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ウクライナ飢饉は、みんながみんなから遠ざけられるという、
近代社会の「アトム化」過程で起きた102 「母さんは、わたしが死んだらこの体をお食べと言っていたんだ」105 「ジェノサイド」という用語を考案したポーランド・ユダヤ人の国際弁護士
109 「史上最悪の犯罪だ。
あまりの残忍さに、後世の人々は現実に起きたこととは思えないにちがいない」
117 この戦略のせいでドイツ共産党はほかの政党と一致協力してヒトラーに対抗で
きなかった
128 ロシア人女性を妻としていた杉原は、大半の時間をハルビンのロシア人居住区
内で過ごした
135 スターリンが社会的多元主義を謳う人民戦線への支持を表明しつつも
161 多かったのはユダヤ人だ。NKVD上級職員の約40%、将官にいたっては半数以
上
167 アンナ・アフマートヴァは、大テロルのさなかに息子をグラーグで亡くした
178 約17万人の朝鮮人全員がカザフスタンに強制移住させられた
180 ヨーロッパ人は、こうした殺害や強制移住がソ連で起きていることに気づかな
かった
181 大テロルはソ連における第三の革命だった
195 日本は独ソの戦争準備の監視地点として、リトアニアに領事館を開設した
202 中世後期、ドイツを含むヨーロッパ中部から西部にかけての地域からユダヤ人
が追放された
210 ソ連が「西ベラルーシ」「西ウクライナ」と名づけた
214 クラクフ大学はドイツのどの大学よりも古かった。
ミツキェヴィチは当時のヨーロッパでゲーテと同等の尊敬を集めていた
215 ウッチのユダヤ人人口はベルリンとウィーンの合計を上まわった
232 ポーランド人将校らは、ある種の出国ビザを発給してもらえれば、ソ連を経由
して日本に
242 アウシュヴィッツにポーランド軍兵舎を転用した収容所を開設した
245 アーサー・ケストラー「真昼の暗黒」
248 東ヨーロッパの社会にとって「知識階級」インテリゲンツィアは誇りであった
253 イギリスという壁
260 1941年から42年にかけての冬に3000万人を餓死させる
263 ドイツ軍の動きを観察した結果、1941年6月中旬だろうと見当をつけた
278 近代の戦争でこれほど多くの捕虜がこれほど早く確保された例はない
287 ドイツが設営した赤軍捕虜収容所の戦時中全体の死亡率は57・5%だった
292 最終解決の方法については、1941年末までにすでに四通りを検討し、いず
れも断念
295 1941年夏には四つの計画
302 「北のイェルサレム」ヴィリニュス
311 ポリーシャ湿地
313 カルパチア山脈南側の、チェコスロヴァキアの最東部地域であったルテニア
323 ソヴィエト・ドイツ人、そのほとんどはヴォルガ川沿岸の自治地区の住民
332 だがドイツは、日本が攻撃を開始したその日にモスクワから追い返されたので
338 再定住地には、八本の溝が掘られている
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下巻55 死の工場となるはずだった。ユダヤ人は到着するとすぐに殺される手はずだ
ったのだ
68 ヤヌシュ・コルチャック
85 アウシュヴィッツのガス室から生還した人はひとりもいない
94 修正シオニストとその青年組織ベタール、、、イグルン
98 ピストルと度胸があれば十分だったのだ
114 ワルシャワ強制収容所
130 ジョージ・オーウェルとアーサー・ケストラー
135 ジョージ・ケナン
138 ベルゲン=ベルゼンとブーヘンヴァルト
164 カラチャイ、カルムイク、チェチェン、イングーシ
183 ニキータ・フルシチョフ
194 ポーランドは過去500年にわたってヨーロッパ・ユダヤ人の中心地だったが
207 中国の共産化は、スターリンには心穏やかならざるニュースだった
226 アメリカは1955年に西ドイツのNATO加盟を認めた
232 アウシュヴィッツだけに注目が集まった
255 マルクス主義では、農民社会には現代世界に存在する権利がないと考えられて
いた
263 あるドイツ兵が死んだポーランド人のしかめ面を見て
274 セルビア人が
IROHIRA
MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace