永岡です、第177回報道するラジオ、今週もMBSアナウンサー水野晶子さんの司会、ジャーナリスト・元毎日新聞論説委員の平野幸夫さんの案内で放送されました。
ニュースは千葉猛さんの担当で、辺野古を巡る裁判にて、安倍総理が和解を受け入れて、辺野古に翁長氏が埋め立てを取り消して、国がこれを取り消しの裁判をしており、国が辺野古埋め立て工事を中止して、翁長氏の取り消しへの是正もあり、新たに裁判になったら、判決確定までは円満解決に向けて協議するもので、しかし協議がまとまらなければまた揉めるもので、安倍氏は辺野古埋め立てしかないと言い、沖縄は辺野古NOで、実態では対立は変わっておらず、平野さん、和解とは双方の妥協による決着であるが、これは棚上げ、沖縄県は和解になり、安倍政権は予算のめどが付き、政権の目標は参院選であり、そこで辺野古全面対決を持ち越したくない+国が敗訴になる可能性があり、強引で裁判所の印象も良くなく、移設の変更はないと政府は強弁しており、見直しは一切言わず、和解の前にアメリカの合意はハリス大使に得られており、もう辺野古は2年遅れと伝えており、全面対決で、沖縄県議選でも負けたくなく、政権は和解になり、争点を隠すものであると言われました。和解と言う言葉だけでなく、抜本的な解決ではないというのです。
今週は東日本大震災、福島原発事故5年特集で、福島県田村市で障碍者の自立支援を行われるNPO法人ケア・ステーションゆうとぴあ(http://www12.plala.or.jp/youtopia2003/ )の理事長で、今京都に避難しておられる鈴木絹江さんがゲストであり、ケア・ステーションゆうとぴあは福島第一原発の西40kmにあり、鈴木さんは原発事故で利用者3人とヘルパーの方とともに会津、新潟に避難されて、避難所での暮らしが難しい障碍者、高齢者がどうすべきか、鈴木さんのお話がありました。鈴木さんは、原発国賠京都訴訟の原告でもあります。
田村市にある障碍者の自立のための施設であり、鈴木さんスタジオでのお話であり、原発事故で放射能汚染の中自主避難、ケア・ステーションで12人集団避難であり、鈴木さんは施設のリーダーであり、自身も障害があり、今日も車いすでスタジオに来られて、車いす生活は35年になり、母親も同じ障害、骨がもろいものであり、そして東日本大震災、福島原発事故、この施設は3・11まで通所施設であり、就労支援もして、ヘルパーが訪問介護もやり、作業もして、入浴もあり、主に昼間の生活をされていた施設であり、避難生活の大変さを語られます。
避難生活を強いられている方はたくさんいて、鈴木さん京都から来られています。
鈴木さんたちは、福島からの避難の道のりを、報道するラジオの記者がたどり、関係者のインタビューもあり、災害時の避難は、障害のある人もない人も同じ避難所であり、しかし障碍者にはどうなるか、南相馬(原発20km)での、脳性麻痺の車いすの方、小学校の体育館で数日過ごされて、トイレは洋式が要り、股関節が悪く大変であり、避難所で人が一杯で横になれず車いすで何日も、夜も、で眠れず、身障者用の手すりはトイレにあっても、30分かかり、大変なものであるのです。利尿剤を服用していたが、避難所では服用できず、体調を崩して足がむくみ、鈴木さんも足首が45cmになり、本当につらかったのです。
一般の避難所で、車いすの方は過酷であり、トイレと、場所、体育館だと、元気な人が四隅を埋めて行き、障碍者は後になって真ん中or出入り口の近くで、足を踏まれて暮らせず、そして人に迷惑になり、他の人より空間がいるのに確保できず、避難所に行けず、家がある程度無事なら家や車で過ごし、しかし避難物資は来ず、しかし傾いた家で、障碍者は弁当を取りに行けず、避難所では専門家でないと障碍者か分からず、大変だから我慢しろと言われて引くものなのです。
自宅だと情報もなく、大変であり、鈴木さんの事例は、自身車椅子+ケア・ステーションの理事長で、3/13に原発事故の詳細を知り、ヘルパーには妊婦、幼い子持ちの方もいてすぐに避難させて、利用者で一人暮らしの方3人を、ヘルパーを確保して12人で西に逃げることになり、3/14の夜、自己決断で避難を決めて、ヘルパーには寝たきりの家族のため避難できない人もいたが、自動車2台で夜中を走り、もちろん移動も大変、トイレもどうするか、車を20時に出発、しかし翌日は雨で、広島の黒い雨を知っていたので、風向きで西に避難し、原発爆発で80kmの距離が要り、夜中のトイレもあるのに、高速は救急車両しか通れず、3/15の雨を避けて、未明に会津にたどり着き、昭和村、海からは内陸で、140km以上走って宿舎に着き、一緒に避難された脳性麻痺の方、大変であり、被災者への周囲の態度は冷たかったというのです。
精神的なバリアーもあり、鈴木さん、突然に夜中に12人も着いて、宿泊は大広間にしたのに、階段のために大変であり、けがされたら困るので早くここを出てくれと、バリアフリーでないので、受け入れ先もこういう始末であり、しかしやっとたどり着いたところで安息はなく、しんどく、そしてまた避難が要り、そこからどうするか、また大変であったのです。
選択肢はいくつかあり、東京は電気がないとダメであきらめて、友人宅もなく、新潟に避難者を受け入れる、昭和村の村役場に、車いすのものは、ここには病院もなく、さらに避難者をさらに受け入れないとダメで、生涯のある人は大きいところに行ってくれと言われて、福島県外の、新潟に行くことになり、障碍者には宿泊場所が命を決めて、避難所は無理で、大きいホテルだとバリアフリーと知り、新潟の温泉に行くことになり、19日の昼間を数時間走り、山を越えて120km以上あるもので、月岡温泉、日本海側に行かれたのです。
ここは600人泊まれる高級ホテルで、雪の降る中、ホテルの方が迎えてくれて、車の処理もしてくれてビックリであり、ここの女将さんの飯田さんは、中越地震、中越沖地震の際に他県の方の支援をもらったので、県の旅館組合で、太平洋側の被災者を受け入れて、食事もやり、障碍者が体育館だと避難は無理で、この温泉は段差も少なく手すりもあり、障碍者には合っていたと言われるのです。
難をすべきなのです。
る人がおらず、筆記で知った人もあるというのです。 リスナーより、聴覚障碍者は阪神・淡路大震災には置いてきぼりとあり、情報が障碍者にはしんどく、
から!MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace