須田稔さま
堀伸夫さま
横から失礼いたします。
「佞儒」は、私にとりましては全く初めて見る字で、勿論読み方も知りませんでした。
でも「ねいじゅ」と読むとのことで、新潮日本語漢字辞典(新潮社)を調べてみました。
ここには「佞悪」「佞臣」など8つほど載っておりましたが「佞儒」はありません。
念のためと思いインターネットを覗いてみました。
ごく始めの所に「家永三郎氏の告白ーー「戦争責任」はしがきより」という項目がありました。
開いてみましたら、家永三郎氏が文の中に「佞儒」を使っておられました。
下は、そこからの一部の引用です。
《今、過去の自分の書いた文章を遡って読み返えしてみると、1953年7月発行の歌誌『形成』に寄せた「学問をする者のよろこびと苦しみ」と題する一文中の、
ある、偉い学者が、学問をする者は腐儒になる位の心がけでなければならぬ、と云われたそうである。あまりに佞儒(ねいじゅ)のみ多い日本では、腐儒になることさえが一つのレジスタンスでもあろう。しかし社会が不幸なる方向に向ってころげ落ちようとするのを外(よそ)にみて、自分の専門のしごとがあるとすましているのが、果して学問をする者のとるべき態度であろうか。太平洋戦争の間、私は腐儒となることによって佞儒となることを免れた。私は、今になって自分が消極的な意味での戦争犯罪人ーー戦争を防止するための義務を怠った不作為の犯罪えみまし人であったとの自責の念に堪えない。私は今度こそはその後悔を二度としたくはないと思う。同胞を破滅への道に駆りたてる力に向って、私たちは敢然と立ち向わなければならぬ、と思う。》
ついでにここに出てくる「腐儒」について、新潮日本語漢字辞典ですぐに調べることが出来ました。
けっきょく、家永氏の文と「腐儒」の意味から「佞儒」を推し量る事しか出来ませんでした。
田中利幸氏は恐らく家永氏の「戦争責任」で、この語に出会ったのではないかと推測しました。
いずれにしろ昔は使う人もいたようですが、今は辞書からも消えている・・・というのはおかしいですね、それなら辞書にあるはずです。あるいは家永氏の造語?
尚、思いがけず家永氏が戦争責任についてどのように考えていたかに出合い、深く考えさせられるチャンスでした。
失礼いたしました。
木村宥子
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コメント:「社会が不幸なる方向に向ってころげ落ちようとするのを外(よそ)にみて、自分の専門のしごとがあるとすましているのが、果して学問をする者のとるべき態度であろうか」の「学問をする者」に何を入れても通ずるのではないか? 真理・倫理は切り離せない!!! 真理が曲げられている時に知らぬ顔はできない倫理!!!!!
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佞儒 – Google 書籍検索
木村先生
堀伸夫です。
原発推進の佞儒、新9条改正論の佞儒が平和学者を名乗る時代にぴったりの言葉ですね。
たくさん書籍にも使われていますね。
亡父が漢文の専門家でしたからそういう辞書は家の中にありますが、イベントが終わるまでは忙しく、夜勤で働く無学な派遣社員なもので調べる気力がありません。
8月7日広島市の三篠公民館での被ばくの歴史を学び学問の自由を守る平和研問題全国研究集会で「ヒロシマナガサキ」にはびこる佞儒について深められたらと思います。
是非ともご参加いただきますようよろしくお願いいたします。
MLホームページ: http://www.freeml.com/abolition-japan