんも取材され、大阪は焼け野原、誰が誰か分から
ないものであったと、体験者は証言します。
日本は70年間、戦争はしていません(もちろん、厳密には違いますが)、太平洋戦
争末期、大空襲で15000人亡くなり、戦争の悲劇を、大阪大空襲から考えます。
今年3月に大阪・難波で不発弾が工事現場から見つかり、無事処理されたものの、
70年前の爆弾が、今の大阪にあります。
B29の焼夷弾攻撃、大阪は焼け野原であったのです。1945年3月13日、B29が274機
襲来し、1733発の焼夷弾を投下、大阪大空襲です。
体験者、語り部の久保さん(86歳)、15歳で空襲を体験し、火の滝、地獄であり、
焼夷弾により、大阪は火の海になり、米軍の焼夷弾は、アメリカの記録映像で,日本
の木造家屋を破壊するための実験が行われたというのです。
工場で、焼夷弾を生産する模様もフィルムに収められ、焼夷弾は日本の木造家屋を
完膚なきまでに破壊し、久保さん、防空壕で避難し、翌日も、軍国少女の久保さんは
軍需工場に行かれたのですが、燃えているところを通り過ぎたら町があると思った
ら、どこまでも続く、変わり果てた大阪しかありませんでした。
煙の地獄、敗戦50年で、久保さんは自らの体験を語ることになり、悲しいけど、語
るのです。
空襲は3月だけでなく、6月1日も大空襲、中央区、清水谷女学校で生徒50名死亡、
西田さん(85歳)、当時この学校に通い、しかし、学校生活はなく、学徒動員で勤労
報酬をさせられ、特攻機の部品つくり、若い兵隊の命がなくなるからおろそかにする
なと言われたのです。
西田さん、夜勤を終えて、空襲にあい、石垣に囲まれた空き地で、口を押えて、火
が止むのを待たれましたが、防毒マスクがあり助かり、しかし、周囲は真っ黒で、そ
の時家はあると思ったら、蔵が少し残っていたのみ、明日どうなるか、わからない世
界でした。
西田さんの青春は、戦争とともにあり、久保さんは、空襲後、軍需工場で兵器を
作っていたことへの、後悔があったのです。勝ち負けではなく、人殺しの道具を作っ
たことが悲しく、人間として、決して戦争をしてほしくないと言われます。
大阪は敗戦前日の8月14日まで空襲され、この記憶は、語り継がないといけないの
です。
津田塾大の萱野さん、地獄図であり、生き延びで、戦争の記憶を語るのは、生き
残ったらまた大変で、そして東京大空襲もあり、広島、長崎で原爆、敗戦し、しかし
この戦争を早く終わらせていたら、こんな悲劇はなかったことを、戦争を否定するた
めに、この可能性を、今後の日本に生かすべきと言われました。
ワンダー、久々のいい企画であり、これをお伝えしました。

MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s

%d bloggers like this:
search previous next tag category expand menu location phone mail time cart zoom edit close