新たな安全保障関連法案をめぐっては、憲法学者3人が衆院憲法審査会の参考人質疑で「憲法違反」と指摘したのをきっかけに、法案の根幹部分に対する批判や疑問が広がっている。そもそも政権が「合憲」とする理屈はどんなものか。憲法学者らが指摘する問題点はどこか。法案と憲法をめぐる論点を整理した。

■政権 「三段跳び」で解釈変更

安倍内閣は昨年7月、歴代内閣による憲法の読み方(解釈)を変えて、米国のような日本と密接な関係にある他国が武力攻撃を受けた場合、それを阻止するために自衛隊が武力を使う集団的自衛権は認められると閣議決定した。

歴代内閣は日本が直接攻撃された場合に限り、自衛隊が反撃する個別的自衛権だけを認めてきた。その根拠は戦争や武力の行使を放棄した憲法9条の存在だ。

9条は戦力(軍隊)を持つことを禁じているが、歴代内閣は、独立国として自らを守るために必要最小限度の実力=自衛隊の存在は認められる、と解釈してきた。「自衛」はいいが、他国を守る「他衛(たえい)」はだめ。他国の防衛を手伝う集団的自衛権は他衛なので認められない――これが9条から読める解釈の限界だった。

ではなぜ、憲法を改正せず、解釈を変えるだけで行使が認められるのか。安倍政権が持ち出したのは、過去の最高裁判決や政府見解を「三段跳び」のように結びつける理屈だ。

「ホップ」の土台としたのは1959年の砂川事件最高裁判決だ。米軍基地に立ち入った日本人の刑事責任が問われた裁判で、旧日米安保条約に基づく基地の合憲性が争われた。判決は「自国の存立を全うするために必要な自衛の措置はとりうる」とし、憲法の下でも日本を守る自衛権は認められるとした。安倍政権が目を付けたのは、判決が「集団的」とか「個別的」といった限定を付けず、自衛権を認めているように読めるからだ。

政権がさらに、解釈変更への「ステップ」と位置づけたのが、72年に内閣法制局が国会に提出した「集団的自衛権と憲法との関係」と題する政府見解だ。

見解はまず、砂川判決を念頭に「自国の存立を全うするために必要な自衛の措置を禁じていない」(〈1〉)とする。次に「だからといって、憲法は自衛の措置を無制限に認めてない」とクギを刺している。このため、自衛権を使えるのは「外国の武力攻撃によって国民の権利が根底からくつがえされる急迫、不正の事態」があった場合に限るとし、その場合も武力行使は「必要最小限度の範囲にとどまるべきだ」(〈2〉)と制限している。

そのうえで見解は、〈1〉と〈2〉の「基本的論理」から導かれる結論として「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」(〈3〉)とする。

ところが政権は、〈1〉と〈2〉を引き続き使う一方、〈3〉の結論をひっくり返し、集団的自衛権の一部にも、憲法が認める「自衛」の部分があると主張する。三段跳びの「ジャンプ」の部分だ。

なぜこんな「大跳躍」が可能なのか。政権は「安全保障環境の変化」を理由に挙げる。軍事技術の発展やテロの拡散で脅威は簡単に国境を越えるようになったとし、他国への武力攻撃でも状況次第で「我が国の存立を脅かす」と主張する。

■学者 政権の主張、厳しく批判

安保法案の「合憲性」を強調する政権の理屈に対しては、4日の衆院憲法審査会で参考人として発言した憲法学者3人から厳しい指摘が相次いだ。

政権が「憲法9条は砂川判決で示されている通り、自衛権を否定していない」(横畠裕介内閣法制局長官)と説明するのに対し、小林節・慶大名誉教授は15日の記者会見で反論した。「砂川判決で問われたことは在日米軍基地の合憲性で、日本の集団的自衛権はどこにも問われていない」

集団的自衛権の行使を認めても「これまでの政府解釈との論理的整合性は保たれている」(中谷元防衛相)との主張についても、厳しい批判がある。

「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」。自民推薦参考人の長谷部恭男・早大教授は4日の憲法審で法案を批判し、「憲法違反だ」「他国への攻撃に対し武力を行使するのは、自衛と言うより他衛で、そこまで憲法は認めていない」と指摘。笹田栄司・早大教授も「(従来の解釈を)踏み越え違憲」とした。

政権が「安全保障環境の変化」を解釈変更の論拠とする点についても、長谷部氏は、今回の憲法解釈の変更で「どこまで武力行使が許されるのか不明確になった」と指摘する。時の政権の判断次第で「必要最小限度の自衛の措置」の範囲はいくらでも広げられる可能性があるからだ。長谷部氏や小林氏は、そんな解釈変更を認めれば「(憲法で国家権力を縛る)立憲主義に反する」と批判する。

(石松恒)