Peace Philosophy Centre

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7月30日東京でイベント「沖縄米軍基地という日本問題を考える」with 前田朗&デイビッド・マクニール&乗松聡子 A July 30 Event in Tokyo: Thinking About “U.S. Military Bases in Okinawa” as a Japanese Problem – with Akira Maeda, David McNeill, and Satoko Oka Norimatsu

Posted: 26 Jul 2016 12:59 PM PDT

7月30日東京でこのようなイベントを行います。どうぞお越しください。Akira Maeda, professor of Tokyo Zokei University and an expert of international human rights law, will host a talk event with Tokyo-based Irish journalist David McNeill and Vancouver-based Japanese writer Satoko Oka Norimatsu. We will discuss issues surrounding the U.S. military bases in Okinawa, and various other issues facing current Japan, including historical issues such as the Japanese military “comfort women,” and Fukushima nuclear crisis. The event will be held in Japanese.

琉球新報連載「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第二集のお知らせ Ryukyu Shimpo Series “Responsibility for Justice – From the World to Okinawa” Booklet No.2

Posted: 25 Jul 2016 10:02 PM PDT

★7月26日追記。この本は沖縄県外からも e-hon で買えます。ここをクリック

2014年から『琉球新報』に月1-2回のペースで連載している「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第1集(昨年12月刊)に続き、このたび第2集が出ることになりました。

7月8日『琉球新報』社告より

『正義への責任―世界から沖縄へ②』

琉球新報社編 監修・翻訳 乗松聡子 発行 琉球新報社

今回は第13回から28回までと特別篇一篇を加えた、2015年4月から2016年4月までの掲載分を収録してあります。

執筆陣は、

  • ローレンス・レペタ Lawrence Repeta (明治大学法学部特任教授)
  • ジーン・ダウニーJean Downey(弁護士、著述家)
  • ジョン・フェッファーJohn Feffer (米シンクタンクディレクター)
  • ジャン・ユンカーマンJohn Junkerman (映画監督)
  • デイビッド・バインDavid Vine(アメリカン大学准教授)
  • クーハン・パークKoohan Paik(ジャーナリスト)
  • オリバー・ストーンOliver Stone(映画監督)&ピーター・カズニックPeter Kuznick(アメリカン大学教授)
  • ジョン・レットマンJon Letman(ジャーナリスト)
  • ロジャー・パルバースRoger Pulvers(作家)
  • チェ・ソンヒ 崔誠希(平和運動家)
  • シーラ・ジョンソンSheila Johnson(人類学者)
  • カイル・カジヒロKyle Kajihiro(活動家・研究者)
  • デイブ・ウェブDave Webb(リーズ・ベケット大学名誉教授)
  • ブルース・ギャグノンBruce Gagnon(平和運動家)
  • クォン・ヒョクテ権赫泰(韓国・聖公会大学教授)
  • 乗松聡子(のりまつさとこ)(『ジャパン・フォーカス』エディター)

の17人となります。それぞれの「沖縄への向き合い方」を示しています。ぜひお読みください。

この本は沖縄の書店に並び、アマゾン、ジュンク堂のネット書店などで購入できるようになる予定です。このページにまた具体的な案内を出します。

乗松が参加する7月30日の東京イベント(「7・30ニッポン診断―沖縄米軍基地という日本問題を考える」開場1時半、午後2時から5時まで、水道橋東口徒歩5分の「スペースたんぽぽ」で開催―前田朗、デイビッド・マクニール、乗松聡子の対談)でもこの本を紹介いたします。

★「正義への責任」は現在も『琉球新報』で連載中です。

@PeacePhilosophy 乗松聡子

琉球新報連載「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第二集のお知らせ Ryukyu Shimpo Series “Responsibility for Justice – From the World to Okinawa” Booklet No.2

Posted: 16 Jul 2016 12:13 AM PDT

2014年から『琉球新報』に月1-2回のペースで連載している「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第1集(昨年12月刊)に続き、このたび第2集が出ることになりました。

7月8日『琉球新報』社告より

『正義への責任―世界から沖縄へ②』

琉球新報社編 監修・翻訳 乗松聡子 発行 琉球新報社

今回は第13回から28回までと特別篇一篇を加えた、2015年4月から2016年4月までの掲載分を収録してあります。

執筆陣は、

  • ローレンス・レペタ Lawrence Repeta (明治大学法学部特任教授)
  • ジーン・ダウニーJean Downey(弁護士、著述家)
  • ジョン・フェッファーJohn Feffer (米シンクタンクディレクター)
  • ジャン・ユンカーマンJohn Junkerman (映画監督)
  • デイビッド・バインDavid Vine(アメリカン大学准教授)
  • クーハン・パークKoohan Paik(ジャーナリスト)
  • オリバー・ストーンOliver Stone(映画監督)&ピーター・カズニックPeter Kuznick(アメリカン大学教授)
  • ジョン・レットマンJon Letman(ジャーナリスト)
  • ロジャー・パルバースRoger Pulvers(作家)
  • チェ・ソンヒ 崔誠希(平和運動家)
  • シーラ・ジョンソンSheila Johnson(人類学者)
  • カイル・カジヒロKyle Kajihiro(活動家・研究者)
  • デイブ・ウェブDave Webb(リーズ・ベケット大学名誉教授)
  • ブルース・ギャグノンBruce Gagnon(平和運動家)
  • クォン・ヒョクテ権赫泰(韓国・聖公会大学教授)
  • 乗松聡子(のりまつさとこ)(『ジャパン・フォーカス』エディター)

の17人となります。それぞれの「沖縄への向き合い方」を示しています。ぜひお読みください。

この本は沖縄の書店に並び、アマゾン、ジュンク堂のネット書店などで購入できるようになる予定です。このページにまた具体的な案内を出します。

乗松が参加する7月30日の東京イベント(「7・30ニッポン診断―沖縄米軍基地という日本問題を考える」開場1時半、午後2時から5時まで、水道橋東口徒歩5分の「スペースたんぽぽ」で開催―前田朗、デイビッド・マクニール、乗松聡子の対談)でもこの本を紹介いたします。

★「正義への責任」は現在も『琉球新報』で連載中です。

@PeacePhilosophy 乗松聡子

琉球新報連載「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第二集のお知らせ Ryukyu Shimpo Series “Responsibility for Justice – From the World to Okinawa” Booklet No.2

Posted: 07 Jul 2016 11:20 AM PDT

2014年から『琉球新報』に月1-2回のペースで連載している「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第1集(昨年12月刊)に続き、このたび第2集が出ることになりました。

『正義への責任―世界から沖縄へ②』

琉球新報社編 監修・翻訳 乗松聡子 発行 琉球新報社

今回は第13回から28回までと特別篇一篇を加えた、2015年4月から2016年4月までの掲載分を収録してあります。

執筆陣は、

  • ローレンス・レペタ Lawrence Repeta (明治大学法学部特任教授)
  • ジーン・ダウニーJean Downey(弁護士、著述家)
  • ジョン・フェッファーJohn Feffer (米シンクタンクディレクター)
  • ジャン・ユンカーマンJohn Junkerman (映画監督)
  • デイビッド・バインDavid Vine(アメリカン大学准教授)
  • クーハン・パークKoohan Paik(ジャーナリスト)
  • オリバー・ストーンOliver Stone(映画監督)&ピーター・カズニックPeter Kuznick(アメリカン大学教授)
  • ジョン・レットマンJon Letman(ジャーナリスト)
  • ロジャー・パルバースRoger Pulvers(作家)
  • チェ・ソンヒ 崔誠希(平和運動家)
  • シーラ・ジョンソンSheila Johnson(人類学者)
  • カイル・カジヒロKyle Kajihiro(活動家・研究者)
  • デイブ・ウェブDave Webb(リーズ・ベケット大学名誉教授)
  • ブルース・ギャグノンBruce Gagnon(平和運動家)
  • クォン・ヒョクテ権赫泰(韓国・聖公会大学教授)
  • 乗松聡子(のりまつさとこ)(『ジャパン・フォーカス』エディター)

の17人となります。それぞれの「沖縄への向き合い方」を示しています。ぜひお読みください。

この本は沖縄の書店に並び、アマゾン、ジュンク堂のネット書店などで購入できるようになる予定です。このページにまた具体的な案内を出します。

乗松が参加する7月30日の東京イベント(「7・30ニッポン診断―沖縄米軍基地という日本問題を考える」開場1時半、午後2時から5時まで、水道橋東口徒歩5分の「スペースたんぽぽ」で開催―前田朗、デイビッド・マクニール、乗松聡子の対談)でもこの本を紹介いたします。

★「正義への責任」は現在も『琉球新報』で連載中です。

@PeacePhilosophy 乗松聡子

おことわり

Posted: 07 Jul 2016 07:23 AM PDT

7月5日に、「週刊金曜日に投書したが不採用になった」という旨で投書内容をブログにアップしましたが、不採用を私に伝えてきた編集者が誤解していたことがわかり、近々の号で掲載される予定だということです。これに伴いブログ、フェースブック、ツイッター等からすべて削除しております。これは、私がブログで公表したから掲載するということでは決してなく、単純な誤解によるものです。お騒がせしてしまったことをお詫びいたします。なお、ご自身のブログやフェースブック、ツイッターなどでこの件について拡散したり意見したりしてくださった方々へ―引用や転載などされた場合は申しわけありませんが削除していただくようお願い申し上げます。大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この件でお問い合わせ等あれば info@peacephilosophy.com にご連絡お願いいたします。 @PeacePhilosophy 乗松聡子

私にとっての中国 日本にとっての中国: 小林はるよ

Posted: 22 Jun 2016 09:58 AM PDT

長野県で無農薬農園をやっている小林はるよさんは、昨年11月にブログを通して連絡をくれました。お話をしていると、はっと気づかされることも多く、今回はるよさんのエッセイを掲載することにしました。中国、北朝鮮、韓国など隣国を敵視、蔑視するような論調ばかりが目立つ日本では、はるよさんのような普通の感覚を持っている人はかえって稀なのかもしれません。そういう思いもこめて紹介します。隣国の人々との関係をこのように歴史に照らし合わせながら、自分や自分の家族という身近な次元から考えていく姿勢に学びたいと思います。@PeacePhilosohy

私にとっての中国 日本にとっての中国

小林はるよ

私の息子のパートナーは中国人で、ハルピン近郊の農村の出身です。今からもう10年以上もまえ、息子が国際学会で北京に行ったさいホテルで散髪をしてもらった、そのときの理容師が今のパートナーで、私たちはヤンリと呼んでいます。息子は鏡の向こうに見たヤンリに「一目惚れ」しました。

私がヤンリから学んだことは、いろいろ、ありますが、いちばんの収穫は、簡単に言えば、人にとっては、「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」だということでしょう。日本人の多くは、食べ物も自然も日本が世界最高、そう考えているようです。そのこと自体は、自然なことですが、同時に他国の人、他民族の人にとっても、「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」だということを忘れてはいけません。そのふるさとが焼けつく砂漠であっても、氷に閉ざされる極北の地であっても、そこで育った人にとっては「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」です。

私は、日本で「日中戦争」と呼ばれている歴史的経過は、日本の「中国侵略」に他ならない、と思っている人間です。その私でも、「日本ではこれだけ便利で、自由で、物資が豊富で、清潔なのだから、中国の田舎の人なら、日本の暮らしのほうがいいと思うのでは?」という思いが、心の底にはあったのです。そのことを、私はヤンリと、ヤンリのお母さん、お姉さんとふれあうなかで知りました。そして、心中、ひそかに恥じたのでした。彼女たちはヤンリのお産の手伝いなどもあって、何回か札幌の息子のアパートにかなり長く滞在しましたが、用さえすめば、一刻も早く中国に帰りたがっていました。ヤンリ自身、20歳になるやならずで、理容業を自営できていたのに、そうしたキャリアがまったく評価されない日本に来ました。失ったもののあまりの大きさを、日本に来て徐々に知ることになったわけで、日本が暮らしやすいなどとは、まったく、思っていませんでした。日本の暮らしの便利さ、自由さ、清潔さ、ひいては食べもののおいしさ、物の豊かさなどは、長年それに慣れて、しかも比較的恵まれた環境にあった私には享受できるものであっても、彼女たちにとっては、なんの意味もないものだったのです。

私の父の家族は当時の植民地台湾にいました。けれど台湾の日本人社会は、植民地での西欧人社会のように、現地社会とは隔絶されていたので、日本国内にいるのと全く同じような感覚で暮らしていたようです。とはいえ、そこは、日本国内ほど狂信的ではない社会だったのでしょう。父が日本の侵略戦争に対して批判的だったとはまでは言えないものの、一歩引いていられたについては、台湾で成長したことが影響していたのかもしれません。父は子どもたち相手にフィリッピンでの従軍体験を率直に語ってくれる人でしたが、中国について、「戦争中はなあ、中国人をチャンコロなんて言ってバカにしていた。考えてみればひどい話だった」と言ったことがありました。父のその言葉が、中国人をバカにしていたなんて、とんでもないまちがいだったという意味だということは、子どもにもよくわかりました。「ヨーロッパでは、日本文化は月光文化と言われているんだよ」とも言いました。「太陽が中国文化、日本文化はその照り返しというわけさ」。ヨーロッパでは、日本文化は中国文化の一亜流と思われている、そのことを私はずっと後になって実感しました。スウェーデンの人に、漢字のことを何気なくJapanese characterと言ったら、その人はまさに間髪を入れずChinese characterと、言い返してきました。からかうような、ちょっと皮肉な表情で。そう、漢字は漢の字でした。

大人になってから、日本のした侵略戦争についての本を読むようになり、「中国、韓国、沖縄にはけっして行かない、行ってはならない」と思うに至ったのですが、そのことは一面、それらの地域についてもっと具体的に知ることを妨げた気もします。そっと黙礼して目をそらしてしまっていたことになります。ところが、今から20年以上もまえから、つまり日本の全体としての右旋回がはっきりしてきたころから、敵国からの攻撃に備えるとか仮想敵国とかいう言葉が、防衛白書のような政府文書や新聞紙上で、目につくようになりました。「ん?敵国ってどこのこと?」と思いました。どうやら日本は、敵国からの攻撃がありうるから軍備をもっと増強しなければとか、日米安保の強化とか、言っているらしい。敵国、敵国っていっても、SFじゃあるまいし、具体的な国があるはずと考えたあげく、日本が想定している敵国は、中国のことでしか、ありえない、と結論しました。

「北朝鮮の脅威」はメクラマシで、仮想敵国は中国。中国が好きでも嫌いでもなかった、関心があるわけでもなかった私ですが、そう結論したら、日本周辺の国際情勢がとてもよくわかってきた気がしました。同時に、ひどく、憤りを感じました。なにを言うか。中国を侵略し、蹂躙したのは日本じゃないか。中国が一度だって日本に入ってきたことがあるか。日本を侵略したことがあるか。中国は、国家としての賠償権を放棄し、日本軍捕虜を寛大に扱い、中国残留孤児を貧しいなかで育ててくれたじゃないか。その中国を仮想敵国だなんて、なんて理不尽な話だろう・・・

いったい、どうしてだろう、どうして日本はこんな理不尽なことを言って平気なのだろう。答えはどこにも書いてはありませんでした。自分の知っているあらゆる事実を考え合わせて、この中国敵国視の根っこはずいぶん深いところにあるのではと思うようになりました。明治になってからすぐ、西郷隆盛の「征韓論」がありました。その300年もまえには、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」がありました。どちらも、ほんとうに狙っていたのは、中国、つまり清であり明でした。秀吉が明を狙ってまず朝鮮に攻め入ることをもくろんだとき、当時来ていた宣教師は秀吉の無智、無謀に驚いたらしい。明が大国であることを知っていたからです。

では秀吉の「朝鮮征伐」が日本の中国への野心の皮切りかというと、それも、唐突に出てきたとは思えません。もっと根が深いように思えて、894年の「遣唐使の廃止」に思い当たりました。「国際関係」はつねに複雑で解釈は多々ありますが、私は「遣唐使の廃止」は、国家としての体制を整えた日本の、「独立宣言」だったのではないかと思っています。東アジアの歴史においては、中国大陸に成立する国家とその周囲の東アジア諸国のあいだには「冊封関係」という相互契約的な外交関係がありました。日本は「遣唐使の廃止」で、中国大陸に成立する国家との「冊封関係」圏に属さないという選択をしたことになります。

日本は、「冊封関係」圏に属さないという選択を、江戸時代まで維持することができました。その間に元寇があり、秀吉の「朝鮮征伐」があり、薩摩藩を通じての琉球王国支配もありました。「通信使」や使節の派遣、活発な民間の交易も私的な往来もありました。けれど、「冊封関係」から独立して存在できたについては、そうとうな航海技術がなければ渡れない海に囲まれた大きな島という地理的条件や、恵まれた気候条件があったせいでしょう。

東アジア唯一の国家間の外交関係としての「冊封関係」から独立できたことは、結果として、周辺の他民族との、持続的な軋轢や交渉や交流、いわゆる異文化体験を経験しないことにつながりました。日本人には国粋意識が非常に強いいっぽうで、民族意識の形成が非常に弱いのは、歴史的な異文化体験の欠如からではないでしょうか。「大学での授業を英語で」という政府方針への反発がきわめて少ないことにも、日本人の民族意識の弱さを痛感します。私は、日本人の国粋主義には、世界的にみても独特なものがあるという意見です。「自分の国がいちばんいい。自分の国が世界の中心」は自然な感情です。けれど、それが幼児的な自己中心的な感情であることは、大人の常識です。それは他国人、他民族に対して公然と振りかざしたり、押しつけたり、認めさせようとしていいものではありません。けれど日本はある意味では非常に「無邪気」に、なんの痛痒も感じずに、他民族に自民族の文化を強要してきました。他民族に対する「無邪気」は、「無慈悲」でもありました。その「無邪気」が、独特です。

日本は朝鮮半島とは古代から非常に密接な関係がありました。けれどその朝鮮半島と冊封関係にあるのは、大国の中国、朝鮮半島は中国と国境を接し、朝鮮半島の目はつねに中国を向いています。朝鮮半島は、中国との関係がよければ日本と断絶しても別に困ることはないのです。中国はずっと、日本にとって、唯一の、ほんとうの意味の外国であり、できるものなら日本がとって代わりたい、大国でした。そんな孤立のなかで日本は、中国への対抗意識をいわば、純粋培養していったのではないでしょうか。中国への対抗意識と同時に朝鮮半島への侮蔑感、優越感をも。それは、もともとは支配階層の意識だったのですが、明治以後、急速に庶民階層にも浸透していきました。教育と言論の支配によって。

ところが中国からみれば、日本はたくさんある周辺国の、そのまた辺境にある国です。日本に対してそれほどの関心はなかったでしょう。日本と中国の、お互いへの意識の落差は今も続いていて、中国のほうでは、日本がなぜこれほどまでに中国に敵対的なのか、よくわからないらしいのです。歴史的には日本のせいでひどい迷惑、被害を蒙ったのは中国なのに、加害国の日本が今また、中国が脅威だ、敵国だと騒いでいる。なぜなのか、わかるわけがない。中国でなくても、世界のどの国にも不可解、理不尽と思えているでしょう。日本はいつか、中国への侵略行為を恥じること、朝鮮半島の併合、同化の強要、強制連行(従軍慰安婦を含めた)、琉球王国の併合と植民地化を恥じることがあるでしょうか。

とても難しいことです。一つには、先方の被害があまりにも一方的で、あまりにも苛酷だったからです。それは、個人間の関係で言えば、殺人に該当する、つぐないようのない、加害です。深層心理的にですが、日本は、あまりにひどい被害を与えてしまったから、そのことが認められない、認めたくないのです。認めて、あちらの被害にみあうつぐないを求められたら、たまらない。今度はこちらが身ぐるみ剥がれることになる・・・自分がやったことを相手もすると思ってしまう、その恐怖があると思います。もう一つには、日本では、国同士の関係においても個人の関係においても、対等な関係の構築が難しいからです。日本にとって、中国は、上と認めるのは絶対に嫌だが、下におくわけにもいかない、おさまりのわるい国なのです。いずれにしても、日本の中国に対する敵愾心には、合理性や倫理性、普遍性がなにもない。ストーカーの怨念レベルです。

テレフォン人生相談のパーソナリティーの1人、加藤諦三さんは、番組の中で「あなたのいちばん認めたくないことを認めることができれば、あなたの問題は解決します」と、必ず言っています。日本の「いちばん認めたくないこと」は、中国敵視、朝鮮蔑視、そして沖縄無視が、「いわれなきもの」、つまり、その原因(非)が相手方にあるのではなく、ひとえに自分にあることを認めることではないかと思っています。

農作業中の小林さん

こばやし・はるよ

岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

おいしそうないちご
仲宗根勇: 沖縄差別の源流と「和解」をめぐる疑惑・今後の闘い(映画『圧殺の海 第2章 辺野古』パンフレットより)

Posted: 16 Jun 2016 07:53 AM PDT

映画『辺野古』パンフレット

『Marines Go Home 2008-辺野古・梅香里・矢臼別』(2008)、『アメリカばんざい』(2008)、『圧殺の海』(2013)、など、米国軍事主義の闇を暴き闘う市民たちの姿を撮り続けてきている「森の映画社」の新作、『圧殺の海 第2章 辺野古』(藤本幸久・影山あさ子共同監督)は、2014年11月翁長知事が誕生してから2016年3月、国と県の間の「和解」が成立するまで、「辺野古では何が起きていたのか」、海と陸における闘いの日々をドキュメントした作品だ。沖縄ではすでに5月末から6月にかけて上映、6月11日から大阪、6月25日から東京など全国で続々と上映される(詳しくは「森の映画社」のサイトへ)。

この映画のパンフレット『圧殺の海 第2章「辺野古」パンフレット』24-27頁、元裁判官の仲宗根勇氏の文を許可を得て転載する。この映画でも触れられている国と県の「和解」の第9項が判決確定後に県の手足を縛り不利にはたらく可能性とその対策について解説している部分は青字で示してある(注:文中参考資料として掲載した「和解勧告文」「和解条項」および末尾の仲宗根氏プロフィール、写真はブログ運営人による挿入。文中参考記事にもリンクを張っている)。

仲宗根氏は最後から2番目の段落で、もし県が新たな訴訟で敗訴した場合、「県が自ら招いてしまった第9条の拘束を自動的に受けることになるので、その拘束から逃れるためには、新たな訴訟の判決直前に翁長知事が埋め立て承認の撤回をするのが得策」と述べている。これは県が耳を傾けるべき重要な提言ではないか。@PeacePhilosophy

沖縄差別の集中的表現=辺野古新基地建設の暴力的強行

 

〜沖縄差別の源流と「和解」をめぐる疑惑・今後の闘い〜  

 

仲宗根勇
(うるま市島ぐるみ会議・うるま市具志川九条の会共同代表)

「沖縄差別」という言葉が今日ほど日常的に広く頻繁に語られた時代は、沖縄の近現代史においてかってなかったことである。近くは、1960年代から70年代初頭にかけての復帰運動がピークに達した頃の闘争の現場において、本土政府の沖縄に対する理不尽な仕打ちに対し、沖縄の民衆が現在のように「沖縄差別を許すな!」などというシュプレヒコールを唱えることはなかった。その理由は、当時の主流的な復帰運動が抱えた思想原理に内包されていたということができる。つまり、「祖国復帰」(母なる「祖国」への復帰)という言葉に象徴される当時の主流的な復帰思想は、日本国が単一民族国家であることを無意識のうちに前提にして、国民国家の構成員としての沖縄人イコール=日本国民という真正な等式が何の疑問もなく立論され、言わばその等式を前提にしての復帰運動であった。それゆえに、沖縄を含む日本国家の同一民族論に立つこの等式からは「差別」という観念は論理必然的に排除・隠蔽されねばならなかったわけである。しかし、この運動原理の前提とは異なり、沖縄人を異族視する、本土における一般的な民衆意識が広範に存在したことは、当時から現在に至るまで何ら変わってはいない。そうであるがゆえに、国土面積の0.6パーセントに過ぎない沖縄に全国の約74パーセントの在日米軍専用施設を押しつけて恥じない日本政府とそれを支持する多数の日本国民という不条理な構図が続いているわけである。

しかし、「復帰」後40年以上の歳月が流れた現在、復帰に状況変革の夢をかけた沖縄の民衆の政治意識は大きく変容している。「復帰」前後においては、意識的に論じられることがなかったいくつもの論点・視点が公然と浮上してきた。例えば、沖縄人がいわゆる「先住民族」であるか否かが新聞紙上などで論争され、安倍内閣によって平和憲法が弊履のように捨てられている日本から離脱し理想の国家を構想する「琉球独立論」が学問的・運動論的に確かな形で民衆の前に立ち現れている。「日本会議」などの右翼勢力をバックにした安倍内閣が日本国憲法をクーデター的に解釈改憲して、自衛隊がアメリカの傭兵となって世界中で戦争をすることができる戦争法を強行採決し、沖縄差別の発現である辺野古新基地建設を暴力的に強行する日本国家に対する底なしの絶望がその背景にある。

そもそも、沖縄に対する日本国からの差別は長い歴史を持っている。

日本本土の近世幕藩体制の支配の正当性は天皇の権威をバックにして構築されたものであった。豊臣秀吉は関白の権力を、徳川家康は征夷大将軍の権力を天皇の官吏として付与されて、その支配体制の秩序形成に成功したのである。

これに反し、15世紀初頭、尚巴志によって統一された琉球国は天皇の秩序体系とは無縁の独立した国家であった。その支配の正当性は、中国皇帝からの冊封と女性が執りおこなう国家祭祀に基づいていたとされている。

その万国津梁の平和国家は1609年の島津藩の侵攻によってあえなく首里城を明け渡し、島津の属国のような地位にありながらも、独立国として存立し続けていたことは、1854年のペリーとの琉米条約、1855年のフランスとの琉仏条約、1859年オランダとの琉蘭条約を琉球国が国家主体として締結した事実がその何よりの証明である。

1871年(明治4年)明治維新政府によって、本土で廃藩置県が実行された際には、琉球国は鹿児島県の管轄下に置かれ、翌年に琉球藩とされた。そして、明治維新政府は琉球藩処分法を制定し、処分官に任命された松田道之が、1879年(明治12年)陸軍歩兵400余名、警官・随行官吏160余名を引き連れて首里城に乗り込み、「首里城明け渡し」「藩王尚泰の上京」「土地、人民などの引き渡し」を命じた「令達を朗読しこれを交付」(真境名安興「沖縄一千年史」)した、いわゆる「琉球処分」によって、琉球藩は廃止され沖縄県として廃藩置県がなされた。その後、沖縄人は、明治憲法下の天皇制国家の下に組み込まれ、台湾人、朝鮮人などの外地人とは異なる内地人たる「日本臣民」の範疇に入った。しかし、沖縄県が置かれた後においても、地方制度や土地制度、租税制度、裁判制度など多くの分野で、沖縄において本土とは異なる制度が施行された。沖縄県庁では長崎県や鹿児島県出身者が重要なポストを占め、量的にも少ない沖縄県出身者が重要なポストに就くことは極めてまれだった。東京帝国大学を出て県の高等官となった謝花昇が、県政刷新を目指して、「琉球王」の異名を持った薩摩閥の奈良原茂知事の専制との戦いに敗れ狂死した軌跡は今なお伝説的に語られている。

本土では1873年(明治6年)に地租改正が実施され、土地所有者が確定されて地券が発行されたが、沖縄では1902年(明治35年)になってようやく土地整理事業(地租改正に当たる)が終了し、首里王府時代の封建的な旧慣土地・税制を改革し、近代的な土地所有権が確立され、それ以後、税法や民法などが施行された。王府時代の行政単位である間切(まじり)には番所(ばんじゅ)、村には村屋(むらや)のような地方制度が沖縄県設置後も温存され、沖縄に本土同様の地方制度が導入されるのはようやく1921年(大正10年)のことである。日本本土では1890年(明治23年)第1回の衆議院議員選挙が実施されたが、沖縄県民の意思を国政に反映させる選挙法の実施は本島で1912年(大正元年)、宮古・八重山は1919年(大正8年)のことであった。

明治、大正期における本土と異なる制度の施行とその遅れが因となり果となって、1903年(明治36年)の「学術人類館」事件で露呈したような沖縄人を異族視する本土民衆の潜在意識が沖縄差別として拡大再生産された。その結果、皇民化教育=日本人教育が徹底されたこともあって、沖縄戦における日本軍によるスパイ容疑での住民虐殺、壕追い出し、食糧強奪、そして集団自決、法的根拠のない14歳以上の学徒の戦場への駆り出しなど、軍と防衛召集された県民の軍民一体化の状況下において、本土防衛のための「捨石」作戦により、「鉄の暴風」が吹きすさぶなか、四人に一人の県民十数万人の命が奪われ、「平和の礎」の死者台帳にその名を連ねる地獄図を呈する惨劇を招いたのである。

1945年の敗戦後、沖縄は「戦後」民主主義下の本土から分離され、米軍の独裁的な裸の占領支配を受け続け、サンフランシスコ講和条約で日本は独立し、本土の占領は1952年に終わる。しかし、沖縄は講和条約第3条の軛(くびき)を背負い、1972年の核持込み密約・基地強化が実体の、名のみの「復帰」から現在に至るまで過剰負担の米軍軍事基地の重圧に呻吟し続けている。

アメリカの「アジア回帰」戦略に呼応して集団的自衛権を現実化する戦争法を強行採決した安倍内閣が、諸々の選挙で示された沖縄の圧倒的な民意を無視し、アメとムチを振りかざして辺野古新基地建設を強行し、配備隠しの果てのオスプレイの配備強行、南西諸島への自衛隊配備を推し進めている現実それ自体、沖縄差別そのものの集中的表現である。

同時にそれは、憲法違反状態の小選挙区制と野党分裂が生んだ虚構の多数与党にあぐらをかき、日本国憲法を無視し立憲主義を破壊しつつ明文改憲をもたくらむ安倍内閣による、憲法クーデターともいうべき憲法の危機的状況を意味する。辺野古・高江の闘いは、沖縄の環境と未来を守るとともに、右翼・安倍晋三内閣による世界に冠たる日本国憲法の改悪策動を許さない、平和と人権を守る歴史的な闘いの最前線に位置する。

その現場の闘いの場外戦ともいうべき法廷における国・県の闘いもほぼ同時的に進行してきた。

2013年12月27日、仲井真知事は沖縄防衛局が同年3月22日にした辺野古沿岸部埋め立て申請を承認した。知事再選時の県内移設反対の公約を破り、国の環境影響評価書の環境保全措置では自然環境の保全を図ることは不可能との知事意見も出しながら、申請を「行政手続上適法」として承認したのであった。承認直前に上京しての不自然な面会謝絶の病院入院後の官邸との協議で、3000億円の予算や5年以内の普天間停止の政策約束を内閣総理大臣から取り付けたとして、「いい正月ができる」などと浮かれた発言をしたことで県民の激しい反発を買った仲井真知事は、2014年11月26日の知事選挙で10万票の大差でかっての盟友翁長雄志那覇市長をかつぐ「オール沖縄」に惨敗した。当選した翁長知事は公約を実現すべく、2015年1月26日埋め立て承認手続きを検証する第三者委員会を設置した。委員会は同年7月16日埋め立て承認に法的瑕疵ありとの報告書を提出し、それに基づき知事は同年10月13日埋め立て承認を取り消した。沖縄防衛局は、行政不服審査法を濫用して県知事の承認取り消しを違法としてその無効を求める審査請求と執行停止を国土交通大臣に申し立てた。同年10月27日国土交通大臣は承認取り消し処分の効力を停止する決定をした。これに対し、沖縄県は同年12月25日効力停止決定の取り消しを求める抗告訴訟を那覇地裁に提訴した。また同じ効力停止決定に対し、国地方係争処理委員会への審査申立て(同年11月2日)が却下(同年12月24日)されたのに対し、2016年2月1日、執行停止決定の取り消しを求めて福岡高裁那覇支部に提訴した。こうして、二つの訴訟を県が提訴せざるをえなかったのは、農水相によって県知事の沖縄防衛局に対する作業停止指示の効力が2015年3月30日に停止された過去から学ばず、沖縄県が再び同じ轍を踏み、取り消しの効力停止決定を阻止する法的手段(私が県の基地対策課と面会し提言書を提出した、国土交通大臣による執行停止決定前にすべき行政事件訴訟法37条の4〜5、3条7項の差止めの訴え提起・仮の差止め申立て)があったにもかかわらず、取り消しの効力停止決定をなすがまま許してしまった結果に他ならない。一方、国は福岡高裁那覇支部に代執行を求める代執行訴訟を同年11月17日に提起していた。

こうして三つの訴訟が係属している中で、2016年1月29日代執行訴訟の第3回口頭弁論後に福岡高裁那覇支部からA案、B案の二つの和解案が同時に示され、和解勧告がなされた。そして3月4日電撃的に和解が成立した。和解において高裁に係属した国・県の訴訟及び沖縄防衛局の審査請求・執行停止申立てを取り下げることに双方同意し訴訟・審査請求・執行停止申立ての係属が消滅した。その結果、国土交通大臣がした承認取り消し処分の効力停止決定は失効し、翁長雄志知事がした承認取り消しの行政行為の効力が復活した。そして「沖縄防衛局長は、埋め立て工事を直ちに中止する」(和解条項第2項)ことになったのである。

1月29日の和解勧告文(ブログ運営者が挿入)
3月4日成立の和解条項(ブログ運営者が挿入)

 

二つの和解案の内容が報道された直後から、私は、和解勧告の時期・方法についての異例の訴訟指揮の仕方に加え、和解案A案にある条項(「原告(国)は、新飛行場をその供用開始後30年以内に返還または軍民共用空港とすることを求める交渉を適切な時期に米国と開始する。」)を疑問視した。この条項では、交渉開始時期が不明確であるのみならず、米国との交渉の成否は第三者である米国の意思いかんで決まる不確定なものであるから、国が「自由に処分しうる権利または法律関係」が和解の内容とはなっていない。

「当事者が自由に処分しうる権利または法律関係」について「当事者双方間に互譲(ゆずり合い)がある」ことが訴訟上の和解の成立要件である。従ってこの条項は和解成立の要件を欠き無効なものとなる。通常の能力を持つ裁判官がこのような和解条項を提案するはずはなく、これは、裁判事務に不案内の法務官僚が作成したものだろうと、私は、直感した。2016年3月24日付けの中日新聞や沖縄タイムスに共同通信の配信記事が掲載された(「菅氏主導 極秘の調整ー辺野古和解の舞台裏」(中日新聞)、「国、移設へ透ける打算ー辺野古訴訟和解の裏側」(沖縄タイムス)。その記事内容は、案の定、私の推測どおりであった。記事によると2月2日に首相官邸の執務室で首相が国の訴訟を所管する法務省の定塚誠訟務局長らと協議、2月12日には官房長官、外務、防衛大臣と定塚誠訟務局長が協議の結果、B案(暫定的な解決案)の受け入れに傾く。記事は、「関係者は『定塚氏は高裁支部の多見谷寿郎裁判長と連絡をとっていたとみられる』と証言する。」とも書く。三権分立、司法権の独立に重大な疑念を抱かせる驚くべき内容である。「多見谷寿郎裁判長と定塚局長は、成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた『成田訴訟』を千葉地裁、東京高裁の裁判官として手がけた過去がある。多見谷氏が福岡高裁那覇支部に異動になったのは昨年10月30日のことである。」(2016年3月24日付沖縄タイムス 社説)「送り込み人事」が疑われ得る多見谷裁判長と貞塚局長のこの間柄からすると、関係者の「証言」は、法務省を含む官邸側が裁判長と裏で通底したのではないかとの疑いを抱かせる。

代執行訴訟和解勧告文は「仮に本件訴訟で国が勝ったとしても、さらに今後、埋立承認の撤回がされたり、設計変更に伴う変更承認が必要となったりすることが予想され、、、知事の広範な裁量が認められて(国が)敗訴するリスクが高い。」と指摘する(その指摘の理由は後述)。そしてB案の最後の条項は「被告(県)と原告(国)は、違法確認訴訟判決後は、直ちに判決の結果に従い、それに沿った手続を実施することを相互に確約する。」とする単純明瞭な確認条項である。

ところが、和解条項第9項は「原告および利害関係人(沖縄防衛局長)と被告は、是正の指示の取消訴訟判決の確定後は、直ちに、同判決に従い、同主文およびそれを導く理由の趣旨に沿った手続きを実施するとともに、その後も同趣旨に従って互いに協力して誠実に対応することを相互に確約する。」と修正された。この修正は官邸と法務省が舞台裏で綿密な法廷戦術をねった協議の結果と思われるが、「これを根拠に菅氏は再訴訟で勝てば、、、辺野古移設を推進できるとのシナリオを描く。」と記事は書く。

B案と和解条項第9項の違いは明白である。B案が単に「判決の結果に従う」というのに対し、9項では「主文」、「主文を導く理由の趣旨」(これは実務上「判決理由」と呼ばれる)、「その後も同趣旨に従って」と三重に重ねた「確約」がされている。

主文とは判決の結論の部分のことで、判決主文ともいい、訴えの却下、請求認容または請求棄却を明示し、既判力、執行力が働く範囲は民事訴訟法114条第1項(「確定判決は、主文に包含するものに限り、既判力を有する。」)により主文が基準になるので、法定事項をわざわざ和解条項に記載する必要はない。B案に「主文に沿った」云々の記載がないのは当然である。したがって、第9項に本来、記載不要の「主文」の文字を冒頭にあえて記載したことは不自然であり、その真の記載動機は、核心的でより重要である「およびそれを導く理由の趣旨」以下の文章から相手当事者の注意力をそらせ隠そうとした、目くらましの策略であったと考えるほかない。

判決理由とは、判決の中で、主文の判断を導く前提事実や争点、法の適用を示して判断の過程を明らかにする部分で、判決理由そのものは既判力をもたない(被告の相殺の主張についての判断にだけ唯一例外的に既判力が生じる 民訴法114条第2項)。

既判力というのは、裁判が確定した場合、その裁判で判断された事項は当事者も裁判所も拘束され、再び訴訟上問題になっても先の判断と矛盾する主張や裁判は許されなくなる効力のことである。従って、判決理由については既判力がないので、当然に、先の裁判の判断と矛盾する主張は許されることになる。和解勧告文で埋立承認の撤回や設計変更に伴う変更承認に触れている理由は、国が勝訴しても、その判決理由に既判力がないこと、つまり和解条項第9項のような3重の合意が前提になっていないからこそ、知事の権限行使などに対する国のリスクが残ることを指摘しているわけである。しかし、和解条項第9項の合意により、当事者双方が主文と同様に判決理由にも既判力を認めたことになると解されれば、例えば、仮に「埋立は国防・外交関係に関わるので、知事には公有水面埋立法上の判断権がない」とする判決理由により県が敗訴した場合、県は、合意に基づく判決理由の既判力により、県に不利に判断された判決理由に拘束され、それと矛盾する設計変更承認などの知事の権限行使の主張が許されなくなるので、後日の県の権利行使に対するリスクを国は負わないことになる。

2016年3月10日付けの毎日新聞は、「政府が和解に応じたのは、(第9項の)『その後も』に注目し、『新たな訴訟では負けない』(官邸筋)との見通しの下、判決が確定すれば県の協力が得られると考えたからだった」と報じた。また、3月12日の日本経済新聞も「和解案は『新たの訴訟の結果が出たら双方が従う』というのが合意の前提だ。」として「(移設完了時期が遅れる)和解を選んだ背景には普天間移設の実現に向けた安倍晋三首相の「急がば回れ」の判断と、それを認めざるを得ないオバマ米政権の姿があった。」と報じた。

官邸と法務省が練り上げ、和解条項第9項に込めた意図はまさに報道の通りであろう。これと異なる沖縄県の代理人らの第9項解釈は、和解の結果の、県側の「勝利」性を強調するとともに、自己の訴訟代理行為の無過失・無謬性を弁証する独自の希望的解釈に過ぎない。3月1日に谷内正太郎・国家安全保障局長が訪米しホワイトハウスでライス大統領補佐官(国家安全保障担当)と会談し、和解について米国の理解を得たことも伝えられた。また、和解成立前、安慶田副知事が上京し、官邸と和解成立に向けた非公式協議をしたと思われる報道もあった。官邸側の和解に至るまでの過程が周到に準備されたのに対し、県側は、弁論終結後は裁判所と県の代理人との話し合いはなく、彼らにとって、国の和解受け入れは「突然の話だった」(竹下代理人 3月5日付琉球新報)のでドタバタと裁判所の和解期日呼び出しに応じて出頭し、熟慮の時間もなく和解合意に至ったものと思われる。

第9項の文言と新基地建設は止めると言ったこととの整合性に疑問を呈した記者の質問に対し、県の竹下代理人は、和解条項第9項の射程範囲は埋め立て承認の取り消しだけに限られ、判決後の知事の権限行使などはできると答え、「少なくともこの和解に関しては(県に)デメリットがあるとは考えていない。」と述べている(2016年3月5日付琉球新報)が、「(和解せずに)沖縄が勝てる闘いを最後まで闘い抜いていれば、より大きな実を手にしていた可能性はないだろうか。『和解』は果たして沖縄に利する選択だったのか。和解に至るまでの過程とともに多角的な検証が必要である。」と述べる平安名純代・沖縄タイムス・米国特約記者の提言(2016年3月23日付沖縄タイムス「想い風」和解成立 利益は誰に)にこそ真相が潜むように思われる。

 

翁長知事は新たな訴訟の判決確定後の対応について、埋め立て承認の撤回も視野に入れると4月5日の毎日新聞とのインタビューで明らかにした。(4月6日付毎日新聞)。

しかし、県の敗訴が確定した後は、県が自ら招いてしまった第9項の拘束を自動的に受けることになるので、その拘束から逃れるためには、新たな訴訟の判決確定前、かつ可能な限り長期間の裁判続行の後の弁論終結前後に承認の撤回をする方が得策であると考える。

公益上の必要があるときはいつでも自由に撤回はできるが、是正の指示の取消訴訟判決確定まで協議を続けることになっているから、裁判の期間が長いとそれだけ工事の中止期間も長く続く。すると承認撤回が争われる後日の裁判までの既成の工事量が少量に止まりその経済的損失もさほど増えないので、撤回の要件である「公益上その効力を存続せしめえない新たな事由」と工事の既契約関係者の受ける契約損害・経済的損失との比較考量の際に県に有利な事情となり、また、撤回によって生ずる不利益に対する補償をする場合に補償の額を最小限に止めることができる。和解成立当日やその後の訪米時のオバマ大統領との会談で安倍首相が「辺野古移設が唯一の選択肢は不変」と発言したことは、国が「円満解決に向けた協議を行う。」(和解条項第8項)気などさらさらないことを示している。

結局、法廷闘争の帰結とは関係なく、基地包囲の闘いの現場に結集する県民の無抵抗・不退転の民衆運動の持続発展こそが辺野古・高江の闘いの帰趨を決することになるだろう。(2016年4月20日脱稿)

なかそね・いさむ

1941年うるま市生まれ。1965年東大法学部卒業後、琉球政府裁判所入り。2010年東京簡易裁判所で退官。現在、うるま市具志川九条の会・うるま市島ぐるみ会議各共同代表。近著に『聞け!オキナワの声 闘争現場に立つ元裁判官が辺野古新基地と憲法クーデターを斬る』(未來社、2015年)、『沖縄差別と闘う 悠久の自立を求めて』(未來社、2014年)。

【転載】矢ケ崎克馬「隠される内部被曝―福島原発事故の実相」Yagasaki Katsuma: Internal Exposure Concealed – The True State of the Fukushima Nuclear Power Plant Accident

Posted: 15 Jun 2016 02:36 PM PDT

3月16-18日『琉球新報』に掲載された、琉球大学名誉教授矢ケ崎克馬氏の3回シリーズ記事「隠される内部被曝―福島原発事故の実相」(上中下)を許可を得て転載する。この記事は参考資料を示すために文末注をつけた英語版が The Asia-Pacific Journal: Japan Focus に掲載されている。

Internal Exposure Concealed: The True State of the Fukushima Nuclear Power Plant Accident

 

【新刊案内】新藤榮一・木村朗編 『沖縄自立と東アジア共同体』(花伝社)

Posted: 09 Jun 2016 11:29 PM PDT

新藤榮一・木村朗編新刊『沖縄自立と東アジア共同体』(花伝社)が出ました。

出版社の広報より―

“沖縄”に光をあてる!

琉球・沖縄からの視座

鳩山民主党政権以後に高まった、沖縄の自立・独立を求める動きーー「自発的従属」を本質とする現在の日米関係の根本的見直しにもつながる、東アジア共同体構想。その中心地となる「沖縄」を主軸に、様々な視点から21世紀の東アジアにおける国際秩序のあり方を問う。

いまこの人たちが沖縄を語る──超豪華執筆陣!
進藤榮一、木村朗、鳩山友紀夫、高野 孟、大田昌秀、前泊博盛、島袋 純、松島泰勝、新垣 毅、前田 朗、藤村一郎、稲嶺 進、伊波洋一、糸数慶子、川内博史、仲地 博、石原昌家、岩下明裕、金平茂紀、白井 聡、ガバン・マコーマック、ピーター・カズニック、野平晋作、乗松聡子、元山仁士郎、玉城 愛、猿田佐世、倪 志敏、阿部浩己、目取真俊

この本に寄稿させていただいたブログ運営人乗松聡子のコラムを下に紹介します。
ちなみに、この本の最終的な題となった『沖縄自立と東アジア共同体』というタイトルの「沖縄自立」とはどういう意味でつけられたのか議論を呼ぶところではないかと思います。沖縄人主体ならともかく、日本人主体に作った本が提唱する「沖縄自立」とは、「自立せよ、沖縄」(今自立していないんだから)という意味に取れるものです。これは「沖縄問題」といわれがちなものが本当は「日本問題」であるのと同様、まず米国に追従し沖縄に基地を押し付ける日本こそが自立すべき問題なのではないかと思います。問題は沖縄ではなく日本にあることをまず日本人が自覚することではないか。私がこの一文を書いたのもそのような問題意識からです。

「東アジア共同体」実現の鍵は、日本人自身の「視座」にある

乗松聡子

カナダ・バンクーバーというアジア系住民の多い地域に暮らしながら日本を外から観察するにつけ、日本人は歴史認識においてアジア隣人と深い隔たりがあるということを日々実感する。日本人の多くは、日本が明治開国以来欧米の轍を踏み産業化・軍国化する中、沖縄を含むアジアで植民地支配と侵略戦争を拡大し破局を迎えるまで、つまり「終戦」までの約70年間の歴史と自国軍のアジアでの加害行為をほとんど知らない。自国内においても在日コリアン、沖縄、アイヌの人たちへの差別という形で残る植民地主義に気づいていないか、気づいていても知らぬふりをしている(参照:知念ウシ『シランフーナーの暴力』未來社、2013年)。この加害者意識の欠如は、「東アジア共同体」形成の最大の障壁の一つであろう。

EUは、ドイツによる戦時の加害への反省と教育の徹底、かつて侵略した国や地域との和解という土台があってこそ実現できたのだ。アジアにおいても、日本人が冒頭に述べた負の歴史と今に続く影響を真摯に学び、謙虚な姿勢でアジア隣人たちの信頼を取り戻す努力を行わない限り、「東アジア共同体」の実現はできないだろう。特に現在は安倍保守政権が率先して行っている歴史否定や中国敵視にもとづく好戦的政策が弊害になっている。

また、日本ではアジア隣国に対して友好的であろうと思う人たちでさえ、靖国神社、南京大虐殺や日本軍「慰安婦」といった歴史認識問題については日中、日韓の「溝を埋める」、歴史的理解の相違を「擦り合わせる」といった考え方をしている人が多いようだが、加害と被害の間で「中立」ということはあり得ない。悪いことをした方が悪いのである。日本人から自らの歴史的加害の立場性を踏まえ、明確な責任意識を示してこそ和解の始まりになる。鳩山友紀夫氏が2015年8月、韓国の西大門刑務所跡で日本の植民統治に対して誠実な謝罪をしたことはそのような意味で大変評価できることであり、敬意を表する。

日本人の加害者意識の欠如は領土問題においても見られる。韓国聖公会大学のクォン・ヒョクテ教授は、「日本では植民地の問題と分離して領土問題を見る傾向が強い」と言う。日本が領土と主張する場所は、全て19世紀後半以降日本が帝国をどんどん拡大させる過程で生じたものであり、現在の論争はその植民地化の歴史の文脈で捉えなければいけない。「東アジアの領土紛争は基本的に日本問題であり、日本帝国主義の問題だ。」とクォン氏は言う(『プレシアン』2012年末インタビュー)。

