(言葉から考える安保国会)私が総理大臣 リーダーシップか独裁か

2015年7月5日05時00分

 私は正しい。なぜなら首相だから――。安倍晋三首相は、国会で繰り返す。最高責任者たる自覚と責任感の表れではある。だがそれを言われると、話がそこで終わってしまい、より深い議論を受け付けないように見える時がある。「私が総理大臣」から考えた。

■民意で選ばれた、強い自負

5月20日の党首討論安全保障法制の議論で、民主党岡田克也代表から「私は一つも納得できない。間違ってる」と追及された安倍首相は「法律の説明はまったく正しいと思いますよ」と述べ、付け加えた。

「私は総理大臣なんですから」

首相はその後も持論を説明はした。が、岡田氏は「満足のいく答えをもらっていない」「国民に正直に議論をしないと理解されない」と不満そうだった。

首相は、自身が行政府の最高責任者だと、国会答弁でたびたび強調してきた。選挙で多数の民意に支持された我こそが正しい、という強烈な自負がのぞく。近年、国民が納得できるようなていねいな議論を拒否するような言葉を、ほかの権力者たちも発している。

2010年3月、菅直人首相(当時)は、参院内閣委員会で「議会制民主主義は、期限を切った独裁を認めることだ」と答弁した。橋下徹大阪府知事(同)も11年6月、「日本の政治でいちばん重要なのは独裁だ」と述べたほか、大阪市長に転じた12年には「選挙では国民に大きな方向性を示して訴える。ある種の白紙委任だ」と主張した。

6月12日の衆院特別委員会で、維新の党の河野正美氏が首相に苦言を呈した。

「『私が総理だから』という答弁が認められる。決めるのは政治家だ、口出しするなと言わんばかりの姿勢は全く容認できない」

■決められる政治、求めた世論

こういう政治状況は、どこかで見た気がする。シンガポールマレーシア――。よく言えば強烈なリーダーシップ、あるいは「独裁」といえる首相が国づくりを担った。日本貿易振興機構アジア経済研究所の川中豪・主任研究員(政治学)に聞いてみた。川中氏は「東南アジアの政治制度は多数決型をとる傾向が強い。今の日本もその流れと似ている」と指摘する。

川中氏によると、ここでいう「多数決型」とは、民主的に選ばれたリーダーに権力を集中させ、素早く意思決定する仕組みだ。東南アジアでは植民地支配から独立後、強いリーダーシップで政治や社会の安定を図った。急速なグローバル化にも対応するため、迅速な政策決定が求められた。

一方、少数者や反対派の意見も政策決定に反映させるのが欧州に多くみられる「合意型」だ。時間はかかるが、論議の過程を重視する。日本は戦後、多様な民意を議席に反映する中選挙区制で合意型を指向した。だが小選挙区制の導入で二大政党へ集約が進んだ。

09年に民主党が政権を取ると、「決められない政治」にいらだち、意思決定の早い政治を求める世論が高まった。

最大政党自民党は派閥が弱まり、党内の意思決定が党首に一元化されてきた。12年に政権に復帰した自民党参院選でも勝ち、衆参のねじれは解消。「決められる政治」が実現した。

川中氏は「合意型、多数決型のどちらがより民主的かというものではない。いずれを選ぶのも社会全体の判断だ」と話している。

■<視点>合意形成よりも「私にまかせて」

時折、つまずきながらも進む安保法制は、安倍政権の「決められる政治」を象徴するものではあろう。異論も少なくないし、中身についての賛否もあるが、時間をかけて合意を図るというよりも、リーダーの判断で物事が進む。「私が総理大臣」という言葉には、野党から投げかけられた懸念に「私に任せておけば大丈夫。だって私は総理大臣だから」という含意がこもるかのようにみえる。

「決められない政治」が盛んに批判されたのは、ほんの何年か前。今度は何年か後、決められる政治が、どんな結果をもたらしたかを考える材料としても、安保法制の審議がどう進んでいくか注視したい。(秋山惣一郎)

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コメント:総理だから学者より憲法がよく判るわけでもなく、歴史が良く判るわけでもなく、先見の明・洞察力がある訳でもない。総理になって変わるのは阿諛追従・役人作文・米国指示を貰って傲慢・棒読み・隷従が増えることか?

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