毎日新聞 2015年11月29日 東京朝刊
標高1100メートルにある木々は、すっかり紅葉に彩られていた。今月14日。松
原湖畔(長野県小海町)の気温は正午になってもわずか8度。小雨を縫う風に震えなが
ら湖畔の礼拝堂に一歩入ると、日だまりのようなぬくもりに包まれた。寄付で集めた米
や野菜を、生活困窮者の支援団体に送るフードバンク「山谷(やま)農場」。その15
回目となる収穫感謝祭が開かれていた。首都圏の団体関係者や地元ボランティアら約8
0人が料理を囲み、感謝を伝え、苦労をねぎらい合った。
輪の真ん中で、主宰する藤田寛さん(45)=相模原市=が穏やかな表情を浮かべて
いた。「『ふりかけだけでは生きていけない。ご飯をちょうだい』と言われました。お
米を安定的に送らなければと思ってます」。気負わず、それでいて確固とした決意がに
じむ。
米国で1967年に生まれたフードバンクの活動。東京・山谷でホームレスに炊き出
しなどを行っていた藤田さんは、2000年に設立した日本初のフードバンクに携わっ
た一人だ。「飽食」「食品ロス」と言われて久しい日本だが、食べ物を十分に得られな
い人々がいる。国内最大のフードバンクであるNPO法人「セカンドハーベスト・ジャ
パン」によると、その数は推計約230万人に上る。
この15年でフードバンクは増え、全国組織もできたが、藤田さんは意見の相違から
草創期に仲間とたもとを分かち、拠点を東京から長野へ移した。現在は農家から米や野
菜を寄付してもらい、隣町の佐久穂町に畑を借りてジャガイモなども育てる。「山谷農
場」を専従で運営するのは藤田さんだけ。しかし、地道な活動を知る農家は信頼を寄せ
る。食べ物の送り先はホームレスや難民、移住外国人などを支援する7団体。1年に扱
う米計10トンは約180人の年間消費量に等しい。
今夏、私は藤田さんと16年ぶりに再会した。「社会の関心が貧困から安全保障に移
り、共感と理解を得るのに苦労しています」。そんなメールをいただいた。豊かなはず
の日本で、なぜ藤田さんの活動が必要とされるのかを知りたかった。
<取材・文 柴沼均>
人と分かち合う <1面からつづく>
◆「フードバンク」たった一人の挑戦
◇困窮者に食べ物を
「私たちが送った米がどのような人たちに食べられているか、この目で確かめたくて
」。10月1日夜、「山谷(やま)農場」の藤田寛さん(45)は仕事を終えると、職
場と同じ神奈川県内にある川崎市幸区のカトリック鹿島田教会へ急いだ。住宅街の一角
にある教会は、外国から移住してきた女性らを支援する団体「カラカサン」の活動拠点
。共同代表の西本マルドニアさん(59)を訪ねた。
長野県小海町の山谷農場から月に1回、この団体に120キロの米を送っている。教
会に隣接する物置で届いた米をボランティアがポリ袋に詰め、各家庭に分配する。一粒
の米も無駄にしないように床にブルーシートを敷いていた。蛍光灯に照らされた物置は
薄暗い。5人も入って作業をすればすし詰め状態だ。しかし、ここでもらった米で命を
つなぐ家族がいる。1袋に3キロの米。一つの家庭に1袋、子供が多い家庭には2袋を
渡す。受け取る女性はフィリピン人が多い。9月は計36世帯に米を配布した。
西本さんもフィリピンから35年前に来日し、日本人と結婚して別れ、シングルマザ
ーとなった。自らの体験を重ねつつ、配偶者からの暴力や病気、夜の仕事しか見つから
ないつらさなど、さまざまな困難を抱えた外国人女性らを支援している。「食料が足り
なくても、お米があれば子供たちを食べさせることができます。みんな、お米を受け取
ると大喜びするんです」と言う。
藤田さんは、今後も支援を続けたいとしながらも「米が送り先でどのように使われて
いるか、寄付してくれた方に報告しなければなりません。でも、担当者を通すと話がな
かなか通じないので、直接来ました」と笑顔を崩さずに遠慮なく言った。「筋を通した
い」という姿勢は若い頃から変わらない。
電話やメールで済ませず、顔を合わせることで率直な意見交換もできる。藤田さんの
「今年は米の集まりが悪いので11月から90キロにしたい」という提案が了承されれ
ば、毎週日曜日にカレーの炊き出しをしていると聞いて、「それならジャガイモも送り
ますよ」と答える。手作りのスープやビーフンを一緒に食べながら、ざっくばらんな会
話が弾んだ。
2週間後、東京・日比谷図書文化館で、米や野菜の送り先の一つであるホームレス支
援団体「愛のスープ会」の金栄子(キムヨンジャ)さん(45)を迎え、山谷農場に食
べ物を寄付している人たちとの交流会が開かれた。金さんから、毎週水曜日の朝、炊き
出しを200人以上に行い、午前4時に並ぶ人もいるという報告があった。「どのよう
な人に食料が渡っているのか、支援者に身近に感じてほしかった」と藤田さんは語る。
相模原市で生まれ育った藤田さんの夢は英語を使う仕事に就くことだった。志望大学