日本帝国拡大の中で強制併合された国や地域には当然沖縄も含まれる。独立を含め、沖縄と日本の今後の関係については沖縄内でも多様な意見があるが、いまだに植民地状態から解放されず、日本が合意した日米安保の基地負担の大半を沖縄に押し付けていることについては、沖縄の大半の人々が不平等であり差別であると感じている。それなのに日本のリベラルとされる人たちの多くは、沖縄との「連帯」をいとも簡単に口にする。日本人の沖縄への加害意識の欠如は、他の被害国・地域に対するそれを上回るものであり、それ自体が継続する植民地主義を象徴している。

作家の目取真俊氏は、『沖縄「戦後」ゼロ年』(2005年、NHK出版)において、元日本兵が、中国で行った残虐行為については反省したり、謝罪したりした記録は相当数あるが、沖縄戦における住民虐殺については「どうして謝罪や反省、検証をする兵士がいないのか」と指摘し、「そこに露呈するのは、日本人の沖縄人に対する根深い差別感情なのではないか」と問う(pp.35-6)。加害者意識の欠如は相手を被害者として対象化する能力の欠如でもある。

「東アジア共同体」構想においても、「平和の要石」として沖縄を本部にしたいという案もあるようだ。しかし沖縄を日米の軍事植民地としている状態を変えられていないどころか、新基地の阻止もできていない状況の中、どうしたら沖縄をアジアの平和的シンボルとして持ち上げることができるのか。その飛躍自体が、沖縄に対する無責任とさえ映る。

こういった傾向、また、日本人が沖縄の基地抵抗運動を「民主主義が生きている」といった言葉で美化するような傾向には、目取真氏が前掲書(pp.151-61)で指摘するような、自らの暴力(基地の強要)をなかったことにして沖縄を「癒しの地」として賛美するような植民者的姿勢が見え隠れしないか。日本人が沖縄に対してすることはまず、歴史的な植民支配、強制同化、沖縄戦でもたらした甚大な被害を踏まえた上での、戦後から今に続く軍事要塞化という自国の不正義の是正ではないのか。

この本の主題は『東アジア共同体と沖縄の視座』と聞いているが、このテーマの中には、歴史認識や植民地主義の残存における主体である肝心の「日本」が見えない。「視座」とは辞書定義では「物事を認識する立場」だ。「東アジア共同体」が可能かどうかの鍵は、沖縄を含むアジア諸国・諸地域に対し日本自身が責任ある「視座」を持てるかどうかにかかっているのではないか。

日本人として、「東アジア共同体」を共に実現させたいからこそ苦言も含めて提言をさせていただいた。

のりまつ・さとこ

ピース・フィロソフィー・センター代表、『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター、「バンクーバー九条の会」世話人。1965年東京出身。1982-84および1997年以降、通算20年カナダ西海岸に在住。編著『正義への責任―世界から沖縄へ①』(琉球新報社、2015年)、共著『沖縄の〈怒〉-日米への抵抗』(法律文化社、2013年)、『よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃないか!』(金曜日、2014年)他。

「元海兵隊員」の事件をうけて「海兵隊撤退要求」というのはおかしいのではないですか

Posted: 07 Jun 2016 09:23 AM PDT

下方、6月3日『沖縄タイムス』に載った当ブログ運営者の評論です。

「海兵隊撤退要求」という動きがあるようですが、今回の事件の容疑者が「元海兵隊員」だからということなのでしょうか。しかし容疑者は事件当時、嘉手納空軍基地の軍属でした。このコラムにも書いているようにこのような犯罪は米軍の存在という構造そのものが生み出すものであり、軍人か軍属かの違いなど関係ないのです。いずれも基地から派生した存在なのであり基地の外で同等に凶悪犯罪が行える存在なのだから、容疑者の「元海兵隊員」という側面にのみ注目して「海兵隊撤退」のみを要求するのはおかしく、当然嘉手納の空軍にも撤退要求するものではないでしょうか。しかしそうなると海軍や陸軍が少数派である沖縄において海兵隊と空軍のみ撤退を要求するというのもおかしなことです(下記在沖米軍構成員参照)。95年の事件の3人の犯人は海兵隊2人と海軍1人でした。2012年の強姦事件は海軍兵2人によるものでした。事件を起こす人がどこの軍の所属かなどそのときによって変わりうるもので、直近にあった事件を起こした人がどこの所属か(所属だったか)が沖縄全体の根本要求を左右するものであってはいけないのではないでしょうか。保守層の支持が得られないという懸念があるようですが、安保を基本的に支持する人たちは、沖縄の基地面積の大半をしめる(約8割)海兵隊全体の撤退など要求できないのではないでしょうか。それなら全軍撤退を要求することで何も失うものはないと思うのですが。この要求は今回の事件を「受けて」するものではなく、今まで表面化したすべての犯罪、表面化せず泣き寝入りとなった見えないもっともっと多くの犯罪の被害者の声すべてを代弁するものであってほしいと思います。自分も自分の立ち位置から沖縄からの全軍撤去のために訴えて動いていきます。 @PeacePhilosophy

追記:沖縄県の資料「沖縄の米軍および自衛隊基地」(統計資料集)2013年度版から在沖米軍の軍人・軍属・家族数を記しておきます。(2011年6月末現在の数字)★これらの数字はすでに5年前のものであること、また人員数は常に変動しているはずであることを承知ください。あくまでも目安として使うべき数字と思います。

総数 47,300人(軍人 25,843人 軍属 1,994人 家族 19、463人)

海兵隊 23,583人(軍人 15,365人 軍属 92人 家族 8,126人)
空軍 14、605人(軍人 6,772人 軍属 437人 家族 7,396人)
海軍 5,384人(軍人 2,159人 軍属 1,139人 家族 2,086人)
陸軍 3,728人(軍人 1,547人 軍属 326人 家族 1,855人)

【報道】80 U.S. scholars, including Chomsky and Kuznick, condemn latest rape/murder in Okinawa and call for removal of bases チョムスキー、カズニックら、沖縄の事件を糾弾、全基地撤去を訴える

Posted: 31 May 2016 06:29 PM PDT

Here is Okinawa Times’ coverage of the recent action. 沖縄の事件をうけ、米国からの怒りの声明!U.S. Activists, Organizations and Academics Call for Justice for Okinawans, Removal of Military Bases

Kyodo News’ report (in Japan Times) follows below. 先日投稿した、チョムスキー、カズニックら識者80人の沖縄声明が沖縄タイムスにこのように取り上げられました。下方は『ジャパン・タイムズ」に出た共同通信のニュース。

 

From Japan Times, May 29, 2016.

80 U.S. scholars urge Obama to shut down U.S. bases in Okinawa

KYODO

HTTP://WWW.JAPANTIMES.CO.JP/NEWS/2016/05/29/NATIONAL/CRIME-LEGAL/80-U-S-SCHOLARS-URGE-OBAMA-SHUT-U-S-BASES-OKINAWA/#.V042LZHHDB0

WASHINGTON – ABOUT 80 PROMINENT SCHOLARS AND ACTIVISTS ARE CALLING ON THE U.S. GOVERNMENT TO CLOSE ITS MILITARY BASES IN OKINAWA PREFECTURE OVER A BASE WORKER’S ALLEGED INVOLVEMENT IN THE DEATH OF A LOCAL WOMAN.

The scholars and activists include Peter Kuznick, an American University professor who is a staunch advocate of abolishing nuclear weapons, and cognitive scientist Noam Chomsky.

In a recently released statement, the activists encouraged the administration of President Barack Obama to discuss with Okinawa Gov. Takeshi Onaga the crimes committed by U.S. servicemen and the possibility of shutting the U.S. military bases there. Onaga requested a meeting with Obama during his G-7 visit but was rebuffed by the Abe administration.

“We are horrified by the recent rape and murder of a young woman from Okinawa by a former U.S. Marine,” it said. “Many of us have been to Okinawa, and stand with the peace-loving people there in demanding the complete withdrawal of U.S. military bases from that beautiful island.”

The arrest last week of Kenneth Franklin Shinzato, 32, a former marine who works at the U.S. Kadena Air Base in Okinawa, reignited anti-American sentiment in the prefecture, which has a heavy U.S. military presence.

Investigative sources have said the suspect admitted to killing the 20-year-old victim after sexually assaulting her.

沖縄の事件をうけ、米国からの怒りの声明!U.S. Activists, Organizations and Academics Call for Justice for Okinawans, Removal of Military Bases

Posted: 26 May 2016 11:36 PM PDT

FOR IMMEDIATE RELEASE プレスリリース

Contact: Alli McCracken, CODEPINK National Director, 860-575-5692alli@codepink.org

Sam Ritchie, CODEPINK Communications Director, 347-452-0008sam@codepink.org

U.S. Activists, Organizations and Academics Call for Justice for Okinawans, Removal of Military Bases
米国の活動家、団体、学者たちが沖縄の人々に正義がもたらされることを訴え、基地撤去を要求する

WASHINGTON, May 26, 2016 – More than 80 U.S. activists, organizations and academics have released a letter calling on the U.S. government to seek justice both for the young Okinawan woman recently raped and murdered by a former U.S. Marine and for all Okinawan victims of crime perpetrated by Americans stationed at the military base there. They further call on the government to honor the wishes of the Okinawan people by closing the bases on Okinawa and withdrawing from the island.

LETTER:

We are horrified by the recent rape and murder of a young woman from Okinawa by a former U.S. Marine. Crimes against Okinawans by U.S. military personnel – including sexual crimes and the recent murder of a young woman  and damage caused to the environment by the presence of U.S. military bases have been occurring for over 70 years. The U.S. has had a presence in Okinawa since the end of WWII and currently 33 U.S. military facilities and about 28,000 U.S. military personnel remain on the island.

Many of us have been to Okinawa, and stand with the peace-loving people there in demanding the complete withdrawal of U.S. military bases from that beautiful island. Further, we urge the Obama administration to hold discussions with Okinawa Prefecture Governor Onaga to address these crimes and to shut down U.S. military bases.

BACKGROUND:

Prime Minister Shinzo Abe, who, with U.S. support, is shredding Article 9, the peace and anti-war provision of the Japanese Constitution, hopes to use Henoko Bay, on the northeastern shore of Okinawa, to build a massive U.S. Marines base and a military port. Henoko, home to vibrant coral reefs, is filled with bio-diversity and is the home habitat for the endangered dugong, a cousin to the manatees. The plan to close Futenma Air Base, which is located in densely populated area, in exchange for the U.S. base in Henoko, has been delayed until the year 2025. According to General Robert B. Neller, commandant of the Marine Corps, the delays were “partly due to demonstrators and a lack of support by the government of Okinawa.”

Between 70-90% of Okinawans oppose the U.S. military bases on the island. For many years, Okinawans have non-violently protested to end the military colonization imposed on them. From entering live-fire military exercise zones to forming human chains around military bases, they have made clear that the continual growth of militarization by both the Japanese and U.S. governments is harmful, unjust, and must be stopped.

Activist Signatories (list in formation):

Christine Ahn, Women Cross DMZ

Jim Albertini, Jim Albertini Malu ‘Aina Center For Non-violent Education &
Action

Michael Beer, Nonviolence International

Medea Benjamin, CODEPINK

Phyllis Bennis, Institute for Policy Studies

Diana Bohn, Nicaragua Center for Community Action

Jacqueline Cabasso, Western States Legal Foundation

Michael Carrigan, Community Alliance of Lane County

Noam Chomsky, American linguist, Peace Activist, Philosopher, Professor

Nicolas J S Davies, Author, Blood On Our Hands: the American Invasion and
Destruction of Iraq

Rev. John Dear, Campaign Nonviolence

Pete Shimazaki Doktor, HOA (Hawai`i Okinawa Alliance)

Dan Ellsberg, Nuclear Age Peace Foundation

Jodie Evans, CODEPINK

Margaret Flowers, Popular Resistance

Carolyn Forché, Poet, author

Bruce K. Gagnon, Global Network Against Weapons & Nuclear Power in Space

Joseph Gerson, Co-Convener of International Peace and Planet Network for a
Nuclear-Free, Peaceful, Just and Sustainable World

Alan Haber, Megiddo Peace Project

Melvin Hardy, Peace Action

Barbara G. Harris, Granny Peace Brigade

Thomas Harrison, Campaign for Peace and Democracy

Mark W. Harrison, United Methodist General Board of Church and Society

Madelyn Hoffman, New Jersey Peace Action

Matthew Hoh, Center for International Policy

Martha Hubert, San Francisco CODEPINK

Eriko Ikehara, Women for Genuine Security

John Junkerman, documentary filmmaker

Kyle Kajihiro, Hawai?i Peace and Justice

Kathy Kelly, Voices for Creative Nonviolence

Peter King, Human Survival Project

Gwyn Kirk, Women for Genuine Security

David Krieger, Nuclear Age Peace Foundation

Joanne Landy, Campaign for Peace and Democracy

Miho Kim Lee, Eclipse Rising

Rev. Dr. Unzu Lee, Women for Genuine Security

Rabbi Michael Lerner, Network of Spiritual Progressives

Julie Levine, Topanga Peace Alliance

Charles Douglas Lummis, Veterans For Peace Ryukyu/Okinawa

Jerry Mander, International Forum on Globalization

Kevin Martin, Peace Action

Alli McCracken, CODEPINK

Michael McPhearson, Veterans For Peace

David McReynolds, former Chair, War Resisters International

Rev. Bob Moore, Coalition for Peace Action & Peace Action Education Fund

LeRoy Moore, Rocky Mountain Peace and Justice Center

Grace Morizawa, National Japanese American Historical Society, San Francisco

Michael Nagler, The Metta Center for Nonviolence

Robert Naiman, Just Foreign Policy

Satoko Norimatsu, Peace Philosophy Center

Koohan Paik, International Forum on Globalization

Charlotte Phillips, Brooklyn For Peace

Terry Kay Rockefeller, September 11th Families for Peaceful Tomorrows

David Rothauser, Women’s International League for Peace and Freedom

Coleen Rowley, FBI agent and former division legal counsel (retired)

Arnie Saiki, IMI PONO

Emily Siegel, Interfaith Peace-Builders

Alice Slater, Nuclear Age Peace Foundation

John Steinbach, Hiroshima/Nagasaki Peace Committee

David Swanson, World Beyond War

Nancy Tate, LEPOCO Peace Center

Aaron Tovish, Mayors for Peace

Ann Wright, US Army Reserve Colnel and former US diplomat

Kevin Zeese, Popular Resistance

Academic Signatories (list in formation):

Prof. Herbert Bix, Professor, Binghamton University

Prof. Philip Brenner, Professor of International Relations and Director,
Graduate Program in US Foreign Policy and National Security, American
University

Prof. Alexis Dudden, Professor, University of Connecticut

Prof. Gordon Fellman, Profesor, Brandeis University

Prof. Norma Field, Professor, University of Chicago

Prof. Irene Gendzier, Prof Emeritus, Boston University

Prof. Laura Hein, Professor, Northwestern University

Prof. Annie Isabel Fukushima, Assistant Professor, University of Utah

Prof. Paul Joseph, Professor, Tufts University

Jeongmin Kim, Ph.D Candidate, New York University

Prof. Peter Kuznick, Professor, American University

Prof. John W Lamperti, Professor, Dartmouth

Prof. Elaine Tyler May, Professor, University of Minnesota

Prof. Steve Rabson, Professor, Brown University

Prof. Wesley Ueunten, Professor, San Francisco State University

Prof. David Vine, Associate Professor of Anthropology, American University
USA

Prof. Marilyn B. Young, Professor, NYU

Prof. Stephen Zunes, Professor, University of San Francisco

Interviews with signatories can be arranged by contacting Alice Kurima
Newberry at alice@codepink.org or (206) 280-3448.

プレスリリース:オバマ大統領への手紙―オリバー・ストーン、ノーム・チョムスキー、ガー・アルペロビッツ、ダニエル・エルズバーグら74人の識者や運動家がオバマ大統領ヒロシマ訪問に際し被爆者と面会し、「プラハの約束」を果たすことを求める Press Release: 74 Prominent Scholars and Activists Call on Obama to Meet with A-bomb Survivors and to Honor the Promise of his 2009 Prague Speech

Posted: 23 May 2016 04:38 PM PDT

2013年8月、オリバー・ストーンとピーター・カズニックは広島と長崎を訪れた後、東京で日本被団協の被爆者7人と会い、当時の体験をじっくり聞いた。広島と長崎それぞれの地でも被爆者と面会した。August 12, 2013, after visiting Hiroshima and Nagasaki, Oliver Stone and Peter Kuznick met with 7 A-bomb survivors in Tokyo. Stone and Kuznick listened to each story by the survivors.

日本語対訳版(英語が正式です。日本語訳に英語版と異なると思われる箇所があったら英語版に準拠してください)

FOR IMMEDIATE RELEASE

MAY 23, 2016

CONTACT 連絡先:

Joseph Gerson, American Friends Service Committee, 617-216-0576, jgerson@afsc.org

Peter Kuznick, American University, 301-320-6961, pkuznick@aol.com

Kevin Martin, Peace Action, 301-537-8244, kmartin@peace-action.org

Over Seventy Prominent Scholars and Activists Call on Obama to Take Concrete Action in Hiroshima

70人を超える著名な学者や運動家がオバマ大統領に広島で具体的な行動を取るよう求める

The President Should Meet with A-Bomb Survivors, Announce Initiatives to Reduce Nuclear Weapons

「オバマ大統領は被爆者に会い、核兵器削減のための取り組みを発表すべきである」

WASHINGTON, DC – Over seventy prominent scholars and activists, including Oliver Stone, Noam Chomsky and Daniel Ellsberg, signed a letter urging President Barack Obama to visit with Hibakusha, atomic bomb survivors, and to announce concrete steps toward nuclear disarmament when he visits Hiroshima this Friday after the Group of Seven economic summit in Japan.ワシントン、DC-オリバー・ストーン、ノーム・チョムスキー、ダニエル・エルズバーグら70人以上の著名な学者や運動家たちが、オバマ大統領がG7サミット後金曜日(5月27日)に広島を訪問する際に、被爆者と面会すること、そして核軍縮のための具体的な手段を発表するよう強く求めるレターに署名した。

American University Professor Peter Kuznick remarked, “This is an extraordinary moment. President Obama can either use it to further the cause of world peace and nuclear disarmament or he can use it as a cover for his militarization of the conflict with China and his trillion dollar nuclear modernization program to make nuclear weapons more usable. Such an opportunity may never come for him again.”アメリカン大学教授のピーター・カズニックは言った。「これはまたとない機会である。オバマ大統領はこの機会を、世界平和と核軍縮の目的をさらに進めるために使うこともできるし、あるいは、中国との紛争に対する軍事化、核兵器をより使用可能にするための1兆ドルもの近代化計画の隠れみのとして利用することも可能だ。このような機会はもう二度と訪れないかもしれない。」

The signers expressed support for the president’s visit to Hiroshima, but advocated further action to fulfill the promise to reduce nuclear weapons outlined in his 2009 Prague speech. Despite the significant achievement of the Iran nuclear deal and successes in securing and reducing nuclear weapons grade material globally, the president’s Prague agenda has been mostly stalled since the 2010 New START agreement with Russia, with no further nuclear weapons reductions. The letter is online at https://peaceblog.wordpress.com/2016/05/22/seventy-prominent-scholars-and-activists-urge-obama-to-meet-hibakusha-take-further-steps-on-nuclear-disarmament/ 署名者たちは大統領の広島行きに支持を表明しているが、2009年の「プラハ演説」でその概要を述べた核兵器削減の約束を果たすためのさらなる行動を訴えた。イラン核合意や、世界的な核兵器級核物質削減といった意義深い成果にもかかわらず、大統領のプラハ計画は2010年ロシアと合意に至った新戦略兵器削減条約(New START)以来それ以上の核兵器削減はなく、行き詰っている。このレターはインターネット上にはここにアップしてある。https://peaceblog.wordpress.com/2016/05/22/seventy-prominent-scholars-and-activists-urge-obama-to-meet-hibakusha-take-further-steps-on-nuclear-disarmament/

Joseph Gerson, of the Quaker peace organization American Friends Service Committee, said, “The U.S. is on track to spend a trillion dollars over thirty years on the next generation of nuclear weapons and delivery systems. President Obama should cancel this spending, revitalize disarmament diplomacy by announcing a reduction of the U.S. nuclear arsenal, and challenge Russian President Putin to join in beginning negotiations to create the nuclear weapons-free world promised in Prague and required by the Nuclear Non-Proliferation Treaty.” クエーカーの平和団体「アメリカンフレンズ奉仕委員会」のジョセフ・ガーソンはこう語る。「米国はむこう30年間に次世代核兵器とその運搬システムに1兆ドルをつぎ込もうとしている。オバマ大統領はこのような出費を中止し、米国の核兵器備蓄量削減を発表することによって軍縮外交を再活性化させ、プラハで約束しそして核不拡散条約が規定している核兵器なき世界をつくるための交渉を始めるよう、ロシアのプーチン大統領に働きかけるべきである。」

Today’s letter follows a similar statement by U.S. religious leaders, released last week, available at https://peaceblog.wordpress.com/2016/05/18/religious-leaders-urge-obama-to-make-good-on-his-prague-commitment/ 今日のこのレターは先週米国の宗教指導者たちによって発表された相似する声明に続くものである(リンクはhttps://peaceblog.wordpress.com/2016/05/18/religious-leaders-urge-obama-to-make-good-on-his-prague-commitment/)。

One of the letter’s organizers, Kevin Martin, President of Peace Action, noted, “President Obama still has time to move boldly on his Prague agenda before he leaves office. He no doubt will be deeply moved by visiting Hiroshima, as Secretary of State John Kerry was, and if the president acts to further reduce the menace of nuclear weapons, he will have strong, grateful support worldwide.”このレターのまとめ役の一人、「ピース・アクション」代表のケビン・マーティンはこのように言う。「オバマ大統領はまだ退任前にプラハ計画を大胆に推し進める時間がある。ジョン・ケリー国務長官がそうであったようにオバマ大統領は広島に行くことで深く心を動かされるであろうことは間違いない。そして大統領が核兵器の脅威を減らすためにさらなる行動を取ったら、世界中から感謝され、強い支持を得るであろう。」

May 23, 2016

President Barack Obama

The White House

Washington, DC

Dear Mr. President 大統領閣下、

We were happy to learn of your plans to be the first sitting president of the United States to visit Hiroshima later this month, after the G-7 economic summit in Japan. Many of us have been to Hiroshima and Nagasaki, and found it a profound, life-changing experience, as did Secretary of State John Kerry on his recent visit. 今月末、日本でのG7サミットの後、米国現職大統領として初めての広島訪問の計画を聞いて私たちは嬉しく思いました。私たちのうち多くは広島と長崎に行ったことがあり、その体験は、最近訪問したジョン・ケリー国務長官が語ったと同様、深遠で人生が変わるようなものでした。

In particular, meeting and hearing the personal stories of A-bomb survivors, Hibakusha, has made a unique impact on our work for global peace and disarmament. Learning of the suffering of the Hibakusha, but also their wisdom, their awe-inspiring sense of humanity, and steadfast advocacy of nuclear abolition so the horror they experienced can never happen again to other human beings, is a precious gift that cannot help but strengthen anyone’s resolve to dispose of the nuclear menace.

とりわけ、被爆者に会い、その体験談を聞くことは私たちの世界的平和・軍縮活動に比類のない影響をもたらしました。被爆者の苦しみを知ること、またそれだけでなく被爆者の知恵と、畏怖を抱かせるその人間性、さらに、自らがくぐってきた悲惨な体験は二度と他の人間が味わうことのないようにと核廃絶に向けてたゆまぬ努力を続けていることを垣間見ることは、誰もがその核廃絶への決意を強固なものにせざるを得なくなるような貴重なものです。

Your 2009 Prague speech calling for a world free of nuclear weapons inspired hope around the world, and the New START pact with Russia, historic nuclear agreement with Iran and securing and reducing stocks of nuclear weapons-grade material globally have been significant achievements.

2009年、大統領が「核兵器なき世界」を訴えた「プラハ演説」は、世界中に希望を抱かせるものでした。そしてロシアとの「新戦略兵器削減条約(New START)」、歴史的なイランとの核合意、世界中の核兵器級核物質備蓄の安全を確保し削減することなど、意義深い成果がありました。

Yet, with more than 15,000 nuclear weapons (93% held by the U.S. and Russia) still threatening all the peoples of the planet, much more needs to be done. We believe you can still offer crucial leadership in your remaining time in office to move more boldly toward a world without nuclear weapons.

しかしいまだに地球上で1万5千以上の核兵器(そのうち93%は米国とロシアが保有)がこの地球の全ての人々を脅かしている中、やらなければいけないことはもっともっとあります。大統領は、任期がまだ残っている間に核心的な指導力を発揮し、「核兵器なき世界」のためにより大胆な行動を取れると私たちは信じています。

In this light, we strongly urge you to honor your promise in Prague to work for a nuclear weapons-free world by

このような視点から、「核兵器なき世界」のためのプラハでの約束を果たしてもらうようよう以下のことを強く求めます。

·       Meeting with all Hibakusha who are able to attend;

出席することのできる被爆者に全て会うこと。

·       Announcing the end of U.S. plans to spend $1 trillion for the new generation of nuclear weapons and their delivery systems;

米国が新世代核兵器とその運搬システムのために1兆ドルを費やそうとしている計画の中止を表明すること。

·       Reinvigorating nuclear disarmament negotiations to go beyond New START by announcing the unilateral reduction of the deployed U.S. arsenal to 1,000 nuclear weapons or fewer;

核軍縮の交渉を再活性化させ新STARTからより踏み込み、配備された米国の核兵器を一千かそれ以下に米国から率先して削減すること

·       Calling on Russia to join with the United States in convening the “good faith negotiations” required by the Nuclear Non-Proliferation Treaty for the complete elimination of the world’s nuclear arsenals;

世界の核兵器の完全な廃絶のため、ロシアに働きかけ、米国とともに核不拡散条約で定められた「誠実な交渉」の場を設けること

·       Reconsidering your refusal to apologize or discuss the history surrounding the A-bombings, which even President Eisenhower, Generals MacArthur, Arnold, and LeMay and Admirals Leahy , King, and Nimitz stated were not necessary to end the war.

原爆投下に対する謝罪や、原爆投下にまつわる歴史を議論することの拒否について再考すること(原爆投下については、アイゼンハワー大統領、マッカーサー、アーノルド、ルメイ各将軍、リーヒ、キング、ニミッツ各元帥らさえもが「戦争を終わらせるために必要ではなかった」と言っている)。

Sincerely,

1.       Gar Alperovitz, Co-Chair of The Next System Project, former Lionel R. Bauman Professor of Political-Economy at the University of Maryland, and author of The Decision to Use the Atomic Bomb and Atomic Diplomacy: Hiroshima and Potsdam.

ガー・アルペロビッツ、「ネクスト・システム・プロジェクト」共同代表、メリーランド大学元教授、『The Decision to Use the Atomic Bomb and Atomic Diplomacy: Hiroshima and Potsdam』(日本語版は『原爆投下の内幕―悲劇のヒロシマナガサキ』)著者

2.       Christian Appy, Professor of History at the University of Massachusetts,
Amherst, author of American Reckoning: The Vietnam War and Our National Identity

クリスチャン・アッピー、マサチューセッツ大学アマースト校歴史学教授、『American Reckoning: The Vietnam War and Our National Identity[アメリカン・レコニング―ベトナム戦争と我々の国家アイデンティティ]』著者

3.       Colin Archer, Secretary-General, International Peace Bureau

コリン・アーチャー、「国際平和ビューロー(IPB)」事務局長

4.       Charles K. Armstrong, Professor of History, Columbia University

チャールズ・K・アームストロング、コロンビア大学歴史学教授

5.       Medea Benjamin, Co-founder, CODE PINK, Women for Peace and Global Exchange

メディア・ベンジャミン、「コード・ピンク、平和のための女性たち」および「グローバル・エクスチェンジ」の共同代表。

6.       Phyllis Bennis, Fellow of the Institute for Policy Studies

フィリス・ベニス、シンクタンク「Institute for Policy Studies(政策学研究所)」研究員

7.       Herbert Bix, Emeritus Professor of History and Sociology, State University of New York at Binghamton

ハーバート・ビックス、ニューヨーク州立大ビンガムトン校歴史学・社会学名誉教授

8.       Norman Birnbaum, University Professor Emeritus, Georgetown University Law Center

ノーマン・バーンボーム、ジョージタウン大学ローセンター名誉教授

9.       Reiner Braun, Co-President, International Peace Bureau

ライナー・ブラウン、国際平和ビューロー(IPB)共同代表

10.    Philip Brenner, Professor of International Relations and Director of the Graduate Program in US Foreign Policy and National Security, American University

フィリップ・ブレナー、アメリカン大学国際関係学教授、同大学米国外交政策と国家安全保障大学院ディレクター

11.    Jacqueline Cabasso, Executive Director, Western States Legal Foundation; National Co-convener, United for Peace and Justice

ジャクリーン・カバッソ、西部諸州法律家財団事務局長、「平和と正義のための連合」共同議長

12.    James Carroll, Author of An American Requiem

ジェームズ・キャロル、『アメリカン・レクイエム』著者

13.    Noam Chomsky, Professor (emeritus), Massachusetts Institute of Technology

ノーム・チョムスキー、マサチューセッツ工科大学名誉教授

14.    David Cortright, Director of Policy Studies, Kroc Institute for International Peace Studies, University of Notre Dame and former Executive Director, SANE

デイビッド・コートライト、ノートルダム大学クロック国際平和学研究所政策学ディレクター

15.    Frank Costigliola, Board of Trustees Distinguished Professor, University of Connecticut

フランク・コスティグリオラ、コネチカット大学教授

16.    Bruce Cumings, Professor of History, University of Chicago

ブルース・カミングズ、シカゴ大学歴史学教授

17.    Alexis Dudden, Professor of History, University of Connecticut

アレクシス・ダデン、コネチカット大学歴史学教授

18.    Daniel Ellsberg, Former State and Defense Department official

ダニエル・エルズバーグ、元国務省・国防総省職員

19.    John Feffer, Director, Foreign Policy In Focus, Institute for Policy Studies

ジョン・フェッファー、シンクタンク「Institute for Policy Studies(政策学研究所)」ディレクター

20.    Gordon Fellman,  Professor of Sociology and Peace Studies, Brandeis University

ゴードン・フェルマン、ブランダイス大学社会学・平和学教授

21.    Bill Fletcher, Jr., Talk Show Host, Writer & Activist

ビル・フレッチャーJr, トークショーホスト、著述家、運動家

22.    Norma Field, professor emerita, University of Chicago

ノーマ・フィールド、シカゴ大学名誉教授

23.    Carolyn Forché, University Professor, Georgetown University

キャロリン・フォーシェ、ジョージタウン大学教授

24.    Max Paul Friedman, Professor of History, American University

マックス・ポール・フリードマン、アメリカン大学歴史学教授

25.    Bruce Gagnon, Coordinator, Global Network Against Weapons and Nuclear Power in Space

ブルース・ギャグノン、「宇宙への兵器と核エネルギーの配備に反対する地球ネット」コーディネーター

26.    Lloyd Gardner, Professor of History Emeritus, Rutgers University, author of Architects of Illusion and The Road to Baghdad

ロイド・ガードナー、ラトガーズ大学歴史学名誉教授、『Architects of Illusion[幻想の設計者]』、『The Long Road to Baghdad[バグダッドへの長い道のり]』著者

27.    Irene Gendzier Prof. Emeritus, Department of of History, Boston University

アイリーン・ゲンズィエー、ボストン大学歴史学名誉教授

28.    Joseph Gerson, Director, American Friends Service Committee Peace & Economic Security Program, author of With Hiroshima Eyes and Empire and the Bomb

ジョセフ・ガーソン、「アメリカン・フレンズ・サービス委員会」平和と経済の安全保障プログラム部長、『With Hiroshima Eyes[広島の目とともに]』、『Empire and the Bomb[帝国と爆弾]』著者

29.    Todd Gitlin, Professor of Sociology, Columbia University

トッド・ギトリン、コロンビア大学社会学教授

30.    Andrew Gordon, Professor of History, Harvard University

アンドリュー・ゴードン、ハーバード大学歴史学教授

 

31.    John Hallam, Human Survival Project, People for Nuclear Disarmament, Australia

ジョン・ハラム、オーストラリア「核軍縮のための人々」、「人間のサバイバル・プロジェクト」

32.    Mary Hanson Harrison, President Women’s International League for Peace and Freedom, US Section

メアリー・ハンソン・ハリソン、「婦人国際平和自由連盟(WILPF)」米国支部長

33.    Melvin Hardy, Heiwa Peace Committee, Washington, DC

メルビン・ハーディー、「ヘイワ」平和委員会(ワシントンDC)

34.    Laura Hein, Professor of History, Northwestern University

ローラ・ハイン、ノースウェスタン大学歴史学教授

35.    Martin Hellman, Member, US National Academies of Sciences, Engineering, and Medicine, Professor Emeritus of Electrical Engineering, Stanford University

マーティン・ヘルマン、全米科学、技術、医学アカデミーズ会員、スタンフォード大学電気工学名誉教授

36.    Kate Hudson, General Secretary, Campaign for Nuclear Disarmament (UK)

ケイト・ハドソン、「核軍縮キャンペーン」(英国)事務局長

37.    Paul Joseph, Professor of Sociology, Tufts University

ポール・ジョセフ、タフツ大学社会学教授

38.    Louis Kampf, Professor of Humanities Emeritus MIT

ルイース・カムプフ、マサチューセッツ工科大学人文学部教授

39.    Michael Kazin, Professor of History, Georgetown University

マイケル・カジン、ジョージタウン大学歴史学教授

40.    Asaf Kfoury, Professor of Mathematics and Computer Science, Boston University

アサフ・クフーリ、ボストン大学数学・コンピューターサイエンス教授

41.    G Peter King, Honorary Associate, Government & International Relations School of Social and Political Sciences, The University of Sydney, NSW

G・ピーター・キング、シドニー大学社会学部行政・国際関係学名誉会員

42.    David Krieger, President Nuclear Age Peace Foundation

デイビッド・クリーガー、核時代平和財団会長

43.    Peter Kuznick, Professor of History and Director of the Nuclear Studies Institute at American University, author of Beyond the Laboratory

ピーター・カズニック、アメリカン大学歴史学教授および核問題研究所所長、『Beyond the Laboratory[実験室を超えて]』著者

44.    John W. Lamperti, Professor of Mathematics Emeritus, Dartmouth College

ジョン・W・ランペルティ、ダートマス大学数学教授

45.    Steven Leeper, Co-founder PEACE Institute, Former Chairman, Hiroshima Peace Culture Foundation

スティーブン・リーパー、「ピース・インスティチュート」共同代表、広島平和文化財団前理事長

46.    Robert Jay Lifton, MD, Lecturer in Psychiatry, Columbia University, Distinguished Professor Emeritus, The City University of New York

ロバート・ジェイ・リフトン、医学博士、コロンビア大学精神医学講師、ニューヨーク市立大学名誉教授

47.    Elaine Tyler May, Regents Professor, Departments of American Studies and History
University of Minnesota, Author of Homeward Bound: American Families in the Cold War Era

エレイン・タイラー・メイ、ミネソタ大学アメリカ学部およびアメリカ史学部教授、『Homeward Bound: American Families in the Cold War Era[家路に向けて:冷戦時代のアメリカの家族]』著者

48.    Kevin Martin, President, Peace Action and Peace Action Education Fund

ケビン・マーティン、「ピース・アクション」、「ピース・アクション教育財団」代表

49.    Ray McGovern, Veterans For Peace, Former Head of CIA Soviet Desk and Presidential Daily Briefer

レイ・マクガバン、平和のための退役軍人会、元CIEソビエト・デスク長、大統領への報告者

50.    David McReynolds, Former Chair, War Resister International

デイビッド・マクレイノルズ、「ウォー・レジスター・インターナショナル」元代表

51.    Zia Mian, Professor, Program on Science and Global Security, Princeton University

ズィア・ミアン、プリンストン大学科学・グローバル安全保障プログラム教授

52.    Tetsuo Najita, Professor of Japanese History, Emeritus, University of Chicago, former  president of Association of Asian Studies

テツオ・ナジタ、シカゴ大学日本史名誉教授、アジア研究協会元会長

53.    Sophie Quinn-Judge, Retired Professor, Center for Vietnamese Philosophy, Culture and Society, Temple University

ソフィー・クウィン=ジャッジ、テンプル大学ベトナム哲学・文化・社会研究所退職教授

54.    Steve Rabson, Professor Emeritus of East Asian Studies, Brown University, Veteran, United States Army

スティーブ・ラブソン、ブラウン大学東アジア学科名誉教授、陸軍退役軍人

55.    Betty Reardon, Founding Director Emeritus of the International Institute on Peace Education, Teachers College, Columbia University

ベティ・レアドン、国際平和教育研究所名誉創始者、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ

56.    Terry Rockefeller, Founding Member, September 11 Families for Peaceful Tomorrows, United for Peace & Justice

テリー・ロックフェラー、「平和な明日をめざす911家族の会」創始メンバー、「平和と正義のための連合」

57.    David Rothauser Filmmaker, Memory Productions, producer of “Hibakusha, Our Life to Live” and “Article 9 Comes to America

デイビッド・ロスハウザー、映画監督(『ヒバクシャ わが人生』、『9条アメリカに来る』)

58.    James C. Scott, Professor of Political Science and Anthropology, Yale University, ex-President of the Association of Asian Studies

ジェームズ・C・スコット、イェール大学政治学・人類学教授、アジア研究協会元会長

59.    Peter Dale Scott, Professor of English Emeritus, University of California, Berkleley and author of American War Machine

ピーター・デイル・スコット、カリフォルニア大学バークレー校英文学名誉教授、

60.    Mark Selden, Senior Research Associate Cornell University and editor, Asia-Pacific Journal

マーク・セルダン、コーネル大学上級研究員、『アジア太平洋ジャーナル』エディター

61.    Martin Sherwin, Professor of History, George Mason University, Pulitzer Prize for American Prometheus

マーティー・シャーウィン、ジョージ・メイソン大学歴史学教授、『American Prometheus』(日本語版は『オッペンハイマー』)でピューリッツァー賞受賞

62.    John Steinbach, Hiroshima Nagasaki Committee

ジョン・スタインバック、ヒロシマ・ナガサキ委員会

63.    Oliver Stone, Academy Award-winning writer and director

オリバー・ストーン、アカデミー賞受賞映画監督、著述家

64.    David Swanson, director of World Beyond War

デイビッド・スワンソン、「ワールド・ビヨンド・ウォー」ディレクター

65.    Max Tegmark, Professor of Physics, Massachusetts Institute of Technology;  Founder, Future of Life Institute

マックス・テグマーク、マサチューセッツ工科大学物理学教授、「フューチャー・オブ・ライフ・インスティテュート」創始者

66.    Ellen Thomas, Proposition One Campaign Executive Director, Co-Chair, Women’s International League for Peace and Freedom (US) Disarm/End Wars Issue Committee

エレン・トーマス、「プロポジション・ワン・キャンペーン」事務局長、「婦人国際平和自由連盟(WILPF)」米国支部「軍縮・戦争を終わらせる委員会」共同代表

67.    Michael True, Emeritus Professor, Assumption College, is co-founder of the Center for Nonviolent Solutions

マイケル・トルゥー、アサンプション大学名誉教授、「非暴力解決センター」共同創始者

68.    David Vine, Professor, Department of Sociology, American University

デイビッド・バイン、アメリカン大学社会学部教授

69.    Alyn Ware, Global Coordinator, Parliamentarians for Nuclear Non-proliferation and Disarmament, 2009 Laureate, Right Livelihood Award

アリン・ウェア、核軍縮・不拡散議員連盟グローバル・コーディネーター、「ライト・ライブリフッド賞」2009年度受賞者

70.    Jon Weiner, Professor Emeritus of History, University of California Irvine

ジョン・ワイナー、カリフォルニア大学アーバイン校歴史学名誉教授

71.    Lawrence Wittner, Professor of History emeritus, SUNY/Albany

ローレンス・ウィットナー、ニューヨーク州立大学アルバニー校歴史学名誉教授

72.    Col. Ann Wright, US Army Reserved (Ret.) & former US diplomat

アン・ライト(Col)、元米国陸軍大佐、元外交官

73.    Marilyn Young, Professor of History, New York University

マリリン・ヤング、ニューヨーク大学歴史学教授

74.    Stephen Zunes, Professor, University of San Francisco

スティーブン・ズーンズ、サンフランシスコ大学教授

(In the alphabetical order of family namesファミリーネームのアルファベット順)

オバマと安倍は広島で国家の「過ち」を認めよ In Hiroshima, Obama and Abe Should Acknowledge Their Country’s Wrongdoing

Posted: 21 May 2016 12:42 AM PDT

See HERE for an English version.
この記事の英語版が『Common Dreams』に掲載されました。

 In Hiroshima, Obama and Abe Should Acknowledge Their Country’s Wrongdoing 

Obama’s “Prague Speech” April 5, 2009.
「プラハ演説」2009年4月5日

5月27日、オバマ大統領(以下、オバマ)が現職米国大統領として初めて、1945年8月6日米国が原子爆弾で攻撃した地、広島を訪れる。

「謝罪」をする予定はない。原爆投下の是非の議論に立ち返るつもりもない。「プラハ演説」に続くような「ヒロシマ演説」をする予定もない。被爆者に会う予定も今のところ決まっていない。

「ないないづくし」の広島来訪である。これを被爆者は侮辱と思わないだろうか。

「核兵器なき世界を」と言っただけでノーベル平和賞をもらいながら巨額の予算をかけて核兵器の現代化を進めている。

しかも、安倍首相(以下、安倍)が同行するという。核兵器は違憲ではないなどと主張し、戦争準備を着々と進める人間を同行させ、選挙に向けて日本の極右政権に花を持たせるようなタイミングで広島に来る。

安倍はオバマ訪問に便乗し自分の手柄にしたいようだが、これを機に自分自身がまだ行っていない場所に思いを馳せるべきではないだろうか。

安倍は習近平主席と南京に行き、南京大虐殺の被害者を共に追悼できるのか。韓国に行って、朴槿恵大統領とともに慰安婦「少女像」に敬意を払うことができるのか。それぞれの地で生存している被害者に対して頭を下げることができるのか。

昨年末の「慰安婦」問題「日韓合意」の際、自分はゴルフを楽しみながら外相を派遣し、被害者に会うこともなく「二度と蒸し返すな」という脅しで「最終解決」をはかった安倍。

争う心と決別する歴史的な訪問としなければならない」なんてよくも言えたものだ。自分は中国や韓国、北朝鮮にあれだけ牙を向けておいて。

オバマも安倍の「謝罪」スタイルをロールモデルとすることだけは避けるべきだが、米国の原爆投下の過ちも認めない、被爆者にも会わない、というようなことであれば限りなく「安倍方式」に近づいていく。被害者の傷に塩を塗る行為となっていく。

オバマが核兵器の被害を真剣に学ぶのだったら行く意味はあるかもしれない。しかしそのためには、資料館に行くだけではなく被爆者と会わなければいけない。

被爆者という生身の人間がまだたくさん生きているのだから、「ヒロシマ」という地に行くだけで被爆者の前を素通りすることは許されない。

それも、米国人にとって聞き心地のいいことを言う被爆者だけではなく、オバマに会いたいと思う被爆者は全て会えるようにしてほしい。

また、広島にだけ行くということで、長崎をなかったことにさせてはいけない。広島において、広島と長崎両方に行っている意識で行動し、発言しなければいけない。長崎を二次的な扱いには絶対にせず、広島の被爆者と同じ比重で長崎の被爆者にも会うべきだ。

そして何より、全被爆者の1割をしめるといわれる朝鮮半島出身被爆者を忘れてはいけない。

日本政府も「唯一の被爆国」という表現をいい加減にやめるべきだ。これは日本を原爆の被害国として位置づける表現だ。そもそも日本は原爆の被害「国」なのか。

原爆の被害者は広島や長崎にいた市民たちである。この市民たちは他の日本の戦争の被害者と同様、日本国家が起こした戦争の中で被害を被ったのだ。

なにより、7万にも及ぶといわれる朝鮮人被爆者はまさしく日本の朝鮮植民支配が生んだものだ。

日本はこういった意味において原爆においても加害国といえる(日本の戦争全体が侵略・加害戦争であったことは言うまでもない)。

それでも安倍は「唯一の被爆国」の首脳づらをして広島に同行しようとしている。行くなら、安倍はオバマとともに「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の前で頭を下げるべきである。

同時に二人は、韓国の被爆者よりもさらに無視されてきた朝鮮民主主義人民共和国の被爆者の存在も明確に認めることだ。

そうすれば、オバマ広島訪問が日本を戦争の被害国に逆転させるのではないかという周辺国の懸念に対する一つの返答となるだろう。

そしてオバマが、米国による原爆投下が間違っていたということを明確に認めるのは当然だ。

安倍も、天皇制の保持のために降伏のタイミングを遅らせ被害を広げたことを含む、皇国日本の侵略戦争全体の過ちを認める機会にしたらいい。

もちろん、原爆投下の過ちを認めることは、オバマが広島や長崎に行っても行かなくても、おこなうべきことだ。行くから認めるのではない。行っておいて過ちを明確化しないことは許されないから、言わなければいけないのだ。

「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから。」広島の「原爆死没者慰霊碑」の碑文は「過ち」の主体が誰なのかということで議論を呼んできた言葉だ。

オバマと安倍は自らの政府を代表してこの言葉を唱えることだ。「米国の」「日本国の」という主体を明らかにしながら。

ちなみにこれの英語版は LET ALL SOULS HERE REST IN PEACE. FOR WE SHALL NOT REPEAT THE EVIL とある。「過ち」をEVIL(「悪」)と訳しているのは非常に踏み込んだ意訳だ。

ということは、過去に広島を訪れた米国政府の要人、ペロシ下院議長、ルース大使やケネディ大使、先日のケリー国務長官は、原爆投下を「悪」と定義する碑に献花したということになる。

これはもっと注目されていいことなのではないか。

広島 「原爆死没者慰霊碑」
碑文
碑文の英語訳

★★★

友人のTさんの知り合いのジャーナリストが広島で取材した後こう言っていたという。「なんというか、軽いんだよね。お祭りさわぎなんだよ、広島全体が。」

広島・長崎の記憶を研究するTさんは言う。「オバマも来る、オリバー・ストーンも来る、やっぱり広島は『世界のヒロシマ』なんだ、平和のシンボルなんだで終わることのないように」と。同感だ。

「歓迎」ムードの中で、このような声や動きもある。

――「何年たっても腹が立っている。謝罪してほしい」(13歳のとき広島で被爆した雛世志子さん、那覇市)(5月12日琉球新報)

――「核廃絶に向けて米国の姿勢がはっきりしない。広島での大統領のあいさつは中途半端なものになるだろう」(18歳のとき広島で被爆した与那覇浩沖縄県原爆被害者協会副理事長)(同上)

――「・・・加害国の大統領として真摯に謝罪すべきだ。謝罪のない哀悼の意は口先だけのものになる。」(沖縄県原水爆禁止協会の矢ケ崎克馬代表理事)(同上)

――「手放しの歓迎は核兵器の非人道性を踏まえて禁止を訴える市や被爆者団体の立場とは矛盾する。行動を迫る働きかけがもっと必要ではないか。」(「核兵器廃絶を目指すヒロシマのの会」森瀧春子共同代表)同会は原爆投下が間違っていたことを認め、核兵器の法的禁止の議論に加わるよう米国に要請するという。(5月13日中国新聞)

――韓国の被爆者でつくる「韓国原爆被害者協議会」はオバマ氏来訪に合わせ代表を広島に派遣。平和記念公園でオバマ氏に謝罪を求める横断幕を掲げる予定だ。(同上)

――田中利幸氏ら市民グループは「オバマ大統領への謝罪要求のアピール文」をまとめ賛同者を募っている。

★★★

私は、アメリカン大学と立命館大学の広島長崎の旅で、被爆者の通訳を10年間務めてきた。今回、オバマの来訪に合わせ広島に行くことになった。上記で触れた友人Tさんに、「オバマ氏の訪問で不可視化されたものを可視化してくれるような、そんな発言や映像を期待しています」と言われた。自分の果たせる役割を果たしたいと思う。

@PeacePhilosophy  乗松聡子

★この文はリンク、一部引用は歓迎ですが、全文転載希望の場合は許可を取ってください(info@peacephilosophy.comにメールを)。また、発表した後に加筆修正する可能性があります。

★★★

追記。17日共同ワシントンの報道によると、米政府当局者が、オバマ大統領は被爆者には「時間の制約」上会うのは難しいが、広島で「米兵や自衛官らと面会する」方向で調整しているという(毎日新聞のリンク)。これは衝撃的なニュースだ。これが本当だったら、オバマは被爆者よりも軍関係者を優先するということになる。被爆者にとって、またオバマ来広にあたっての「平和的」意図を少しでも信じていた者たちにとってここまでの屈辱はないであろう。

田中裕介:歴史に何を学ぶか ­– 80年後に甦った「石の声」 Yusuke Tanaka Introduces New Publication: Torn Memories of Nanking

Posted: 15 May 2016 06:59 PM PDT

日系カナダ人のコミュニティ、歴史、文化を伝える雑誌、『The Bulletin(げっぽう)』5月号に載った田中裕介氏の記事を許可の上転載します。

歴史に何を学ぶか ­– 80年後に甦った「石の声」

田中裕介(トロント在住)

年末の帰省便の機内で「日本の一番長い日」(原田眞人監督・2015)を見た。敗戦後の日本の方向性を決めた御前会議での政府首脳陣の苦悩は、緊迫感に溢れていて、復路でも再度鑑賞した。日本が無条件降伏するかどうかを迫られた時、青年将校が叫ぶ。「続行あるのみ!わが軍は局地戦では負けていても、戦争には勝っている!」。まるでプロ野球の放送席インタビューの台詞だなと思った。負けたチームの監督が「試合には負けましたが、プレーでは勝っていました。次に繋がるよい試合が出来たと思います」と言う負け惜しみだ。この論法で突き進むならば、全滅する最後の一人まで「負けていない」ことになる。これは、降伏はしたが正義の戦争だったと正当化する大東亜戦争史観である。

全ての戦争は政治の破綻である。先ず国民の生命の安全を託された政治家が戦場に赴くべきだと思う。殺し合いで平和が達成できるのなら政治家はいらない。

著者の松岡環さん(4月13日、
トロント大での出版記念会で田中撮影)

一方に、「南京大虐殺はあったのか、なかったのか」という日本人が飽きずに繰り返す議論がある。これは世界中の歴史学者を敵に回して、「なかったのだ」と主張する、いわば現代版「大本営発表」の妄信でしかない。当然にも「100人以上の犠牲を出した惨禍の都市や村は、中国全土で390カ所を数えました」という作家・松岡環さんの言説をも否定することになるだろう。初の英語による、南京戦での加害者と被害者の両方の証言集が4月に北米で出版された。

●リドレス以後の日系内部の変節

1937年12月初頭から6週間ほどで30万人の中国人を日本兵が殺害したとされる事件が、来年2017年で80周年を迎える。僕は1989年に日系ボイスの日本語編集者になってから、「人権問題の番犬たれ」というNAJC(全カナダ日系人協会)の使命を担って、この問題を取材してきた。リドレス運動では、中国系、韓国系、先住民など20以上の民族系団体が支援してくれた。だから、今度は恩返しをする番だとするNAJCの姿勢は明快だった。だが、じきに決着する問題だと楽観していたが、25年経ても解決の目処はつかない。

慰安婦問題も南京虐殺事件も、日本は世界を敵に回してしまい、本丸しか残っていない。政府が動かなければ埒があかないのは確かだ。2009年、NAJCトロント支部長が僕のデスクに来て、「これは日本と中国、韓国の問題であり、カナダが取り組むべき問題ではない。どこかで線引きすべきなのだ。でなければ、そのうちあんたとショーダウン(決闘か?)することになるだろう」と言われた。紙面で取り上げるなという圧力のつもりだったのだろう。

だが、公の場でそんなことを発したら、カナダ市民から袋叩きにあうだろう。経済専門家マイケル・ジュノー・カツヤはその共著「Nest of Spies」(2009)で、カナダのアルファという人権団体は「中国政府のスパイである」と書いた。直ぐに告訴されて該当箇所が削除され、謝罪と賠償が課された。日本の戦争責任問題は、アジア系カナダ市民が今も抱える人権問題なのだ。僕自身が身をもってそれを実感した。

1992年、戦後初の天皇による中国公式訪問に際して、トロントでは、南京事件の真相究明、謝罪、教科書への記述など5つの要求を提出して一万名の署名が集められ、250名が日本総領事館まで行進をして届けた。記者会見では、実際に日本軍に暴行をされた数人が現れて証言した。幼い頃、目の前で母親が強姦されるのを目撃した女性は絶句したまま、通訳と一緒に泣き続けた。ところが、その後、仕事場のある中華街を歩いていたら、買い物袋を抱えて急ぎ足で歩くこの女性とすれ違ったのである。その一瞬、自分が暮らすこの街が戦時中の中国の重慶や南京と時空を超えて繋がっているのだと悟った。

そして、24年。史実の真偽を議論せずに、どう認識するかという議論にすり替えているのは、世界広しと言えども日本人くらいだろうと思う。「いくらなんでも3週間でそんなに殺せるはずはない。せいぜい5万人くらいだろう」と問題の焦点をはぐらかす作家がいる。「残念ながらそれを証明する書類はみつからなかった」と意図的に焼却された事実を顧みず、一次資料の欠如を吹聴する歴史家がいる。証拠として「ジョン・ラーベの日記」が出版されると、「ナチ党員のラーベが書いたものは信憑性に欠ける」と言い捨てて旭日旗を仰ぐ青年を知っている。

トロントにワーホリで来た旭日旗青年と一年間付き合った。彼は第二次大戦中のいわゆる戦記物を愛読しており、とてつもなく戦史に詳しい。聞けば、父親は自衛隊員だという。「南京戦は迫撃砲戦だけで、掃討作戦でいくらかの死者はあったようですが、大量虐殺などなかったというのが歴史家の常識です。第一、日本人はそんな残虐なことをするようには教育されていない。そう思いませんか」と逆に、僕の《日本人性》が問われた。この根拠皆無の選民意識こそが二千万とも言われる殺戮を許したのである。何も変わっていない。

●新刊書「引き裂かれた記憶・南京戦」

1980年代、小学校教員だった松岡環さんは、在日コリアンの教え子から「生徒には勉強しろと言うてるけど、先生は何を勉強しとん?」と、日本のアジア侵略の歴史の無知さを指摘された。そこで、1988年に南京への学習ツアーに加わったのが転機になったという。1997年から南京戦に従軍した三重県の元兵士たちを訪ね歩き聞き取り調査を重ねて、「南京戦­­−元兵士102名の証言」(2002年)にまとめた。何度も訪ねてゆくうちに、齢80を超えた元兵士たちは次第に話し始め、その数250名にのぼった。

一方で、休暇を利用して頻繁に南京に通い、市内で老人たちを見かけると、「1937年当時、あなたは南京にいましたか」と捜し回り話を聞いた。「犠牲となった人たちも驚くほど協力的でした。わざわざ日本人が聞きに来てくれたと喜んでくれたのと、私が何も知らない女性だったこともよかったのかも知れません」という。中国側の聞き取りは300名に及んだという。

だが、強姦されたことを認めた女性は、南京市内ではわずか「7名」。「家族が犠牲になったと語る人はいても、本人は決して語りませんね。夫や家族にもひた隠しにしているのです」。

トロントの移住者女性から「もし慰安婦が20万人もいたのなら、何故もっと早くから名乗り出てこなかったのですか」と問われたことが2度ある。言外に韓国政府が仕組んだやらせだと言いたいらしい。僕は「日本でも新聞を通じて女性たちが募集され戦地に送られました。戦後、名乗り出た女性はいますか」と逆に質問した。答えは「たった一人城田すず子さんを除いて皆無」なのである。これが何を意味するかを、どうか考えてほしい。「石の声」を探してほしい。

松岡さんによると、南京戦に加わった元日本兵たちは、「上海陥落から南京に至るまでは能弁に語るのですが、南京ではどうしましたかと聞くと、『(軍人会の)軍恩新聞に話したらダメやと書いとるやないか』と口を閉ざすのです」。掟破りの罰則は村八分だ。その恐怖と恥と世間体が真実を隠蔽しているのだ。

もう一つ残念なことは、保守派が訴える「国益を守れ」と、真相究明を訴える活動家たちに投げつけられる「売国奴」という誹謗だ。こんな頑迷固陋な人たちのために、如何に莫大な「国益」を日本が国外で失ってきたことか。多民族社会の北米で感じる近年の日本の地位低迷、影の薄さをみれば明らかだ。真の「国益」とは、平和の維持である。海外から日本を見た時、軍国主義の象徴である旭日旗を振り回し、非戦日本の誇りを踏みにじるこういった「売国奴」こそ排除されなければならない。

インタビューの最後に、海外からも支援しますと言うと、松岡さんは「外圧はダメです」と意外な反応が返ってきた。「外圧で政治が変わっても、社会は変わりません。内側から変化していかなければなりません」という。確かにそうだ。憎悪で充満したヘイトグループに外圧を加えてもいたずらに弾け飛ぶだけだ。彼らの憎悪をしぼませることができるのは、外圧ではない。内側から風穴を開ける日本人内部からの知性と理性だけだろう。

JCCAブルテン2016年5月号掲載記事を許可を得て転載しました。

*“TORN MEMORIES OF NANKING”「引き裂かれた記憶・南京戦」は、既に出版されている「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて−­元兵士102人の証言」(2002年)と「南京戦・切り裂かれた受難者の魂­−被害者­­−120人の証言」(2003年)から抜粋し再編集した初の英訳証言集。英語版は Toronto ALPHA 発行。問い合わせはinfo@alphaeducation.orgへ。

田中裕介(たなか・ゆうすけ)
元日系ボイス・マネージングエディター 。
現在は日系メディア等に寄稿している。トロント憲法九条の会、広島長崎記念日連合委員、トロント・コリアン映画祭理事。1994年以来トロントで「語りの会」を主宰し、海外にも出張し英語で日本の昔話、アイヌ民話や創作話などをギターの弾き語りをまじえて演じている。1951年札幌市出身。早大卒。

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「憲法9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」運動についての意見 an opinion on the movement “Nobel Peace Prize for Japanese citizens who have maintained Article 9”

Posted: 14 May 2016 01:49 PM PDT

日本国際法律家協会(JALISA)の機関紙 『Interjurist』 188号(2016年5月1日発行)に掲載されたブログ運営人の記事を転載します。

この記事でも触れている「沖縄」。1952年、サンフランシスコ平和条約により日本から切り離され米軍政下にさらに20年も置かれ、人権を奪われ続けた沖縄が、日本国憲法適用をもとめて選んだ1972年の「復帰」。しかし日本は沖縄から基地を動かすことをせず、沖縄を再び裏切った。結果的に沖縄は「憲法」からも裏切られ、その状態は現在にまで続いている。その「復帰」から今日は44周年である。この記事は物議を醸したが、憲法が大事であるからこそ、日本が憲法から排除し置き去りにした人たちのことをまず考えなければいけないという思いで書いた。
新連載 私は憲法9条をこう考える

「ノーベル平和賞」運動について

バンクーバー9条の会世話人

乗松聡子

JALISAとのつながりは10年前、私の住むカナダ・バンクーバーで2006年6月に開催された「世界平和フォーラム」でそのメンバーの方々に出会ったことがきっかけでした。その後私が日本に一時帰国したときに、笹本潤さんの誘いでJALISAのオフィスを訪ね、入会しました。海外にいて何もお役に立てない存在ですが、今回の寄稿は私のささやかな貢献と思ってください。

今回、私が海外を拠点に活動しながら抱いてきている問題意識をひとつ皆さんと共有したいと思います。

それは「憲法9条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」運動についてです。これには何度も賛同や協力のお誘いを受けましたが、私自身は最初に聞いたときから違和感を持ってきました。私は「バンクーバー9条の会」の創設メンバーとして、9条を守り生かしていこうという活動をしてきており、9条に対する基本的姿勢はこの運動を推進してきている人たちと同じであると思います。しかしこの運動にはどうしても賛同できないのです。

私が抵抗を感じるのは、「日本国民にノーベル賞を」と言っているところです。この背景には、9条自体をノーベル賞の対象とはできなかったという事情があることは承知しています。しかし日本人が「日本国民」をノーベル平和賞の対象にするというのは、自分で自分をノミネートしていることになります。そもそも賞とは、人から評価してもらうものであり、自分から求めるものでしょうか。「それのどこが悪い、9条は素晴らしいのだから」と反論する人がいるかもしれませんが、この自画自賛性を私が指摘することにはもっと根が深い問題があります。

それは、海外から観察していて、この運動に限らず日本人の「平和運動」は概して自画自賛的、自己中心的なものが多いということです。自分自身もそうでした。日本の被害を強調する「ヒロシマ・ナガサキ」や都市空襲、物資不足や占領地からの引き揚げの苦労といったことを語ることが「平和教育」だと思っている姿勢は、一歩日本の外に出たら通用しないときがあります。

憲法9条はそもそも、千言万語をもっても語り尽せない被害をアジア太平洋全域にもたらした日本帝国の軍国主義・植民地主義を牢獄に入れたというような性質を持ちます。しかしこの憲法の懲罰性というものを、日本の9条支持者たちもあまり自覚していないように見えます。逆に、「唯一の被爆国」、「焼け跡から生まれた憲法」といった概念とともに、艱難辛苦から立ち上がり「平和憲法」を守る立派な日本人といったイメージが作られています。「9条にノーベル賞を」という運動にも、日本人が日本の憲法を称賛する、というナショナリズムを感じざるを得ません。実際は日本が何も威張れた存在ではなかったから9条があるのです。最近メディアなどにとみに日本賛美の言説が目立ちますが、それと軌を一にするような動きにさえ見えるのです。

また「日本国民」という表現についてですが、日本国憲法は制定の過程で、占領軍の英語草案で People とあったものを日本側が敢えて「国民」と訳すことによって「国民」ではない人たち、すなわち日本国籍のない人たちが法の下に平等に扱われることを阻止した歴史があります。天皇は憲法施行の前日に最後の勅令「外国人登録令」を出し、在日朝鮮人と台湾人を憲法から切り捨てました。これをどれほどの日本人が知っているでしょうか。私は在日コリアンの友人から聞くまで知らず、心から恥じ入りました。天皇は自分の権限が正式にはく奪される前日にこのようなことを行っていたのです。

日本国憲法は法的には「日本国民」以外の人たちを排外はしていないようですが、在日コリアンや、基地被害を押し付けられ9条の枠外に押しやられている沖縄の人々など、事実上憲法が適用されない状況が続いている人々のことを想えば、容易に「日本国民」とは言えないのではないかという思いがあります。「日本国民」には自分たちは含まれていないと感じる人も多いでしょう。しかしこの人たちは、「日本国民」と憲法上同じ権利を保障されることを渇望してきました。そういう意味で、憲法を保持することに多いに貢献してきたのではないでしょうか。それなら、その人たちがあまり疎外感を感じないように、たとえば、「憲法9条を保持している人々」という方がよりよいのではないかと思います。

このような感覚は日本にいた時代の私にはありませんでした。カナダで自分は、国籍がないにもかかわらず、市民としてカナダの憲法下でカナダにいるすべての人間と同等の人権を保障されている安心感があります。それを意識して、初めて、日本で日々そのような安心感を持てずに暮らしている人たちの存在に気づいたのです。日本で日本人やっている限りは気づかなかったかもしれません。

私が平和運動に入ったきっかけは原爆の被爆者の方々との出会いであり、米日や他のアジア諸国の学生たちを毎年広島・長崎に連れていく平和の旅に参加し、被爆者の皆さんの声を世界に届ける活動をしてきました。日本軍がどれだけ極悪非道なことをしたとしても原爆で一般市民が大量殺りくされたことは許されざることです。海外で活動していると、アジア隣国の人々や元連合軍捕虜や遺族たちの中に根強い、「原爆のおかげで助かった」という歴史観に一対多数で立ち向かわざるを得ない場面もあります。私がこの原稿で書いていることはこのような立場から来ているものであり、決して日本の戦争被害者の被害を軽視しているものではありません。

このノーベル賞運動には、9条の国際的認知度を高め、安倍政権の好戦的政策や改憲を阻止する一助にしたいという狙いがあるのだと思いますし、その善意は疑いません。これを機会に、日本人の平和運動のあり方、そして日本国憲法が守ることができてこなかった人たちのことを一緒に考えませんか。

最後に、私の初稿にたくさんの貴重なご意見をくださったJALISAの理事の方々に感謝します。

乗松聡子(のりまつ・さとこ)

『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』(apjjf.org)エディター、平和教育団体「ピース・フィロソフィー・センター」(peacephilosophy.com)代表、「バンクーバー9条の会」(vsa9.org)世話人。編著に『正義への責任―世界から沖縄へ』(琉球新報社、2015年)、共著に『沖縄の〈怒〉-日米への抵抗』(法律文化社、2013年)など。連絡先メール:info@peacephilosophy.com

「慰安婦」問題「日韓合意」を批判する―カナダの視点 A Canadian perspective on the Japan-Korea Agreement on the “Comfort Women” Issue

Posted: 14 May 2016 06:50 PM PDT

4月に緊急出版された前田朗編著『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える』(彩流社)に、当ブログ運営者の短文も寄稿しました。出版社の許可を得てここに転載します。

引用する場合の出典は以下です。

前田朗編著『「慰安婦」問題・日韓「合意」を考える』彩流社、2016年、92-93頁

★また、この本の出版記念討論会が5月28日にあります。案内はこちらを。


歴史の不正義にどう向き合うか―カナダの視点

乗松聡子

「カナダはサンフランシスコ平和条約の署名国の一つである。しかしこの条約の締結時点で日本軍による性奴隷の問題は表面化していなかった。だからこの問題を認識せずに署名した国として責任がある。カナダに関係がないとは言えない。」-2015年夏、元バンクーバー市議のエレン・ウッズワース氏はこう言った。この年、カナダ西海岸のバンクーバーの隣町、バーナビー市が市内の公園に、「慰安婦」にされた女性を象徴する「平和の碑」を、韓国の姉妹都市の寄贈により建立するという計画が、日本出身の住民を中心としたグループに激しい反対を受けたが、その反対の声の中に「カナダには関係ない」という見方があったことに対してであった。

カナダ下院議会は、第一次安倍政権が河野談話の撤回をもくろみ、「慰安婦」の歴史自体を否定しようとしていることを受けて、2007年11月28日、「カナダ政府は日本政府に対し、1993年の河野談話における反省の表明をおとしめるようないかなる発言も放棄し、日本帝国軍のための『慰安婦』の性奴隷化と人身取引が起こらなかったかのようないかなる主張に対しても明確に公的に反論し、この強制売春の制度への日本帝国軍の関与に対し、すべての被害者に対し正式で誠実な謝罪を国会で表明することを含む全責任を取り、和解の精神にもとづき被害を受けた人たちと向き合い続けることを促す」という決議を可決した。

この連邦議会での決議からしても「慰安婦」問題がカナダと「関係ない」とは言えないのである。バンクーバーには、広島の被爆者ラスキー・絹子氏(故人)の胸像も公園に立っており、「ホロコースト教育センター」もある。カナダで起こらなかったことでも多文化社会のこの国が記憶し継承していかなければいけない歴史という意味では、性奴隷被害を象徴する少女像があっても何の矛盾もない。また、カナダでは多数の先住民の女性が性暴力などの犯罪の被害者になっているが、未解決のままの殺人や行方不明事件の真相究明の本格的作業がトルドー新政権によって始まったばかりだ。植民地主義の中での女性の人権侵害はカナダでは現在進行形の問題であるということからも、日本軍性奴隷の歴史をカナダ人が学ぶことには意義がある。

また、日韓間の「慰安婦」問題の「最終的で不可逆的な解決」とされた2015年12月28日の「日韓合意」を、カナダの過去の「謝罪」と対比させれば気づくことも多いのではないだろうか。1988年9月22日、当時のブライアン・マルルーニー首相は戦時日系カナダ人強制収容に対し、被害者の代表者たちが見守る中、「私は下院のあらゆる党派の議員を代表して、日系カナダ人、その家族、その文化的遺産に対して行われた過去の不正義に対し正式で誠実な謝罪をし、あらゆる背景を持つカナダ人に対して、このような人権侵害がこの国において二度と容認されたり繰り返されたりしないように厳粛なコミットメントと実行を約束します」と伝えた。カナダ国民の代表者である連邦議会の総意のもとに首相が自ら被害者の前で国家責任を認め、謝罪し、国家補償を約束し、記憶の継承と次世代への教育を約束した。これらは「慰安婦」の被害者が日本政府に求めてきたことと重なっており、これに照らし合わせると、首相が直接被害者に表明しないどころか、議会を通してもおらず公式文書も存在しない「謝罪」、国家責任への言及の曖昧さ、国家補償を回避し、記憶と教育の事業を行うどころか「もう二度と蒸し返すな」といった約束を迫り、挙句の果てには10億円の「基金」も「日本大使館前の少女像を撤去しないと出さない」といった脅しを行い、「性奴隷」という事実の否定を続けるなど、日本政府の「謝罪」の欺瞞が次々とあぶりだされる。

バンクーバー近郊における「像」設置計画への反対運動は、主に日本出身の移住者を中心に日本語で展開され、カナダ西海岸の日系人の多数派を占める、英語で生活する日系カナダ人たちにしっかり知らせることもなく進められた。背後には日本の右派運動体や日本総領事館の影響もあった。この反対運動について知った日系カナダ人のKさんは、「日系カナダ人が経てきた歴史をかんがみればこの像を支持こそすれ反対する理由は考えられない」と言っていた。これはこの計画の意味が、「反日」などではなく、戦時の人権侵害を記憶し、二度と起こさないという教訓を象徴する像であるという意義を理解した上での言葉である。戦時中、差別され迫害されたカナダの日系人だからこそ、同じ戦争被害者である性奴隷被害者の気持ちがよくわかるのだろう。

このように、日本政府による「像」撤去要求を含む「日韓合意」や、各地での「像」建立をめぐる論争に対し、日系人強制収容に対する謝罪・補償をはじめ、過去の不正義にカナダがどう向かい合ってきたかの歴史が示唆することは多い。

のりまつ・さとこ

『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』(http://apjjf.org/) エディター。ピース・フィロソフィー・センター(peacephilosophy.com)代表。編著『正義への責任―世界から沖縄へ』(琉球新報社、2015年)、共著『沖縄の〈怒〉-日米への抵抗』(法律文化社、2013年)など。カナダ・バンクーバー市在住。

関連記事:

設置反対の運動で試される多文化共存社会――カナダで「慰安婦像」の動き

(週刊金曜日2015年4月24日号)

トランプ爆弾(ジェレミー・バーンシュタイン) Jeremy Bernstein: The Trump Bomb – New York Review of Books

Posted: 11 May 2016 07:01 AM PDT

トランプの軍事外交問題についての無知は底なしだ。「日本が駐留経費の負担を大幅に増額しなければ在日米軍を撤退させる考え」であることばかりが日本では報道されたが、そのインタビューで、トランプの言説がどれほど誤りに満ち、でたらめなものだったかが抜け落ちている。
在日米軍は「日本のために」駐留しているかのように言うが、世界を覆う米軍基地ネットワークの一部としてアメリカの利害のために居座っていることを知らないようだ。すでに世界のどこにもないような額の「思いやり予算」を日本が支払っていて、むしろアメリカが搾取している側だということも、全然分かっていないようだ。「核による温暖化」などは空いた口がふさがらない。核の冬のほうが深刻な影響だと考えられていることも知らないようだ。

アメリカの定評ある書評誌『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』に掲載された、理論物理学者で科学エッセイストの、ジェレミー・バーンシュタインによる論説を翻訳して紹介する。

原文は、http://www.nybooks.com/articles/2016/05/12/the-trump-bomb/

(前文・翻訳:酒井泰幸)

メリーランド州ナショナルハーバーで開催された2015年の保守政治活動協議会(CPAC)で演説する
ドナルド・トランプ(画像: Gage Skidmore, Flickr)

トランプ爆弾

ジェレミー・バーンシュタイン、2016年5月12日号

私は先日、ドナルド・トランプ氏に核問題について個人授業をいたしましょうと申し出た。正確に書くなら、私は彼のウェブサイトを訪れ、コメントを送る欄があるところに、これらの物事について彼はクソと味噌の違いも分かっていないようだと、私のコメントを書き始めた。彼は単刀直入な話を好みそうな人なので、私の率直さを受け入れてくれるかも知れないと思った。続いて私は、彼の支持者ではないけれども、彼がもっと明確にこの問題を理解できるように、私は物理学者として喜んで個人授業をすると書いた。このコメントに回答はなかったが、ニューヨーク・タイムズの2人の記者と3月26日に行ったインタビュー(書き起こしはネット上で閲覧可能)は、私の貢献が切実に必要なことを示していた。*

記者の一人はデビッド・E・サンガーだったが、彼はこの問題の非常に優れた専門家だ。彼はインタビューとそれに添えられた記事の中で、ほとんど仏陀のような自制を見せた。彼がインタビューの電話を切った時、私がその場に居てあげられたらどんなに良かったろうと思う。もう一人の記者は元『ポリティコ』誌のマギー・ハーバーマンだった。彼女はこう切り出した。

月曜日[2016年3月21日]にワシントンでお話しになったことについて、いくつか伺いたかったのですが、そのことについてはこれまでたくさんお話になっていますので、あなたはいくつかの場面で、日本と韓国は自国の防衛費をもっと負担して欲しいと発言されましたね。これまで30年間あなたは日本について同様のことを語ってこられました。これらの国々が北朝鮮と中国からの脅威にさらされていることを考えると、自前の核兵器を手に入れた場合、あなたは反対しますか?
トランプ氏、

ああ、そうですね、いつかは、我が国がこのようなことをもはや続けられない時を迎えるでしょうし、メリットとデメリットがあることは承知していますが、今は我が国が守っています。基本的には我が国が日本を守っていて、我が国は北朝鮮が頭をもたげるたびにですね、日本から要請が来るし、至る所から要請が来ますね。「何かしてくれ」と。ですが我が国がこれ以上何もできなくなる時が来るでしょう。では、それは核を意味するのか?核なのかもしれません。それは非常に恐ろしい核の世界です。私にとって、この世界で、最大の問題は、核と、核拡散です。同時にですね、我が国はお金のない国です…。
我が国は金持ちの国ではありません。かつて我が国は金持ちで、非常に強い軍と多方面にわたる強大な能力を有していました。もはや我が国はそうではないのです。我が国の軍はひどく疲弊しています。我が国の核兵器はとてもひどい状態です。彼らはそれがちゃんと動くかどうか分かりません。我が国は昔と同じではないのです、マギーさん、デビッドさん。つまり、わかってもらえると思うんですが。
マギーとデビッドに何をわかって欲しいと言っているのか、私には判然としない。日本と韓国が核兵器を持つことで、彼の「最大の問題」である核拡散を軽減できるかもしれないという考えなのか、あるいは我が国の核兵器が「とてもひどい状態で、彼らはそれがちゃんと動くかどうか分からない」ということについてなのか?誰がこんな馬鹿げた考えを彼に授けたのか?「彼ら」とは誰なのか?不幸にも、これらの質問が発せられることはなかったが、サンガーは勇敢にも食い下がる。

では、マギーの意見をちょっと補いたいのですが、これまでずっと日本の見解は、もしアメリカが、いつの日か、日本の防衛を負担に感じるようになったら、「じゃあ自前の核抑止力を持つべきだろう、アメリカが頼りにならないなら我が国で北朝鮮に思い知らせてやることが必要だ」と言う人々が、日本社会と韓国社会の一部には常に存在しています。それは理にかなった見解でしょうか?日韓両国が自前の核兵器を持つべき時が来るとお考えですか?
トランプ氏はこう答える。

そうですね、これは話す必要のある見解で、いつかは我が国が議論する必要のある見解でして、もしアメリカがこのまま行けば、現状の弱腰のままですね、私がそれを議論しようがすまいが、どの道あの国々はそれを持ちたくなる。というのは、我が国との間に起きることで、彼らがしっかり安全保障されているように感じるとは思えないからですよ、デビッドさん。だってそうでしょう、いかに我が国が敵国を支援、いや同盟国を支援してきたかを見れば、とても力強い支援などではなかった。世界中のいろいろな地域を見れば、力強い支援などではなかった。我が国が20年か25年前か、30年前と同じような目で見られているとは、とても思えないのです。ですから、問題だと思うんですね。そうでしょう、こういうのは、我が国が非常に強くならなければ、非常に強力で金持ちに、今すぐならなければ、我が国が議論しなくても、どの道あっちの方でそういうことが議論され始めることは確かだと私は思います。
サンガーはトランプ氏が質問にちゃんと答えるよう果敢に試みる。「あなたはそれに対して異議を唱えますか?」トランプ氏の答えは、

うーん、いつかは、我が国は世界の警察官であり続けることができなくなります。そして残念ながら、今ここには核の世界があります。現実には、パキスタンが保有しています。現実には、おそらく、北朝鮮が保有しています。つまり、あの国々にはミサイル技術がないのですが、おそらくですね、言いたかったのは、これは大問題だと言うことですね。で、私がむしろ核を持つ北朝鮮に核を持つ日本を対峙させる方を望むかですって?もしそうなればずいぶん楽でしょう。言い換えるなら、日本が自衛している相手の北朝鮮こそ、本当の問題だということです。そうすればずいぶん有利になるかもしれませんねえ…。我が国の対日関係の中の、一つですがね、ところで、私は日本の大ファンですし。日本には私の友だちがたくさん、たくさんいます。私は日本とビジネスをしています。でも、もしアメリカが攻撃されたら、日本は何もしなくても良いということなんです。もし日本が攻撃されたら、アメリカは全力で乗り出さなければいけません。分かるでしょう。それはとても片務的な条約なんです、現に。言い換えれば、もし我が国が攻撃されても、日本が我が国を防衛しに来ることはなく、もし日本が攻撃されたら、我が国は彼らの防衛に全力を上げなければならないのです。ですからそれは、それこそが本当の問題なのです。
つまり、日本が我が国を防衛できるようにするため、我が国は日本が核兵器を持つように仕向けるべきなのだ。核拡散が最大の問題だという意見と一体どのように噛み合うのかは明らかにされていない。たぶん良い核拡散と悪い核拡散があるのだろう。(トランプ氏は後に、彼が話に出した国々が核兵器を使って戦ったら「ものすごい」ことになると語った。)

ハーバーマンはさらに質問を続ける。

あなたは、我々が生きている核の世界についてお話しになっていましたが、何度もおっしゃいましたね、私も選挙運動中にずっとあなたがこうおっしゃるのを聞きました。アメリカが何をしでかすか分からない国になるのを、あなたは望んでいると。あなたは、敵国との衝突でアメリカが先に核兵器を使うことに賛成なさいますか?
トランプ氏はこう答える。

絶対に最後の手段です。それは最大の、個人的な考えですが、それは最大の問題だと思います。世界が、核戦力を持っているということが。それが唯一最大の問題だと私は思います。地球温暖化の話になれば、注意が必要なのは核による地球温暖化だと私は話します。世界で唯一最大です。今の兵器の威力はこれまでの想像をはるかに超えて、むしろ、考えることもできないほどですよね、その威力を。広島をご覧なさい、それを何倍にも、何倍にも大きくしたものが、現在あるのです。それが私には唯一最大の、唯一最大の問題なのです。
当然、議論はイランとの核交渉に及ぶ。トランプ氏が特に忌み嫌う相手だ。このやりとりで、基本的事実のいくつかを彼は知らないということが露見してしまう。彼はアメリカがイランに1500億ドルを「与えた」という言説を何度も繰り返している。アメリカが差し押さえた資金1500億ドルを「返した」のだということを彼は確かに知っている。これでは選挙演説の説得力は下がってしまう。しかし彼はこう付け加える。「イランは、今イランは金持ちですが、彼らはアメリカ以外の国から買っていることにお気付きでしょうか?彼らは飛行機を買い、彼らは何でも買っています。彼らはアメリカ以外のあらゆる国から買っているのです。私と商売をすることはなかった。」

これにサンガーが答える。「我が国の法律でイランに売れないからです、先生。」

トランプ氏が答える。「え、何とおっしゃいました?」

サンガーが答える。「我が国の法律でイランには飛行機を売ることができないのです。つまりアメリカにはまだ制裁措置があって、アメリカがそのような装備品を売ることができないようになっています。」

トランプ氏はこう答える。

だから、そんな馬鹿なことがあるでしょうか?我が国はイランにお金を与え、今度は「ボーイングの代わりにエアバスを買うがいい」と言うんですか?だからそんな馬鹿なことがあるでしょうか?そのこと自体は、おっしゃるとおり、正しいのですが、ところで今イランは買ってるんですよね、約118機買ったんです、118機のエアバスを。彼らはボーイングを買わなかったんですよ、いいですか?我が国がイランにお金を与えた。そしてそれをアメリカで使ってはいけない、アメリカに富と雇用を生み出してはいけないと言う。おまけにイランは、原則的には、そうすることができないということなんでしょうね、私の理解では。彼らはできないんです。信じがたいことです。我が国がイランに1500億ドルを与え、彼らはそれを我が国で使うことができない。
核のことを議論するとき、トランプ氏はしばしばMITの教授だった彼の伯父、ジョン・G・トランプの思い出をよみがえらせる。実際には彼は電気工学の教授で、第二次世界大戦ではレーダーの研究をした。彼が核兵器の権威だったと信じる理由はどこにもない。

もしトランプ氏に話す機会があれば、私は彼に、これはビジネスの取引ではないと説明してみるつもりだ。(このインタビューで彼は、イランは北朝鮮の一番の貿易相手で、このことを核交渉に入れるべきだったと主張した。一番の貿易相手は中国だという事実と、それが交渉の議題に上っていたという事実は、彼の注意から抜け落ちていたようだ。)イランはあと数ヶ月で兵器製造に十分な核分裂性物質を持てるところまで来ていた。いくつかの[制裁]規定が撤廃されるというのは本当だが、その時に爆弾が登場するということを意味するものではない。それが起きるまで時間はたっぷりとあるだろうし、我が国が対応を検討する機会もあるだろう。それまでは、トランプ氏とのインタビューが行われたのは、ロシア以外の50カ国以上が参加して3月末にワシントンで開かれた核セキュリティ・サミットの直前だったことを、私は指摘しておく。

たった一つだけ本当に輝かしい成果といえるのはイランで起きたことだ。しかし、アメリカはロシアとの軍縮条約の次の段階を合意できていない。北朝鮮が再び核実験を行うことは間違いない。インドとパキスタンは自国の兵器を近代化している。ベルギー人のテロリストが核物質を盗もうと画策していた証拠がある。そしてこれらの真っ直中に、無知の巨人、トランプ氏がいる。

* 書き起こしの全文は“Transcript: Donald Trump Expounds on His Foreign Policy Views,” The New York Times, March 26, 2016 を参照。デビッド・E・サンガーとマギー・ハーバーマンの“In Donald Trump’s Worldview, America Comes First, and Everybody Else Pays,” The New York Times, March 26, 2016 も参照。

(以上、翻訳終わり)

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ジョン・ピルジャー:なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか

ジョン・ピルジャー:なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか John Pilger: Why Hillary Clinton is More Dangerous Than Donald Trump (Japanese translation)

Posted: 02 May 2016 04:40 PM PDT

2016年のアメリカ大統領選挙は、民主党のヒラリー・クリントンと共和党のドナルド・トランプの対決となる公算が強まってきた。この2人の対決は何を意味するのか。これは日本に住んでいると見えにくい。ブッシュを出した共和党は保守主義でタカ派の軍事主義者、オバマの民主党は自由主義(リベラル)でハト派の平和主義者なのだろうか?この先入観に反して、オバマ政権では軍事費が過去最高に増大し、世界を覆う基地のネットワークは強化され、ドローンを使った一方的な戦争が仕掛けられている。民主党であろうと共和党であろうと軍事力を使って世界を支配しようとする点で違いはなく、軍事主義に対抗する勢力は二大政党システムに存在しない。異端と見なされるトランプより、むしろクリントンの方が、アメリカに通底する例外主義(アメリカだけは他の国々と違い、何をやっても許されるという考え)を代表している。

この世界の真実から人々の目をそらしておくために、まやかしが流布される。人々の生存を脅かす暴力に対抗していくためには、メディアによるチェックと民衆の直接行動が、かつて無いほどに重要性を増している。
ジョン・ピルジャーがシドニー大学で「世界大戦は始まった」と題して行った講演を、オーストラリアの独立ニュースサイトであるニュー・マチルダが編集して掲載したものを、翻訳して紹介する。
原文は、https://newmatilda.com/2016/03/23/john-pilger-why-hillary-clinton-is-more-dangerous-than-donald-trump/
(前文、翻訳:酒井泰幸、翻訳協力:乗松聡子)

米大統領民主党候補ヒラリー・クリントン(画像: アメリカ大使館, Flickr)

なぜヒラリー・クリントンはドナルド・トランプよりも危険なのか

ジョン・ピルジャー、2016年3月23日

私はオーストラリアの北の、太平洋の真ん中に位置するマーシャル諸島で、映画の撮影をしている。私が行ってきた場所のことを話すと、人々はいつも「どこですか、それは?」と聞いてくる。手掛かりに「ビキニ」のことを話すと、「水着のことですね」と返ってくる。

ビキニ水着が、ビキニ島を破壊した核爆発をほめたたえるために名付けられたということを知っている人はほとんどいないように見える。1946年から1958年までの間にマーシャル諸島でアメリカの手により66の核爆発装置が起爆され、それは12年で毎日1.6個の広島型爆弾が爆発したのに等しい。

現在のビキニは静かで、突然変異し、汚染されている。ヤシの木が奇妙な格子状に生えている。動くものはない。鳥は一匹もいない。古い墓地の墓標は放射能に充ち満ちている。私の靴をガイガーカウンターが「危険あり」と示していた。

私は砂浜に立って、太平洋のエメラルドグリーンが巨大な黒い穴へと落ち込んでいるのを見た。これは「ブラボー」と名付けられた水素爆弾が残したクレーターだった。その爆発は、人々と彼らが暮らしている環境を、何百キロ彼方まで、おそらく永遠に毒で汚染した。

そこからの帰路、私はホノルル空港に立ち寄り『女性の健康』というアメリカの雑誌に目をとめた。表紙にはビキニ水着を着た女性が微笑み、「あなたもビキニボディになれる」という見出しが躍っていた。数日前にマーシャル諸島で、私はかなり違った種類の「ビキニボディ」を持つ女性たちにインタビューしたばかりで、みな甲状腺がんなど命に関わるがんを患っていた。

その雑誌の微笑む女性とは違って、彼女らはみな貧しかった。史上最も危険で飽くことを知らぬ超大国の、犠牲者でありモルモットだった。

私はこの経験を、私たちのあまりにも多くを飲み込んでいるまやかし[distraction、注意をそらすもの]を挫くための警告として語る。近代プロパガンダの創始者であるエドワード・バーネイズはこの現象を、民主社会の「習慣と世論の、意識的で利口な操作」と表現した。彼はそれを「見えない支配」と呼んだ。

いったい何人が、世界大戦が始まったということに気付いているだろうか?今のところ、それはプロパガンダの戦争、嘘とまやかしの戦争だが、最初の誤った命令、ミサイルの一撃によって、これは瞬時に変化しうる。

2009年にオバマ大統領は、ヨーロッパの中心であるプラハの真ん中で、熱狂的な群衆の前に立った。彼は「核兵器のない世界」を作ることを誓った。人々は喝采を送り、泣き出す者もいた。メディアは陳腐な決まり文句を垂れ流した。オバマはその後、ノーベル平和賞を受けた。

全ては見せ掛けだった。彼は嘘をついていた。

アメリカ大統領バラク・オバマ(画像: whoohoo120, Flickr)

オバマ政権が作ったのは、より多くの核兵器、核弾頭、核兵器運搬システム、核兵器工場だ。核弾頭への支出だけをとっても、オバマ政権下では他のどのアメリカ大統領よりも高く上昇した。[オバマが提唱する核兵器近代化計画のため]30年間で費やす費用は1兆ドル[約百兆円]以上になる。
ミニ核爆弾が計画されている。B61モデル12と呼ばれるものだ。そのようなものは今までなかった。元米統合参謀本部副議長のジェームズ・カートライト大将は、「小型化すれば[この核]兵器[の使用]はもっと考えやすくなる」と語っている。

この18ヶ月で、第二次世界大戦以後で最大規模の、アメリカが主導する軍事力増強が、ロシアの西部辺境沿いに起こっている。ヒトラーがソビエト連邦に侵攻して以来、外国の軍隊がロシアに対してこのように明白な脅威を示したことはなかった。

かつてソビエト連邦の一部だったウクライナは、CIAのテーマパークになった。キエフでのクーデターを画策したアメリカ政府は、ロシアのすぐ隣にあってロシアに敵対する政権を実質的に支配している。文字通りナチスで腐敗した政権だ。ウクライナの代表的な国会議員たちは、悪名高いOUN[ウクライナ民族主義者組織]やUPA[ウクライナ蜂起軍]のファシストたちの政治的子孫だ。彼らは大っぴらにヒトラーを賛美し、ロシア語を話す少数派を迫害し追放せよと叫ぶ。

このことは西側ではほとんどニュースにならないか、真実を隠すために反対のことが報道される。

ロシアの隣国ラトビア、リトアニア、エストニアでは、アメリカ軍が戦闘部隊、戦車、重火器を配備している。世界第2の核大国に対するこの極端な挑発は、西側では黙殺されている。

核戦争の見通しをさらに危険なものにしているのは、中国に対する同時作戦だ。

中国が「脅威」と呼ばれない日はほとんど無い。アメリカ太平洋軍司令官のハリー・ハリス海軍大将によれば、中国は「南シナ海で砂の長城を建設している」。

彼が指しているのは、中国が南沙諸島に飛行場を建設していることで、フィリピンとの間で論争の種になっているが、ワシントンがマニラの政府に圧力をかけて賄賂を渡し、ペンタゴンが「航行の自由」という名のプロパガンダ作戦を打ち上げるまで、これは優先度の低い論争だった。

これは本当は何を意味するのだろうか?それは、アメリカの軍艦が中国の沿岸水域を巡回し支配する自由を意味するのだ。中国の軍艦がカリフォルニア沖で同じことを行ったらアメリカがどう反応するか、想像してみるが良い。

私は『The War You Don’t See』(見えない戦争)という映画を作ったが、その中で私は、アメリカとイギリスの著名なジャーナリストたちにインタビューした。CBSのダン・ラザー、BBCのラゲ・オマール、オブザーバー紙のデヴィッド・ローズのような記者たちだ。

彼ら全員が言ったのは、ジャーナリストと放送局がきちんと仕事をして、サダム・フセインが大量破壊兵器を持っているというプロパガンダに疑問を突きつけ、ジョージ・W・ブッシュとトニー・ブレアの嘘をジャーナリストが大声で繰り返すことがなければ、2003年のイラク侵攻は起きなかったかもしれないし、何十万人もの男女と子供たちは今も生きていたかもしれないということだった。

ロシアや中国に対する戦争の準備をするプロパガンダも要は同じである。私の知る限り、たとえばダン・ラザーのような西側の「主流」ジャーナリストの誰一人として、なぜ中国が南シナ海の飛行場を建設しているかを問う者はいない。

その答はまぶしいほどに明白だろう。アメリカは弾道ミサイル、戦闘部隊、核武装爆撃機を有する基地のネットワークで中国を取り囲んでいる。

この死を招く弧は、オーストラリアから太平洋の島々に沿ってマリアナ諸島、マーシャル諸島、グアム、そしてフィリピン、タイ、沖縄、韓国に延び、ユーラシア大陸を横切ってアフガニスタン、インドへと続いている。アメリカは中国の首に縄を結び付けたのだ。これはニュースにならない。メディアによる沈黙、メディアによる戦争だ。

2015年には極秘のうちに、アメリカとオーストラリアが「タリスマン・セーバー(Talisman Sabre)」と呼ばれる単一では近年で最大の海空軍事演習を実施した。その目的は、マラッカ海峡やロンボク海峡のようなシーレーンを封鎖し、中国が石油、ガスその他の重要な原材料を中東とアフリカから入手できないようにするAir-Sea Battle(空海一体戦)計画をリハーサルすることだった。

メリーランド州ナショナルハーバーで開催された2015年の保守政治活動協議会(CPAC)で演説する
ドナルド・トランプ(画像: Gage Skidmore, Flickr)

アメリカ大統領選挙戦というサーカスで、ドナルド・トランプは変人、ファシストとして紹介されている。彼は確かに不愉快な人物だが、彼はメディアの憎悪対象でもある。このことだけでも、我々は怪しいと思うべきだ。

トランプの移民観は異様だが、デーヴィッド・キャメロンの見解より異様というわけではない。最も精力的にアメリカからの強制送還を押し進めているのはトランプではなく、ノーベル平和賞受賞者のバラク・オバマだ。

ある重鎮リベラル派コメンテーターによると、トランプはアメリカで「暗黒の暴力的勢力を解き放とうとしている」そうだ。「解き放つ」だって?

この国はすでに、よちよち歩きの幼児が母親を銃で撃ち、警察が黒人に殺人的戦争を仕掛けるような国なのだ。この国は50を超える外国政権を(その多くは民主主義国家だったが)攻撃して転覆させようとしてきた。この国はアジアから中東までを爆撃して何百万もの人々の命を奪い、住む場所を奪ってきたのだ。

他のどの国も、この国の組織的暴力の歴史には太刀打ちできない。アメリカの戦争は(ほぼ全て無防備な国に対するものだが)ほとんどが共和党ではなく民主党のリベラル派大統領によって開始されている。トルーマン、ケネディ、ジョンソン、カーター、クリントン、オバマ。

1947年に、アメリカ国家安全保障会議の一連の命令は、アメリカ外交政策の主要な目的を「[アメリカ]自身のイメージに従って実質的に作り直された世界」と表現した。そのイデオロギーは救世主的アメリカ主義だった。人類はみなアメリカ人だ。さもなくば。異教徒は改宗させ、転覆させ、賄賂を与え、名誉を貶め、押し潰す。

ドナルド・トランプはこのようなアメリカ症候群の一つの現れではあるが、彼は異端者でもある。彼はイラク侵略が犯罪だったと言い、彼はロシアや中国と戦争したいとは思っていない。我々一般人にとっての危険はトランプではなく、ヒラリー・クリントンだ。彼女は異端者などではない。アメリカというシステムが誇りとする「例外主義」は、時折リベラルな顔を見せる全体主義なのであり、クリントンはそのシステムの根強さと暴力性を体現する存在だ。

大統領選挙の日が近付くにつれ、彼女の犯罪と嘘にもかかわらず、クリントンは初の女性大統領として歓呼されるだろう。ちょうどバラク・オバマが初の黒人大統領として賛美され、自由主義者が彼の「希望」についての戯言を鵜呑みにしたように。こうして口からよだれが流れ続ける。

アメリカの攻撃用ドローン(画像: Wikipedia)

ガーディアン紙コラムニストのオーウェン・ジョーンズが「楽しく、魅力的で、他のほぼ全ての政治家たちから身をかわすクールさを持っている」と評したオバマは、先日ドローンをソマリアに送り150人を虐殺した。ニューヨーク・タイムズによれば、彼はいつもドローンによる死の候補者リストが手渡される火曜日に人を殺す。何とクールな。

2008年の大統領選挙戦でヒラリー・クリントンは、イランを核兵器で「完全に抹消する」と脅した。オバマ政権の国務長官として、彼女はホンジュラスの民主政府の転覆に参加した。2011年のリビアの破壊に彼女が関与したときは、楽しそうと言ってもいいほどだった。リビアの指導者カダフィ大佐が公開の場で肛門をナイフで突かれたとき(これはアメリカの計画で可能になった殺人だったが)クリントンは彼の死をさも満足そうに眺めて、こう言った。「我らは来た、見た、彼は死んだ」。

クリントンに最も近い盟友の一人であるマデレーン・オルブライト元国務長官は、「ヒラリー」を支持していないという理由で若い女性たちを非難した。これは、50万人のイラクの子供たちの死を、「それだけの価値がある」と忌まわしくもテレビで祝福したのと、同じマデレーン・オルブライトだ。

クリントンの大口支援者の中には、イスラエルの圧力団体と、中東での暴力に油を注ぐ兵器会社がいる。彼女と夫はウォール街から巨額の金を受け取った。それでもなお、公認の悪魔、邪悪なトランプをやっつけ、女性を代表する候補者として、彼女は任命されそうな勢いだ。彼女の支持者たちには著名なフェミニストもいる。アメリカのグロリア・スタイネムやオーストラリアのアン・サマーズのような人々だ。

一世代前、今は「アイデンティティ・ポリティックス」と呼ばれるポストモダンのカルト宗教のせいで、知性あるリベラルな多くの人々が、支持する主義や人を厳しく吟味することを止めてしまった。たとえばオバマとクリントンのいんちき、あるいは国民を裏切って敵と手を組んだギリシャの急進左派連合のような偽の革新運動などは、吟味されねばならなかった。

自己陶酔、つまり一種の「ミーイズム」[自己中心主義]が、特権的な西側社会での新しい時代精神になり、戦争や、社会的不公正、不平等、人種差別、性差別に反対した、大規模な集団的運動が終焉する前兆となった。

現在、この長い眠りは終わったのかもしれない。若者たちは再び奮起しつつある。徐々に。イギリスでジェレミー・コービンを労働党の党首に推した数千人の人々は、この目覚めの一部で、それはバーニー・サンダース上院議員を支持して結集した人々も同様だ。

しかし先週イギリスで、ジェレミー・コービンに最も近い盟友で、彼の影の財務大臣、ジョン・マクドネルは、海賊的な銀行の負債を支払い、実質的にいわゆる緊縮経済を継続することを、労働党政権に約束した。

アメリカではバーニー・サンダースが、もしクリントンが指名されたら、その時には彼女を支持すると約束した。彼も、「正しい」と思うときには他国に対しアメリカが暴力を使用することに、賛成票を投じた。サンダースは、オバマは「すばらしい仕事をした」と言っている。

オーストラリアでは、ある種の「墓掘り人の政治」が行われている。そこでは長く退屈な国会の駆け引きがメディアで繰り広げられ、その間にも難民と先住民は迫害され、不平等が広がるとともに、戦争の危険が増大する。マルコム・ターンブル首相の政権が1950億ドルの防衛予算と呼ばれるものを発表したところだが、それは戦争に向かって突き進むためのものだ。討論はなかった。沈黙だけだった。

政党の拘束を受けない民衆の直接行動という素晴らしい伝統に何が起きたのか?より良く公正で、平和な世界に向かう長い道のりを歩み始めるために必要な勇気と想像力、献身はどこにあるのか?芸術、映画、演劇、文学の世界で、反体制派はどこにいるのか?
沈黙を打ち破る者たちはどこにいるのか?それとも、我々は最初の核ミサイルが発射されるまで待つとでもいうのだろうか?

(以上、翻訳終わり)

著者のジョン・ピルジャー(John Pilger) は、1939年オーストラリア生まれ、ロンド ン在住のジャーナリスト、ドキュメンタリー映画作家。50本以上のドキュメンタ リーを制作し、戦争報道に対して英国でジャーナリストに贈られる最高の栄誉「ジャーナリスト・オブ・ザ・イヤー」を2度受賞、記録映画に 対しては、フランスの「国境なき記者団」賞、米国のエミー賞、英国のリチャード・ディンブルビー賞などを受賞している。ベトナム、カンボ ジア、エジプト、インド、バングラデシュ、ビアフラなど世界各地の戦地に赴任した。邦訳著書には『世界の新しい支配者たち』(井上礼子訳、岩波書店)がある。また、過去記事は、デモクラシー・ナウTUPなどのサイトにも多数掲載されている。

関連投稿

ジョン・ピルジャー「今なぜファシズム台頭が再び問題になるのか」(2015年3月28日掲載)

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2015/03/jon-pilger-why-rise-of-fascism-is-again.html

【声明】在日コリアン朝鮮籍者に対する出国時の誓約書署名要請に抗議する

Posted: 07 May 2016 03:56 PM PDT

レイバーネットにも掲載されましたが、モントリオールの仲間の起草した声明文にブログ運営者(乗松聡子)も賛同したものをここに紹介します。(5月3日、賛同者リストを更新しました)

「在日コリアン朝鮮籍者に対する出国時の誓約書署名要請に抗議する」

4月13日付東京新聞朝刊によると、法務省入国管理局は現在、在日コリアンの内、   朝鮮籍者に限って、日本から出国する時、北朝鮮に渡航しないことと、もし、渡航した場合は再入国が出来ないことを承知で出国すると書いてある誓約書に署名を要請している。そして、署名なしの出国は原則認めないとも言っている。これは北朝鮮への独自制裁の一環として始められたそうだが、朝鮮籍の在日コリアンのみに出国、再入国に制限をつけるのは法的にも、人権上でも大いに問題があるのではないか。

まず第一に「朝鮮籍」とは「北朝鮮籍」を意味しない。1947年5月に出された、天皇最後の勅令「外国人登録令」によって、当時は日本国籍を有していた日本国内の朝鮮人は外国人登録された。つまり、日本国籍を有しながら、外国人登録もされるという二重政策が適用された。この外国人登録の国籍欄に記されたのが「朝鮮」である。1952年サンフランシスコ講和条約発効と同時に在日朝鮮人は全て、日本国籍を無効にされて、出入国管理令、外国人登録法の対象となった。この時、朝鮮籍を韓国籍に変えた人もいたが、韓国籍に変える人が急増したのは1965年の日韓条約締結後である。韓国籍であれば通常の旅券を持ち、永住権も取れるから、現在は韓国籍の人が圧倒的に多いが、朝鮮籍を変えずに持ち続ける人も勿論いる。そして、朝鮮籍の元はこの1947年の外国人登録令に記載されたもので、現在の朝鮮民主主義人民共和国(1948年9月建国。以後、北朝鮮と略す)ではない。「朝鮮半島出身」を意味するのが朝鮮籍だ。

1910年の強制併合で朝鮮人は、否応も無く日本人とされ、日本の敗戦で独立した祖国は大国の思惑で分断され、1952年に自分達の意向に関わりなくその日本籍を剥奪され(他国を植民地支配した国で支配が終わった段階で国籍選択の権利を認めたところは多い)、日本籍なら当然受けられる諸権利を奪われ、その後も指紋押捺等々、政治で自らのアイデンティティーを翻弄され続けた人たちにとって、国籍は簡単な選択ではない。

東京新聞の記事にもある通り、家族の中で韓国籍、朝鮮籍が混在している家庭も多い。日本人の多くはそういう背景を知らない。しかし、日本政府は勿論、朝鮮籍の背景を良く知っている。本来ならば、政府が説明して、人々の誤解を解く責任があるのに、現政府のやっていることは、政府によるヘイトクライムではないのか。公権力が理屈に合わない差別を始めた時、どんな残虐なことが起こるかは歴史が証明している。ナチスが国内のユダヤ人の権利を制限し始めた時、民衆による、ユダヤ人の店の打ちこわしなどが頻発したことは良く知られている。1923年の関東大震災では植民地からの安い労働力として、日本に住んでいた数多の朝鮮人を官憲と民衆がいっしょになって虐殺したことを決して忘れてはいけない。21世紀の今まさかとは思うが、昨今のヘイトデモなどを見ると、 それが杞憂とは言い切れない。

国の政策は社会の空気に大きな影響を与える。私たちの住むカナダも第二次大戦中は日系カナダ人を強制収容所に入れるという無茶なことをした。カナダの先住民の子どもたちを親元から離して、寄宿学校に入れるなどという酷い強制同化政策が1870年代から一世紀以上も続いて、先住民社会に今も癒えぬ傷を残している。しかし、このような差別政策に対する深い反省から、カナダは多民族、多文化主義を国是として、多くの移民、難民を受け入れて来た。勿論、問題も失敗も多々あるし、これからも失敗はあるだろう。しかし、人種も、文化も、背負っている歴史も違う人たちがお互いの違いを認めながら、共存することは可能だし、人種差別は許容しないという価値観は多くのカナダ人に共有されていると思う。

カナダに住む日系の市民として、日本政府に朝鮮籍在日コリアンに対する出国時の誓約書署名、その他の差別政策を即時中止することを強く求める。そして、多くの日本人が在日コリアンといっしょに立ち上がって、政府の差別政策を撤回させることを希望する。マイノリティーの人権を守れない社会は誰の人権も守れないのだから。

モントリオール在住 長谷川澄  (連絡先:sumi.hasegawa@mcgill.ca)

バンクーバー在住 乗松聡子

(賛同者)

橋爪亮子 ケベック州 モントリオール

鈴木博子 ケベック州 モントリオール

山田修 オンタリオ州 リッチモンド

上坂美和子 ケベック州 ポイントクレア

大槻ともえ ケベック州 モントリオール

田中裕介 オンタリオ州 トロント

安藤かがり BC州 バンクーバー

原京子 BC州 サレイ

尼崎竜一 オンタリオ州 トロント

菊池幸工 オンタリオ州 トロント
Yoshiharu Kawashima ケベック州 モントリオール
井上美智子 BC州 バンクーバー

Take Me with U

Posted: 21 Apr 2016 04:58 PM PDT

Prince is dead?
Should I even believe it?
He was with me in my troubled youth
Of course, just an average one

My youth, was about him.
Not that anyone cares
He was with me in solitude
He was with me in love

He and his music made my younger years
So much richer,
Richer than they would have been without
Not that I can even imagine without.

But I don’t want to say thank you yet.
It is maybe one of those tricks he is playing on us.
RIP? Doesn’t even sound right.
Don’t say it!

A Minneapolis Genius.
I haven’t even been to Minneapolis.
Maybe I will go some day.
With or without him.

Prince.
I don’t own you
But I loved you.

東京の大家による「琉球新報」記者への賃貸拒否事件は絶対に許してはいけない Racism in Japan: A Tokyo landlord denies rental to an Okinawan newspaper editor

Posted: 20 Mar 2016 01:01 PM PDT

『琉球新報』3月20日8面の「記者の窓」というコラムで新垣毅編集委員は、今回東京に赴任になった際、借りようとした物件の大家から「琉球新報には貸さない」という理由で断られたという信じがたい出来事を書いている。

人種差別を禁止する法律さえまだない日本では、賃貸などにおいて「外国人お断り」といった差別行為がいまだに横行している。しかし日本は国際人種差別撤廃条約を批准しており、日本国憲法は人種差別を禁止しているのだから、これは明らかに違憲、違法な沖縄差別、レイシズムである。

たとえばカナダに住む自分が日系の新聞社に勤めていてそれを理由に賃貸を断られたら、ただちに州の人権裁判所に持ち込むであろう。

沖縄は日本の一つの県であるが、独自の歴史、文化、言語を持つ地域であり、もとは独立王国であったところ日本に植民支配され、その地出身の人が日本本土で差別を受けてきたという歴史がある。その差別は今も米軍基地の大半を押し付けるという形で続いているのだ。

だから、その地の名「琉球」を冠した、その地を代表するメディアの一つである新聞社の社員が、その社の構成員であるという理由で賃貸拒否されたということは、その地とその地の人々に対する差別行為である、つまりレイシズムであるということは明らかだ。

これは絶対に看過してはいけない人権侵害事件である。このような差別を行った者は法的、社会的に処罰を受けるのは当然であり、内外のメディアも最大限に取り上げてほしい。

もちろんこれは沖縄に対する差別だけではなく、在日コリアンの人々、在日外国人の人々など日本における少数派に対するすべての差別をなくしていくためのウェークアップ・コール(警鐘)となるべきものと思う。

@PeacePhilosophpy ブログ管理人 乗松聡子

『琉球新報』3月20日8面より

 

311の五周年、福島県が新聞に出した全面広告を見て―「誇張された福島」は「そこにはありません」なのか!!!On the 5th anniversary of the onset of Fukushima nuclear crisis

Posted: 11 Mar 2016 07:04 PM PST

今日(3月12日)東京新聞に福島県によるこのような全面広告が出ていた。

これは一言でいえば「福島を原発事故の場所というイメージだけで見ないでください」という広告なのだと思う。

原発の被害を隠したい人たちがよく使う言葉を借りれば、「福島県への風評被害をやめてください」というメッセージにも取れる。

しかしこの広告を見て思う。

311の5周年という大事な節目に、福島県が県民の税金を使って発するメッセージが、これなのかと。

あまりにも情けないのではないかと。

未曾有の原発事故が起こった場所として人類の歴史に長く刻まれざるを得なくなった福島に、いろいろな人間の姿があるのはそうだと思う。汚染のひどいところも軽いところもある。

しかし311の記念日だからこそ、動かしがたい厳しい現実から目をそらすのではなく、直視するメッセージであるべきなのではないか。

原発事故のため捜索活動もできず、沿岸部で放射性物質にまみれたままの幾多の死者たちがこの広告を見たらどう思うだろうか。

甲状腺がんをはじめとするさまざまな健康障害に苦しむ人たちがこの広告を見たらどう思うだろうか。

もちろん私にその人たちの代弁をする資格はない。

「いろいろな声によって誇張された福島はそこにはありません。」

これが一番言いたかったことなのだろう。

原発事故でばら撒かれ、いまも川、海、土壌、空気にある放射性物質のことをいうことを「誇張」と言っているのだろうか。

日本の首相は「誇張」どころか、「アンダーコントロール」と嘘をついてオリンピックまで招致した。東京を含む関東全域にも深刻な汚染地域はあるのに。

放射性物質のことを言うのが、制御とは程遠い原子炉のことを言うのが「誇張」だとしたら、

そんな「福島」は

「そこにはありません」なのか。

ないのか。

ないのか!!!!

ないのか!!!!!!!

★☆★

鎌仲ひとみ監督の新作『小さき声のカノンー選択する人々』を強く勧めます。

上映スケジュールなど情報はここ。 http://kamanaka.com/canon/

原発関連の数々の訴訟を手がける河合弘之弁護士が監督した映画『日本と原発 4年後』も強く推薦します。http://www.nihontogenpatsu.com/

放射性物質による被曝に焦点を当てた前者と、原発の政治的経済的技術的不合理を表現しきった後者は、お互い補完し合う秀作であると思います。

カナダ西海岸で、311の日が終わる前に。

@PeacePhilosophy 乗松聡子

Political agenda behind the Japanese emperor and empress’ “irei” visit to the Philippines (Asia-Pacific Journal) 天皇皇后フィリピン「慰霊の旅」の政治的目論見(『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』)

Posted: 03 Mar 2016 07:07 PM PST

Reposted from the Asia-Pacific Journal: Japan Focus.  『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』から転載。

Remembering the victims, on the 71st anniversary of the ending of the Battle of Manila (February 3 – March 3, 1945). マニラ市街戦(1945年2月3日から3月3日)終結71周年の記念日に、被害者に思いを馳せながら。

Memorare-Manila 1945, Intramuros, Manila. Upon embarkation from Haneda, emperor Akihito said, “A great many innocent Filipino civilians became casualties of the fierce battles fought in the city of Manila. This history will always be in our hearts as we make this visit to the Philippines,” but during their stay in the country, he and empress Michiko never visited this memorial dedicated to the 100,000 civilian victims of the Battle. 
マニラ市イントラムロス地区にあるマニラ市街戦被害者の追悼碑。明仁天皇は出発時羽田で、「…マニラの市街戦では、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています」と語ったが、フィリピン滞在中、彼と美智子皇后はこの戦闘の10万人の民間人被害者を追悼する碑を訪れることはなかった。

Political agenda behind the Japanese emperor and empress’ “irei” visit to the Philippines 

 

Kihara Satoru and Satoko Oka Norimatsu

Emperor Akihito and empress Michiko of Japan visited the Philippines from January 26 to 30, 2016. It was the first visit to the country by a Japanese emperor since the end of the Asia-Pacific War. The pair’s first visit was in 1962 when they were crown prince and princess.

The primary purpose of the visit was to “mark the 60th anniversary of the normalization of bilateral diplomatic relations” in light of the “friendship and goodwill between the two nations.”[1] With Akihito and Michiko’s “strong wishes,” at least as it was reported so widely in the Japanese media,[2] two days out of the five-day itinerary were dedicated to “irei 慰霊,” that is, to mourn those who perished under Imperial Japan’s occupation of the country from December 1941 to August 1945.

The Japanese term “irei” literally means to “comfort the spirit” of the dead, and is used generally to mean notions such as to “mourn,” “pay tribute (respect) to,” and/or to “remember” those who die in abnormal situations like wars, natural disasters, accidents, and crimes. Another word commonly used for such purposes is “tsuito 追悼,” – literally “to remember the dead with sadness.” The latter term is regarded as more neutral and secular, and is used for those who die of natural causes as well. The two are often used interchangeably, but some problematize the term “irei” as having a religious meaning, one tied to Shintoism, and the two should be distinguished carefully.

Folklorist Shintani Takanori points out that notions of remembering the dead in Japanese culture, with its tradition of “enshrining the dead as gods,” cannot be easily translated into Anglophone culture. The word “irei” has a connotation beyond “comforting the spirit” of the dead, which embeds in the word the possibility of the “comforted spirit being elevated to a higher spirituality” to the level of “deities/gods,” which can even become “objects of spiritual worship.”[3]

Shintani’s argument immediately suggests that we consider its Shintoist, particularly Imperial Japan’s state-sanctioned Shintoist significance when the word “irei” is used to describe the Japanese emperor and empress’ trips to remember the war dead. This is particularly the case given the ongoing international controversy over Yasukuni Shrine, which enshrines those who died for the emperor in battles during the period of the Empire of Japan, notably during the Asia-Pacific War. Following Shintani, in this article we italicize the term irei to call attention to the difficulty of translating the complex notion into an English term.[4]

Akihito and Michiko had paid such irei visits previously to Iwojima (1994), Nagasaki, Hiroshima, Okinawa and Tokyo (aerial bombing) to mark the 50th of the war end in 1995, Saipan (2005), and Palau (2015). The Japanese media across the board applauded their visit to the Philippines, as one that demonstrated the pair’s sincere gesture of remorse over the scars of war. It is, however, necessary to carefully examine political calculations behind this visit.

1.     A precursor to Japan-U.S.-Philippines military unification

First, this visit took place in the midst of increasing military cooperation and alliance among the United States, Japan and the Philippines, based on a strategy of opposing China’s advancement in the South China Sea.

In November 2015, President Obama visited the Philippines for the APEC summit and on board the Philippine’s Navy ship BRP Gregorio del Pilar, a former U.S. Coast Guard vessel, he stressed the two countries’ “shared commitment to the security of the waters of this region and to the freedom of navigation,” and reiterated the U.S. plan to increase military aid to its allies in the region.[5] Shortly after Obama’s visit, the U.S. announced an increase in its annual military aid to the Philippines to 79 million dollars.[6]

The Supreme Court of the Philippines, as if in response, ruled on January 12, 2016 that the Enhanced Defense Co-operation Agreement (EDCA) was constitutional. The 10-year defense agreement signed in 2014, which would allow expansion of U.S. military activities in the Philippines, “rotating ships and planes for humanitarian and maritime security operations.”[7] EDCA had met the legal challenge which claimed that the pact infringed the nation’s sovereignty.[8]

U.S. Secretary of State John Kerry and Secretary of Defense Ashton Carter, in a January 12 meeting in Washington with their Filipino counterparts, welcomed the Philippine Supreme Court’ decision. Carter said that the Philippines “is a critical ally of the United States as we continue and gather and strengthen our rebalance to the Asia-Pacific region… our commitment is ironclad.”[9] According to a news report of January 13, the Philippines will offer eight military bases for the United States to build facilities to store equipment and supplies.[10] These moves are understood in the context of rising tensions in the South China Sea, including territorial disputes between China and the Philippines over islands in the South China Sea. The Philippines brought the case to the UN-appointed permanent court of arbitration (PCA) in the Hague in 2013, and the final judgement is expected in mid-2016, with the likelihood of being in favour of the Philippines.[11]

Japan and the Philippines have been holding reciprocal visits. In June 2015, Prime Minister Benigno Aquino III visited Japan as a state guest, and in the June 4 “Joint Declaration – A Strengthened Strategic Partnership for Advancing the Shared Principles and Goals of Peace, Security, and Growth in the Region and Beyond,” the two governments agreed to “expand their security cooperation” through means such as “participation of Self-Defense Forces in disaster relief activities in the Philippines,” and “the expansion of bilateral and multilateral trainings and exercises for capacity building.”

In the following month, Prime Minister Abe visited the Philippines as part of a three-state tour that included Singapore and Malaysia, and in the bilateral summit, announced Japan’s provision of 10 patrol vessels through a yen loan “in order to enhance the capacity of the Philippine Coast Guard.” These moves all address the “South China Sea issue” which Abe indicated “is a matter that concerns the regional and international communities.”[12]

In April 2016, the Japanese Defense Minister Nakatani Gen is expected to visit the Philippines to discuss with his Philippines counterpart, Defense Secretary Voltaire Gazmin, Japan’s provision of military equipment to the Philippines such as TC-90 training aircraft and expanding joint military exercises between Japan’s Maritime Self-Defense Force and the Philippine Navy.[13]

Akihito and Michiko’s visit to the Philippines should be understood in the context of such increasing military alliance involving U.S., Philippines and Japan. The Abe administration has used symbolic irei trip to pave the way for Japan to play a more active military role overseas under the “use of the right to collective self-defense” enabled by the set of laws rammed through last year that changed the interpretation of the Article 9, the pacifist clause of Japan’s post-war constitution.

Emperor Akihito on the other hand, during the Imperial Palace banquet to welcome President Aquino on June 3, 2015, emphasized the need for the Japanese to remember the “loss of many Filipino lives” as a result of the “fierce battles between Japan and the United States” that took place in the Philippines, with “a profound sense or remorse.” He offered his “deepest condolences to all those who lost their lives then.”[14] Significantly, however, Akihito has refrained from any word of direct apology on such occasions, just as in his trips to Saipan and Palau.

The Philippine Star, one of the most-read broadsheet in the Philippines, rightly observed:

Akihito has repeatedly expressed regret for the damage caused by the war but has never offered a straightforward apology. The furthest he has gone is to express “deep” remorse in an address last year marking the 70th anniversary of the end of the war.[15]

The fact that he, and Japanese society as a whole including the government, generally leave the matter of war responsibility ambiguous, and the fact that Japan is once again becoming “a country that can fight wars” under the U.S.-Japan military alliance and the set of “war bills,” are not unrelated.

The Philippine Starseems to understand this trip in terms of such political goals:

While he has been jeered on previous foreign visits, Akihito was welcomed with full state honors in the Philippines, which now depends on Japan as a leading trading partner, provider of development aid, and a major ally as Manila confronts an assertive Beijing in contested territories in the South China Sea.[16]

2.     “Independence of the Philippines” and “Battle of Manila”

Emperor Akihito during this trip gave two formal speeches, at Haneda Airport upon embarking and at the state banquet hosted by President Aquino in the Philippines. In these speeches, he mentioned “Independence of the Philippines” and the “Battle of Manila” of February 1945. The Japanese media generally praised these references, but Akihito failed to clarify critical elements of these historical events.

Imperial Japan that hampered Philippine’s independence

In his remarks during the state banquet in Manila, Akihito mentioned José Rizal (1861-1896) twice, and applauded him as a “national hero” who “pressed for independence” from “Spanish control.”[17]The couple even visited and placed flowers at theJosé Rizal Monument on the morning of January 27.[18] Rizal, a doctor, author, artist, was an anti-colonial leader who inspired the Philippine Revolution (1896-98) that freed the country from the three centuries of Spanish rule, only to be taken over by the U.S., after the Philippine-American war (1899-1902) that pitted Filipino revolutionaries against the U.S. Army.

If Akihito emphasized the “independence of the Philippines,” why did he only refer to “independence from Spain,” which was more than a century ago, and not independence from the United States or from Japan? It is worth recalling that the Philippines was at the brink of independence in 1941 on the eve of the Japanese invasion. While his father Hirohito’s army in effect thwarted Philippines’ independence and delayed it till after the Japanese war, his praise of José Rizal appears more like an intended concealment of the history of Japan’s own invasion and colonization of the country, which was ironically the very chapter of history Akihito wanted to address in this visit.

§  There was a special sentiment towards Japan on the part of the Philippines, which was invaded just before its independence from the U.S. In the International Military Tribunal for the Far East, the Filipino judge Delfin Jaranilla argued all Class-A war criminals be sentenced to death. Carlos Romulo, Secretary of Foreign Affairs of the Philippines at the time of San Francisco Peace Treaty told Japan “to demonstrate your spiritual repentance and proof of renascence before we extend our hand of forgiveness and friendship.” [19]

Horrors of the Battle of Manila and Emperor Hirohito’s responsibility

Akihito’s speeches touched on the Battle of Manila (February 3 to March 3, 1945), in which “a great many innocent Filipino civilians became casualties of the fierce battles fought in the city of Manila,” and said that the loss of many Filipino lives in the battles on Philippine soil is “something we Japanese must never forget.” True, approximately 1.1 million people in the Philippines were killed in the battles on their islands, including those who were slaughtered by the Japanese Army. It is also unquestionable that the biggest responsibility of the war lay with Emperor Hirohito, who issued the imperial edict that started the war.

