- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:12 77歳(10/02) ■いいから自然にふれなさい ――「年寄りが引退すれば若者が元気になる」と繰り返しおっしゃっています。 ぼくがそう言う対象は団塊世代なんですよ。彼らはずっと競争してきたから、社会に対しても若い人にも厳…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:11 77歳(10/01) ■標本にした昆虫、「虫塚」作り供養 ――東大教授時代から執筆活動も旺盛です。1989年、「からだの見方」でサントリー学芸賞を受賞。同じ年に発表した「唯脳論」では、脳ブームを巻き起こしました。そして2…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:10 77歳(09/30) ■東大教授辞めた日の空、青かった ――地下鉄サリン事件があった1995年、東大教授を退官。定年まで3年を残した57歳でした。 かねて何となく55歳で辞めようと思っていただけでね。辞めた後で別の仕事を…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:9 77歳(09/29) ■献体、頼むと「お役に立てるなら」 ――東大医学部1年生の時の「一体目」から、東大を退官するまで約三十年の間に、養老さんが解剖したご遺体の数はどれほどでしょう。 学生の実習を指導する立場としてかかわ…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:8 77歳(09/28) ■理解の範囲超えていたオウムの学生 ――学生運動が2年ほどでやっと落ち着き、オーストラリアに留学しました。 当時、あの国では心筋梗塞(こうそく)が非常に多いということで、心臓の研究という名目で行きま…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:7 77歳(09/25) ■全共闘、真正面から受け止めた ――解剖学者としての研究者人生が始まろうという時に、東大紛争がおきて研究室を追い出されました。 助手2年目ですよ。「大学解体」を叫ぶ全共闘に、「こんな時に研究とは何事…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:6 77歳(09/24) ■自分がしたことのまま、解剖は落ち着く ――人生で初めての解剖というのは覚えているものですか。 もちろん覚えています。20歳のとき。おじいさんだったな。肩の筋肉が硬くてね。てんびん棒を担ぐような仕事…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:5 77歳(09/18) ■ハワイの研究者と虫の話題で文通 ――1958年、東大に進学しました。昆虫好きの少年が、家業を継ごうと? 医学部に行くなら、授業料が安くて家から通える大学を選んだんですよ。ただ、「家業を継ごう」って…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:4 77歳(09/17) ■片付かないこと多く、ずいぶん飲んだ ――どのご著書でも青春時代にふれていません。「ほとんど思い出したくない」という記述はありました。 小さいころから虫ばっかり取ってたから、「何だそれ」ってなもんで…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:3 77歳(09/16) ■生き方自己流、陽気な母 ――お父様との死別の記憶を長く引きずったことと比べると、お母様との関係性はドライな印象です。 おふくろは世の中とのつきあい方が自己流過ぎて、手本になり得なかったんですよ。息…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:2 77歳(09/15) ■死にゆく父に言えなかった「さよなら」 ――母の静江さんは94歳まで現役の小児科医でした。90歳を過ぎて書いた自伝によれば、お父様の養老文雄さんとの出会いは劇的です。 子どものころは母親の人生なんて…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 解剖学者・養老孟司:1 77歳(09/14) ■団体行動が苦手、「兵隊だけはイヤ」 ――今夏、終戦70年でした。終戦を、神奈川県にあったお母様のご実家で迎えたそうですね。 そう、現在の相模原市です。玉音放送は聞いていませんが、叔母が「戦争に負…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:10 63歳(09/11) ■9・11 市民つなぐ仕事これからも ――2001年のきょう。9・11の米同時多発テロのときは、どこにいましたか。 東京の自宅でテレビを見ていました。ニューヨークの世界貿易センタービルの北棟に突入し…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:9 63歳(09/10) ■人の心癒やす文化、大切に継承を ――社会や政治の問題だけでなく、文化を主題にした映像作品も作られてますね。 母の家系のDNAを受け継いだのかも。僕が小学生のころ母が近くの陶芸教室に通っていました。…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:8 63歳(09/09) ■妻と2人の子、カメラで紡ぐ家族の絆 ――本格的に映画作家になられてから、拠点が日本のようですが。そうだ、奥様は日本人ですよね。出会いは? 東京のアジア太平洋資料センターにいたころ、出版社の経営合理…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:7 63歳(09/08) ■議論交わし映像化「これが自分の仕事」 ――1980年にウィスコンシン大学大学院を出られて、その後は。 ボストンで日本に関する百科事典の編集に関わり、81年にその仕事で東京に来ました。このときフリー…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:6 63歳(09/07) ■苦しみ続ける沖縄、ずっとテーマに ――1974年の大学卒業後、みたび日本に行ったんですね。 大学時代から、東京にある「アジア太平洋資料センター」という団体が発行する英文雑誌「AMPO」を、米国で読…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:5 63歳(09/04) ■大学のベトナム反戦運動で逮捕 ――スタンフォード大学東洋文学語学科に進学されたそうですが、なぜ、ここを。 本当は、ペンシルベニア州のハバフォード大への入学手続きをしていたんです。でも高校時代の日本…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:4 63歳(09/03) ■反差別デモや選挙運動に参加した10代 ――1960年代の米国は様々な問題に対して市民が声を上げ、デモなどを行っていたそうですが、ご自身も参加されたのですか。 中3から高1のころ、ミルウォーキーの地…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:3 63歳(09/02) ■キューバ危機、迫った核戦争の恐怖 ――多感な時期に、世界は激動の時代を迎えていましたね。 すごく記憶に残っているのは、僕が10歳のとき、1962年のキューバミサイル危機ですね。10月、ケネディ大統…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:2 63歳(09/01) ■父のニコンが残した葉山と家族の記録 ――生まれたのは、どんなところですか。 日本の皆さんに出身地を聞かれ「ミルウォーキー」と答えると「ああ、ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキーのね」とかつてのサッ…
- (人生の贈りもの)わたしの半生 ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン:1 63歳(08/31) ■原点は「どうして戦争を続けるの?」 ――「映画 日本国憲法」を約10年前に作られました。今の安保関連法案反対運動をどうご覧になりましたか。 この映画では、世界の人々に日本の憲法をどう思うかをインタ…