に入れず、キリスト教系のYMCA専門学校に進み、1992年に米国系の団体に就職
した。同年11月、東京・山谷地区で感謝祭の日に行う炊き出しのボランティアの募集
が職場であった。藤田さんの休日は木、金曜日。学生時代の友人と都合が合わず、一人
で過ごすことが多かったという。「職場と家の往復だった単調な生活を変えたい」。軽
い気持ちで参加した炊き出しが、その後の人生を大きく変えていく。
山谷には日本の高度経済成長を陰で支えた日雇い労働者が多く暮らしていた。しかし
、当時はバブル崩壊で仕事が激減し、高齢で職にあぶれる人が増えていた。みぞれの降
る中、炊き出しの食べ物をもらおうと長い列ができ、会場の教会は立すいの余地もなく
なった。「ずぶぬれで傘も持たない人たちが、ひたすら無言でカレーを食べる」。その
光景に藤田さんはまずショックを受けた。
インド人の修道士がお茶を渡そうとすると、男性が「俺に茶を出すな」と手を払いの
け、人種差別の言葉を吐いた。「底辺で生きている人が肌の色で他人を差別している」
。見たことのなかった現実にまたショックを受けた。何事もなかったかのように黙々と
作業を続ける修道士。藤田さんはここがどんな場所で、なぜ暴言を吐かれても修道士は
支援を続けられるのかを知りたくなった。
翌月から毎月1回、一人で山谷のボランティアに参加した。お茶で腹を満たし、差し
入れのクッキーをむさぼり食べる人たち。「教会の炊き出しだけでは足りないだろう」
と自腹で60人分のパンと牛乳を購入し、配ったこともあった。列に並ばず様子をうか
がっていた年配の男性にパンを渡そうとして、拒絶された。「ここに来ているのは山谷
でもカネのある連中。メシ代を浮かせてカップ酒に使っている。腕力のある人が列に並
び、本当に腹をすかせた人は来られない」と吐き捨てるように言われた。
「貧困が人間の心を貧しくする。だが、『かわいそうだから』と上から目線になって
もいけない。本当に困窮している人に食べ物を届けたい」。支援団体に加わり、藤田さ
んは活動を続けた。定職に就きながらのボランティアは「市民社会の代表のつもりか」
などと反感を持たれもしたが、「飢える人を一人でも少なくしたい」とのめり込んでい
った。
94年、藤田さんは専門学校の学生の頃から縁が深かったキリスト教に入信した。山
谷での炊き出し経験がある長野県佐久市の山本将信牧師(77)と知り合い、意気投合
。市内の遊休農地を山本さんが借り、2人はジャガイモを栽培して山谷へ送ることを決
めた。日雇い労働者が「山谷」を「やま」と呼ぶことから山谷(やま)農場と名付けた
。
「藤田君はとにかく初々しい青年だった。人とのつながりを大切にし、長野まで何度
も来るフットワークもすごかった」と山本さんは振り返る。99年3月に初めて種イモ
を植えたものの、2人とも素人。雨の中で収穫してしまい、多くが傷んで廃棄せざるを
得なかった。ともあれ、試行錯誤を重ねながら信州からの食料支援は始まった。
厚生省(当時)の同年10月の調査では、全国のホームレスは2万人超。東京都によ
ると、山谷は前年より300人近く増えて約1500人となり、栄養不足から結核がま
ん延していた。
◇増える「見えない貧困」
90年代終わり、私は東京の下町地区の取材を担当しており、しばしば山谷に通った
。そこで、熱心に炊き出しをする藤田さんと出会った。生活相談や支援をする役所が閉
まる年末年始は、日雇い労働者への炊き出しがことのほか欠かせない。だが、「材料が
足りていない」と聞き、年の瀬に窮状を記事にした。
ありがたいことに反響があった。東京・築地の食品業者から「おせち料理は正月にな
ると売れなくなるので提供したい」と藤田さんに連絡が入った。大みそかの夜、受け取
りに行くと、「まだ食べられるのに捨てられるものを有効に使ってくれてうれしい」と
逆に感謝された。
「この時、教会の仲間と3年前に視察した米国のフードバンクを思い出しました。自
分たちで支援の農作物を作るだけでなく、食品を集めて送ることも日本でできないかな
、と」
都内で活動する他のホームレス支援者にも同様の考えを持つ人がいた。「米で結べ」
をスローガンにして2000年5月、日本初のフードバンクを設立。山谷に事務局を置
き、渋谷で活動していた湯浅誠さん(現法政大教授)、山谷でボランティアをしていた
チャールズ・マクジルトンさん(現セカンドハーベスト・ジャパン=2HJ=理事長)
、そして藤田さんの3人が共同代表に選ばれた。
しかし数カ月後、支援に対する考えの違いが表面化してしまう。産声を上げたばかり
のフードバンクは知名度も活動も限定的で、集まった米は200キロにとどまった。こ
のため、「支援先を山谷中心にすべきだ」と主張する藤田さんに対して、他のメンバー
は不公平感が生じることを懸念し、「より広い地域への支援が必要」と反論した。「東