Hirohito’s responsibility is particularly noteworthy where the Battle of Manila is concerned, because on February 14, 1945, his close aide Konoe Fumimaro urged him to surrender, saying “defeat is inevitable,” in the document known as “Konoe Memorandum.” Hirohito rejected Konoe’s advice, saying it would be “difficult unless after one more successful battle.” If Hirohito had heeded Konoe’s advice, the casualties of the Battle of Manila would have been significantly less. Likewise, all the deaths of the six months between then and Hirohito’s surrender of August 15, including those of the aerial bombings of Tokyo (March 10) and other cities, the Battle of Okinawa, atomic-bombing of Hiroshima and Nagasaki, and civilian and military (including POWs) casualties in all areas affected by the Japanese war across Asia-Pacific would have been avoided.

If Akihito were to voice his concern over the “great many innocent Filipino civilians” who became “casualties of the fierce battles fought in the city of Manila,” should he have not first apologized for his father’s war responsibility? It is this history that “we Japanese must never forget,” not a concealed or glorified version of history.

3. Disguise of Japan’s responsibility as perpetrator of war and nationalism

Now, who did Akihito and Michiko meet and who did they not meet? Where did they go and where did they not go?

Japanese war-bereaved and former “comfort women”

The first war memory site that the couple visited was the Tomb of the Unknown Soldier at the Heroes’ Cemetery in Taguig in metro Manila on January 27. Japan’s national newspaper Asahi Shimbunreported that this visit took place at the insistence of the couple that the trip include a visit to Philippine war victims as well as Japanese war victims.[20] It appears that in the absence of their suggestion, Hirohito’s heir as emperor of Japan would have only visited the war memorial for fallen Japanese soldiers in his state visit to the Philippines.

Akihito and Michiko, however, could have visited another site too if they had truly wished to mourn the civilian victims of the Battle of Manila. They did not visit the monument dedicated to the victims of the Battle, “Memorare-Manila 1945,” although it is located near the José Rizal monument that the couple did visit on January 27. Memorare-Manila 1945 was built by the civilian survivors and their descendants in February 1995, the 50thanniversary of the Battle. It is a painfully vivid representation of the civilian suffering in the Battle, with the “figure of a hooded woman slumped on the ground in great despair for the lifeless child she cradles in her arms. Six suffering figures surround her, a glimpse of the great despair brought about by the gruesome massacres that were perpetrated all over the city inflicted by Imperial Japanese soldiers on civilians during the liberation of the city.”[21]

Marker of Memorare-Manila 1945 

The Inscription on the marker says: [22]

This monument is erected in memory of the more than 100,000 defenseless civilians who were killed during the Battle for the Liberation of Manila between February 3 and March 3, 1945. They were mainly victims of heinous acts perpetrated by the Japanese Imperial Forces and the casualties of the heavy artillery barrage by the American Forces. The Battle for Manila at the end of World War II was one of the most brutal episode in the history of Asia and the Pacific. The non-combatant victims of that tragic battle will remain forever in the hearts and minds of the Filipino people.

Is it possible that the pair would have wanted to visit this memorial too if they had the chance, just as they made an unplanned stop at the memorials for the Korean victims and that for the Okinawan victims in their war memory trip to Saipan in 2005? In his formal speeches, Akihito made references such as “During World War II, countless Filipino, American, and Japanese lives were lost in the Philippines. A great many innocent Filipino civilians became casualties of the fierce battles fought in the city of Manila” (At Haneda Airport on January 26), and “During this war, fierce battles between Japan and the United States took place on Philippine soil, resulting in the loss of many Filipino lives and leaving many Filipinos injured” (at the state banquet on January 27), avoiding carefully whoactually killed those Filipino civilians. Perhaps the direct reference to “Japanese Imperial Forces,” Akihito’s father’s army, as the perpetrator of the “heinous acts” at Memorare-Manila 1945 was too inconvenient for the Japanese government which was intent on keeping the former emperor’s war responsibility as vague as possible.

The discrepancy between Akihito’s word that extended his remorse for the innocent victims of the war and the fact that he and his wife only visited war memorials for the fallen soldiers is another indication that any focus on the civilian casualties of war would be inconvenient to the true purpose of this trip for the two governments: to solidify and advance the bilateral military alliance. To reinforce that point, even though the Japanese media labelled this trip as “irei no tabi,” a trip for irei, and the imperial couple appeared to have embraced that purpose throughout the trip, the Imperial Household Agency’s official definition of the trip[23] does not mention it, whereas that for the previous trips to Saipan[24] and Palau[25] clearly stated that purpose.

The highlight of Akihito and Michiko’s trip, at least as shown in its extensive coverage in the Japanese media, was their visit on January 29 to the Japanese Memorial Garden at Cavinti township of Laguna province, built by the Japanese government in 1973 for irei of the approximately 518,000 soldiers who died in the Philippines, one of the biggest Japanese military casualties in all the Asia-Pacific battlefields.[26] The pair presented flowers and bowed, as 170 relatives of the Japanese war dead looked on, some quietly weeping. Though the practice of treating the emperor as a god was halted at the end of WWII as the emperor became only “human” and was redefined as a “symbol” of the nation in the post-war constitution, the fact that many Japanese still revere the emperor was clear in the emotional welcome of Akihito and Michiko by the families of the war dead and those of Japanese descent living in the Philippines. The Inquirer published a report on this event titled, “Demigod image of Japanese emperor remains among followers.”[27]There did not seem to be any resentment in these people’s minds in seeing the son of Hirohito, under whose command their loved ones died. They were among the half million Japanese men, the majority of whom died of starvation and disease.[28]

After the ceremony, Akihito and Michiko spoke to the families of the war dead, offering words of consolation like, “You must have gone through a lot of hardship.”[29] Families expressed their reactions in such phrases as, “My mind is full of emotions,” according to Japanese newspaper reports.[30] This is how the melodrama was created between a “merciful Emperor and Empress” and the families of the war dead and surviving soldiers. Japanese public broadcaster NHK aired the whole event live, as a special program, making it the main event of their visit to the Philippines. The visit was supposed to be about “friendship and goodwill,” but the emperor’s central message was presented as irei of the fallen Japanese soldiers.

There was another group of people who were eagerly awaiting the arrival of Akihito and Michiko, whether they noticed them or not. They were a group of Filipinas who were “comfort women” victims of the Japanese military sex slavery system, and their supporters, about three hundred in all. On January 27, while the pair was visiting the Tomb of the Unknown Soldier at the military cemetery, the lolas (grandmothers) belonging to the group Lila Pilipina and their supporters stood at Chino Roces Bridge in Manila for an hour under blistering sun, “urging President Aquino to tell Emperor Akihito to issue a public apology and give reparation to all ‘comfort women.’”[31]

Lila Pilipina was joined by a women’s group and political party Gabriela, whose representative Luzviminda Ilagan expressed frustration over President Aquino’s neglect of this issue during the emperor’s state visit, creating “an image in media and academe about his pacifism and ‘deep remorse.’” Ilagan said:

“Deep remorse as a personal sentiment by the Emperor will never be accepted by the war victims as official apology. Worse, it could all be a publicity stunt to mask moves by the Japanese Prime Minister Shinzo Abe abetted by US President Barack Obama to remove Japan’s anti-war constitutional provision and boost military missions abroad. Filipinos should be wary and oppose being dragged into another bloody war and another generation of comfort women.”[32]

On January 29, eight women who are members of another survivors’ group Malaya Lolas gathered in front of the Japanese Embassy in Manila and lit candles, while Akihito and Michiko were visiting the memorial for fallen Japanese soldiers.[33]

Did Akihito and Michiko know about these rallies for the former “comfort women”? If they spent so much time in meeting with, and giving “kind words” to the families of the Japanese military members and Japanese Filipinos, should they have not also met with and listened to the voices of those “comfort women” survivors, who were victimized by Japan, and still waiting for the government’s unequivocal apology, state compensation, and inclusion, instead of exclusion, of the history in Japanese school textbooks?

The Inquirer’s editorial addressing the visit echoes this sentiment:

For the generation of Filipinos who witnessed and lived through the atrocities of World War II, the Japanese Emperor’s visit to the Philippines this week is bound to summon painful memories that make forgiveness extremely difficult. The voices of the surviving Filipino “comfort women” who were captured and turned into sex slaves for Japanese soldiers may have been the most persistent. But they are not alone in asking: Is there an obligation to forgive and to forget?

Almost none of these emotions were reported in the mainstream Japanese media, which are known for their adulatory coverage of all matters related to the imperial family.

Ignored “Bataan Death March”

Bataan Peninsula is just about the same distance from Manila as Caliraya is, where the emperor and empress lay flowers at the monument to remember the Japanese war dead. This is where the “Bataan Death March,” which is central to the Filipino collective war memory, took place.

On April 9, 1945, the Japanese Army conquered Bataan, and forced about 76,000 prisoners of war (66,000 Americans, 10,000 Filipinos) to march from the southern tip of Bataan Peninsula to Camp O’Donnell, 11 km west of Capas, about 100 km, for days (partly also traveling by rail, in “cramped and unsanitary boxcars”), during which captives were “beaten, shot, bayoneted, and in many cases, beheaded.” Only 54,000 reached the camp and many who made it eventually died at the camp of starvation and disease.[34]

The Bataan Death March, in violation of international law concerning treatment of POWs, is notorious as one of the events symbolic of Japanese military’s atrocities. For the people of the Philippines, this history is not something that is in the past and forgotten. Indeed, a marathon, called the “Bataan Death March 102/160 Ultra Marathon Race,” dedicated to this history, is held every year.[35] This year, the 102 km ultra marathon started on January 30, the day Akihito and Michiko left the country. Was this just a coincidence?

There are many monuments along the route of the Bataan Death March to commemorate the suffering and perseverance of the POWs. If the Japanese emperor and empress’s intent was to “irei also for the Filipino war victims,” not just Japanese war dead, should they have not also gone to Bataan and presented flowers for the victims of the deadly march well-known in the Philippines and internationally?

And what about the American POWs? In fact, after a brief mention of the loss of American lives in his speech at Haneda Airport upon embarkation, Akihito did not acknowledge the American casualties or the abuse of POWs at all for the entire stay in the Philippines. Another form of selectivity in his irei was total exclusion of the thousands of Filipino resistance guerilla fighters who fought the Japanese Army throughout the occupation period. Akihito’s emphasis in his referral to the Filipino casualties were the “innocent civilians.”

There is a commonality between the sexual slavery survivors, whom Akihito and Michiko did not meet, and the memorials of “Bataan” and the “Battle of Manila” that the pair did not visit. It lies in the fact that they are symbolic of the war atrocities committed by the Empire of Japan. Would it be too much to suggest that the intent behind the emperor and empress’ trip was to evade Japan’s war responsibilities rather than face them?

How did the Japanese media report this trip? The newspapers quoted words of yearning from the war bereaved, former Japanese soldiers, and Japanese Filipinos. The media reports also stressed the “words of consideration” from the couple toward those from Japan and of Japanese descent. The politically moderate Asahi Shimbun editorial of January 29 noted, “The royal couple went all the way to the sites where fierce battles took place to show their wish for peace. We would like to share their feelings and thoughts.” Left-leaning Tokyo Shimbun’s editorial of January 26 said, “We would like to share the emperor and empress’s wish for peace conveyed by their numerous precious words.” Right-leaning Yomiuri Shimbun, the biggest national paper in the world, summarized the royal couple’s visit in its January 31 editorial that the way the emperor and empress sincerely face the history of the past war “must have made a strong impression on the minds of the people of the Philippines.”

A common feature of these commentaries across the political spectrum is a new kind of nationalism that attempts to mobilize Japanese nationals (kokumin) under the imperial couple – a nationalism that hides Japan’s responsibility for its aggressive war and aims to unite Japanese nationals under such a distorted “history.”

4. Emperor and empress’s “irei trip” is a forerunner for Abe-led constitutional revision

Prime Minister Abe made clear that he would make constitutional revision a main issue in the upcoming Upper House election (July 2016) and seek to amend the Constitution following the election. In short, the imperial couple’s trip to the Philippines for irei of the war dead was a forerunner of constitutional revision.

a)    Expansion of the emperor’s “public acts” stipulated in the constitution

The “imperial diplomacy” by the emperor and the empress is not included in the “acts in matters of state” allowed for the emperor in the current constitution.[36] The government has attempted to justify “imperial diplomacy” arguing that these are the emperor’s “public acts”. In the absence of any constitutional stipulation for such acts, an attempt was clearly being made to expand the emperor’s authority.

The Liberal Democratic Party thus attempts to add a clause to the current Article 7 of the constitution that stipulates “acts in matters of state.” In their “Draft of Revision, the Constitution of Japan” (issued on April 27, 2012), they have added a clause (in their draft, the 5th clause of Article 6), “…the Emperor shall perform public acts such as ceremonies held by the state, local public entities and other public entities”[37] LDP’s Q & A page for its constitutional revision draft explains this clause, “Some acts of the Emperor have a public nature. However, the current constitution has no provision for such public acts by the Emperor. This was why it was deemed necessary to have clear constitutional stipulation for such public acts.”

b)    Danger of making state religious activities constitutional

This article has shown that acts of irei for the war dead have strong religious connotations. This means that irei trips by the emperor and the empress may infringe Clause 3, Article 20 of the current constitution, “The State and its organs shall refrain from religious education or any other religious activity.” This is why the LDP draft for constitutional revision adds to the same clause, “…however, this does not necessarily apply to activities that do not exceed the scope of social rituals and customary acts.” If the constitution is revised as the LDP wishes, ireitrips by the emperor and the empress may be regarded as one of the “social rituals,” paving the way for making public religious acts by “the State and its organs,” including the emperor and the other imperial family members, constitutional.

c)     Setting the stage for making the emperor “Head of State”

In this visit, the Japanese emperor and empress were “state guests,” and the emperor even reviewed the Philippines’ guard of honour with President Aquino, in the state-sponsored welcome ceremony on January 27.[38] Emperor Akihito was precisely treated as “Head of State” throughout the trip. This is also exactly how the LDP envisions the new role of the emperor, by defining him as “Head of State” in its constitutional revision draft, a fundamental change from the “symbol of the State and of the unity of the People” in the current post-war constitution. The current definition was a departure from the constitution of the Empire of Japan (the Meiji Constitution) that defined the Emperor as “the head of the Empire,” “sacred and inviolable.”[39] De facto treatment of the emperor as “head of state” such as one seen in the Philippines visit paves the way to officially redefining the emperor one step closer to the pre-1945 definition.

This is how the emperor and the empress’ irei trip plays a political role in Abe’s and the LDP’s planned constitutional revision. It is all the more important that political use of the emperor in coordination with the move for constitutional revision be critically examined, particularly given the Japanese media’s virtual gag order on any matter related to the imperial family. Some liberal-minded Japanese pundits praise the “peace-loving” emperor to counteract Abe’s warmongering and undemocratic policymaking, but this is also a dangerous utilization of the person who is a mere “symbol”, someone who is constitutionally barred from being given any authority over the people of Japan, in whom sovereignty resides.

Satoko Oka Norimatsu translated, and expanded Kihara Satoru’s four-part article on the Japanese imperial couple’s visit to the Philippines in collaboration with Kihara. The article was posted in Kihara’s blog Ari no hitokoto(“A Word from an Ant”) onJanuary 23, February 1, February 2, and February 4.

Kihara Satoru, born in Hiroshima in 1953, is a freelance writer. He was staff writer for Japan Communist Party’s newspaper Shimbun Akahata, an evening paper, and a local newspaper. He lives in Fukuyama City, Hiroshima.

Satoko Oka Norimatsu is an Asia-Pacific Journal: Japan Focus editor, Director of Peace Philosophy Centre(Vancouver, Canada), and co-author of Resistant Islands: Okinawa Confronts Japan and the United States, Rowman & Littlefield, 2012.

Recommended citation: Kihara Satoru and Satoko Oka Norimatsu, “Political Agenda Behind the Japanese Emperor and Empress’ ‘Irei’ Visit to the Philippines”, The Asia-Pacific Journal, Vol. 14, Issue 5, No. 4, March 1, 2016.

Notes

 

[1] “Firipin gohomon,” The Imperial Household Agency, December 4, 2015. http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h27philippines/eev-h27-philippines.html

[2] For example, in Mainichi Shimbun’s “Emperor’s wishes to mourn war dead behind swift reciprocal visit to Philippines,” January 27, 2016. http://mainichi.jp/english/articles/20160127/p2a/00m/0na/022000c

[3] Shintani Takanori, “Minzoku gaku kara miru irei to tsuito,” Meiji Shotoku kinen gakkai kiyo, vol. 44, November 2007, pp. 178-180. http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f44-14.pdf

[4] Ibid.

[5] “Remarks by President Obama After Touring the BRP Gregorio del Pilar,” The White House, November 17, 2015. https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2015/11/17/remarks-president-obama-after-touring-brp-gregorio-del-pilar

[6] “U.S. raises military aid to PH amid sea tension with China,” CNN Philippines, November 26, 2015. http://cnnphilippines.com/news/2015/11/26/Unites-States-Philippines-China-military-aid.html

[7] “Philippines offers eight bases to U.S. under new military deal,” Reuters, January 13, 2016. http://www.reuters.com/article/us-philippines-usa-bases-idUSKCN0UR17K20160113

[8] “Philippine Supreme Court Approves Return of U.S. Troops,” The New York Times, January 12, 2016.

http://www.nytimes.com/2016/01/13/world/asia/philippines-us-military.html?_r=0

[9] “Remarks With Secretary of Defense Ash Carter with Filipino Secretary of Foreign Affairs Albert del Rosario and Secretary of Defense Voltaire Gazmin,” US Department of State, http://www.state.gov/secretary/remarks/2016/01/251126.htm

[10] “Philippines offers.”

[11] “South China Sea ruling in Hague could be mid-2016 – Philippines lawyer,” Reuters, October 30, 2015. http://uk.reuters.com/article/uk-philippines-china-arbitration-lawyer-idUKKCN0SO2T420151030

[12]“Japan-Philippines Summit Meeting,” Ministry of Foreign Affairs of Japan, July 27, 2015. http://www.mofa.go.jp/region/page6e_000121.html

[13] “Japanese defense minister to visit Philippines as early as April in bid to boost security ties,” The Japan Times, January 5, 2016

http://www.japantimes.co.jp/news/2016/01/05/national/defense-minister-visit-philippines-early-april/#.VsTWnPLhDWI

[14] “Remarks by His Majesty the Emperor at the State Banquet in Honour of His Excellency Mr. Benigno Aquino III President of the Republic of the Philippines,” The Imperial Household Agency, June 3, 2015. http://www.kunaicho.go.jp/e-okotoba/01/address/okotoba-h27e.html#0603

[15] “Emperor Akihito honors Japanese war dead in Philippines,”The Philippine Star, January 29, 2016. http://www.philstar.com/headlines/2016/01/29/1547615/emperor-akihito-honors-japanese-war-dead-philippines

[16] Ibid.

[17] “Remarks by His Majesty the Emperor of Japan at the State Banquet in Honour of Their Majesties at the Malacañang Palace,” The Imperial Household Agency, January 27, 2016. http://www.kunaicho.go.jp/e-okotoba/01/address/speech-h28e.html#280127

[18] A photo of Akihito and Michiko presenting flowers at Jose Rizal Monument is at the Mainichi Shimbun website. http://mainichi.jp/graphs/20160127/hpj/00m/040/002000g/4

[19] Translator was unable to find the original source. This is a reverse translation of the Japanese translation of Romulo’s words that appear in Wakamiya Yoshibumi, Sengo 70nen – Hoshu no ajia kan, Asahi Shimbun Shuppan, 2014, pp. 174-5.

[20] “Ryo heika, Mumei senshi no haka de 2 funkan hairei – firipin gawa no irei,” Asahi Shimbun, January 27, 2016. http://digital.asahi.com/articles/ASJ1N2RNTJ1NUTIL00B.html?rm=495

[21] “Briefer: Memorare Manila 1945 Monument,” Republic of the Philippines Presidential Museum and Library. http://malacanang.gov.ph/75085-briefer-memorare-manila-1945-monument/

[22] “Memorare-Manila 1945,” The Historical Marker Database http://www.hmdb.org/marker.asp?MarkerID=25517

[23] “Firipin gohomon, heisei 28 nen,” The Imerial Household Agency, December 4, 2015.

http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h27philippines/eev-h27-philippines.html

[24] “Amerika gasshukoku jichiryo kita Mariana shoto Saipan to gohomon, heisei 17 nen,” The Imperial Household Agency, April 26, 2005.

http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h17america/eev-h17-america.html

[25] “Parao gohomon, heisei 27 nen,” The Imperial Household Agency, January 23, 2015.

http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h27palau/eev-h27-palau.html

[26] “Suji wa shogen suru – deta de miru taiheiyo senso,” Mainichi Shimbun, http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data1.html

[27] “Demigod image of Japanese emperor remains among followers,”The Inquirer, January 30, 2016. http://globalnation.inquirer.net/135873/demigod-image-of-japanese-emperor-remains-among-followers

[28] “Suji wa”

[29] “Ryo heika, firipin de irei hatasu – Namida no izoku ni itawari no kotoba,” Kyodo News, January 29, 2016 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016012901001415.html

[30] “71 nen machiwabita irei – Ryo heika, Hi de senbotsusha kyoka,” Tokyo Shimbun, January 30, 2016. http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201601/CK2016013002000125.html

[31] “‘Comfort women’ want Japan’s apology, not VFA,” Bulatlat, January 28, 2016. http://bulatlat.com/main/2016/01/28/comfort-women-want-japans-apology-not-vfa/

[32] Ibid.

[33] “Filipino ‘comfort women’ call for Emperor’s help in seeking redress,” The Japan Times, January 29, 2016. http://www.japantimes.co.jp/news/2016/01/29/national/filipino-comfort-women-call-emperors-help-seeking-redress/#.Vs-LVJzhDWI

[34] “Bataan Death March,” Encyclopaedia Britannica. http://www.britannica.com/event/Bataan-Death-March

[35] “Bataan Death March 102/160 Ultra Marathon Race” Facebook

https://www.facebook.com/Bataan-Death-March-102160-Ultra-Marathon-Race-172130766206034/

[36] The Constitution of Japan. http://japan.kantei.go.jp/constitution_and_government_of_japan/constitution_e.html

[37] “Nihonkoku Kenpo Kaisei Soan,” Jiyu Minshuto, April 27, 2012. https://www.jimin.jp/policy/policy_topics/pdf/seisaku-109.pdf

[38] “Philippine leader welcomes Japan’s emperor as ties blossom,” Daily Mail Online, January 27, 2016. http://www.dailymail.co.uk/wires/ap/article-3418660/Philippine-leader-gives-red-carpet-welcome-Japan-emperor.html

[39] The Constitution of the Empire of Japan. http://www.ndl.go.jp/constitution/e/etc/c02.html#s1

「護憲派」の皇太子発言賛美にひと言

Posted: 28 Feb 2016 12:50 PM PST

ツイッターフェースブックでつぶやいたことを転載します。

日本の多くの護憲「リベラル」が皇太子の誕生日会見の「護憲」発言とやらを絶賛しそれを大手メディアが報道しなかったとか言って怒っている。何か勘違いしていないか。皇室のメンバーが憲法を遵守するのは憲法で定められた当たり前のことであるし、そもそも皇太子は会見で「憲法」に触れていない。

昨年の戦後70年に言及したこの部分

「私自身も,雅子と愛子と一緒に,7月そして8月に,戦後70年に関連した特別企画展などを訪れました。そこでは,戦争の記憶を風化させることなく,次の世代,さらにその次の世代に語り継いでいくべく,様々な展示や講演などが行われておりましたが,改めて過去の歴史を学び,戦争に至った背景や,戦時中の惨禍,戦後の荒廃から立ち直る上での人々の並々ならぬ努力についての理解を深め,そして平和の意義について真摯に考えるよい機会となりました。」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h28az.html 

について言っているのなら、それはその通り、戦争の歴史を学び平和を真摯に考えている、と言っているのであってそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。日本の「護憲」派が、天皇や皇室のメンバーを持ち上げて安倍に対抗しようとしているのだったらそれこそ違憲的行為である。勘違いもはなはだしい。

天皇は国民の象徴に過ぎず国民の上に立つものではない。これが戦争の教訓にもとづいて戦後日本が採用した日本国憲法の根幹「主権在民」の鉄則である。これらの「護憲」派は天皇や皇室を持ち上げることによって、天皇を改憲で「元首」としようとしている自民党に加勢している。

「護憲」派は、皇室の力などそもそもあってはいけないものを借りようとせず、主権が存在する自らの責任と自らの力において憲法を守り、違法、違憲の「安保法制」廃案に向けて努力すべきである。

@PeacePhilosophy 

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