京では米が集まらない。生産地の長野にも拠点を置きたい」とも藤田さんは提案したが
、道路や通信手段が現在のように整備されておらず、賛同する人はいなかった。他のボ
ランティアを含めてメンバーの多くは若い。活動に熱心なあまり意見の相違は感情のも
つれとなった。結局、藤田さんは「私は長野でやる」と一人飛び出した。
03年に山本牧師が佐久市から転勤してジャガイモの栽培を続けられなくなると、藤
田さんは長野での活動を変更する。農家を回ってフードバンクの意義を理解してもらい
、手元に残した米の寄付を求めることに重点を置いた。
「若い頃に集団就職で上京したり、出稼ぎで冬は都会に行くなどして山谷を知る農家
の人も多かった。『弟が東京へ出たきり、何年も行方不明。もしかすると山谷にいるか
も』と自分の米を提供してくれた男性もいました」。集めた農作物の保管所を同県の小
海町に設け、以後はここが長野での拠点となった。
盆も正月も関係なく、藤田さんは毎週のように軽乗用車に乗り、自宅のある相模原か
ら長野に通った。時には、フードバンクの活動を知って連絡をくれた新潟県の農家まで
足を延ばし、米の提供を受けた。運営費は寄付で集められるが、熱意や時間は買えない
。そうした地道な努力を十数年続け、藤田さんは農家の人たちに受け入れられ、賛同者
を増やしていった。一昨年に退職し、佐久地方に戻った山本さんは再び畑を借りてジャ
ガイモを作っている。「藤田君の人柄もあり、地元の人と緩くつながれました。『人と
分かち合うのは楽しいこと』と分かってもらえたのだと思います」と言う。
農林水産省が把握するフードバンクは14年2月時点で35都道府県に40団体ある
。米や野菜、加工食品など取扱量は年間5000トン以上まで成長した。だが、品質に
は問題がないのに包装が汚れるなどして商品価値を失い、廃棄された余剰食品は642
万トンに達する。貧困問題は主に厚生労働省が担当し、余剰食品は農水省の扱いなど、
フードバンクが関係する省庁は複数にわたり、即効性のある政策がとられていないのが
現状だ。
例えば、2HJの芝田雄司さん(39)によると、米国は行政のバックアップもあっ
てフードバンク活動が社会に浸透しており、困窮者が緊急的に食料を得られる場所がニ
ューヨークなら1100カ所ある。対して、東京には10?15カ所しかないという。
「外からは見えない貧困が確実に広がっている」。フードバンク山梨の米山けい子理
事長(62)は警鐘を鳴らす。こんな経験をした。「明日食べるパンを買うお金がない
」という電話を受け、食べ物を持って行くと、訪問先は一戸建てで車もあった。「でも
、妻の看病のため夫が仕事を辞め、収入がなくなっていました。車は車検切れ。家も電
気を止められ、一家4人はおかゆでしのいでいましたが、米も尽きていました」
学校給食で飢えをしのぐ子供を夏休み中に支えるため、フードバンク山梨は今夏、自
治体の福祉担当者や学校と連携し、県内127世帯に食料を緊急支援した。「アフリカ
の飢えた子供はやせ細っていますが、日本の子供はご飯とふりかけだけなど栄養が炭水
化物に偏って太っていたりする。見た目では食べ物が足りているのか分かりません。恥
ずかしいと思うのか、子供は先生にも助けを求めない」と米山さんは話した。
山谷にとどまらず、現在は七つの支援団体に年間計10トンの米を送る藤田さんも指
摘する。「1億総活躍社会という一方で、困窮から一家心中を図るなど放置された人が
います。『貧しいのは自己責任』と批判する社会の冷たさも感じる。フードバンクの活
動を通じて、貧困に苦しむ人がいる実情に気づいてほしい」
組織に属さず、藤田さんはたった一人で活動を続けてきた。「山谷農場」が一定の成
果を上げた自信はある。だが、後継者はいない。同居する母親(65)は今春、がんの
手術を受けた。遠くない将来に介護が必要となるかもしれない。佐久地方を中心とした
支援農家も高齢化している。いつまで続けられるか、先行きに漠然とした不安を感じる
。
「民間のフードバンクは本来、一時的なもので支援に限界がある。国や行政が責任を
持って、食べ物に困る人を出さないようにするのが一番なんです」。藤田さんの願いが
かなう日は来るのだろうか。
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◆今回のストーリーの取材は
◇柴沼均(しばぬま・ひとし)(東京生活報道部)
1991年入社。長野支局、東京社会部、北海道報道部、デジタルメディア局ディレ
クターなどを経て昨年10月より現職。くらしナビ面を中心に貧困や労働、家計、デジ
タルなどの格差問題をさまざまな視点から取材している。
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MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace