がある。そして、いずれの場合であれ、他者を害したことについては責任を負うのが当
然である。とはいえ、行動をしなかった場合については、強制的に責任を負わせること
には、やや慎重でなければなるまい。-自由論
他者に害を与えたら責任を問われる。これは世間一般で通用する規則である。一方、害
を防ぐ行動をしなかったために責任を問われるのは、どちらかといえば例外だ。しかし
、こうした例外を認めてもよいほどに、責任が明瞭でかつ重大なケースもたくさんある
。-自由論
人は、他者と関係するあらゆる場面において、そのすべての関係者にたいし、また、必
要であれば全体の保護者としての社会にたいし、理屈の上では責任があるのだ。-自由
論
責任を問わないでおくのが適切である場合もしばしばあるが、その場合はそうしたほう
が社会にとって特に都合がよいという理由がなければならない。-自由論
すなわち、社会が個人を力ずくで統制するよりも、個人の自由裁量にまかせたほうが、
その人の行動が全体として良くなる場合とか、もしくは社会が害悪を防止しようとして
統制に乗り出せば、また新たな害悪が生じ、しかもそれが元の害悪よりも大きいような
場合である。-自由論
社会が個人にたいして、せいぜいのところ間接的にしか関与できない活動の領域がある
。個人の私生活と私的な行為の部分である。それは自分にしか影響を与えず、また、か
りに他者にも影響を与える場合には相手もきちんとした情報にもとづいて自由かつ自発
的に同意し、関与している分野である。-自由論
自分にしか影響を与えない、というのは、自分がまず最初に直接的に影響をこうむるこ
とを意味するに過ぎない。なぜなら、自分に影響を与えれば、自分をとおして他者にも
影響を与えることがあるかもしれないからである。-自由論
自分にしか影響を与えない部分こそが、人間の自由の固有の領域なのである。-自由論
自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨
害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追求する自由であ
る。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。
-自由論
人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに
認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。-自由論
社会は、ひとびとが優れた社会性のみならず、優れた人間性とされるものを身につける
よう、(その社会の文明度に応じて)強制する努力をしてきた。古代の共和国は、個人
の私的行為を国が上からの権限でことごとく統制できると考えてきたし、古代の哲学者
たちもそれを是認してきた。-自由論
市民ひとりひとりの身体および精神を鍛錬することは、国家の重大な関心事だったのだ
。(略)短期間でも気力や自制心をゆるめればたちまち命にかかわるところでは、すぐ
にはあらわれない自由の長期的な効能をのんびり待つわけにはいかなかったからだ。-
自由論
支配者はもちろん、同じ市民の立場であっても、人間は自分の意見や好みを、行動のル
ールとしておしつけたがるものだ。この性向は、人間の本性に付随する感情の最良の部
分と、そして最悪の部分とによって、きわめて強く支えられているので、それを抑制す
るには権力を弱めるしかない。-自由論
人間の良識にとって不幸なことに、人間は間違いを犯すものであるという事実が、理論
上ではかならず重視されても、じっさいの場面においてはほとんど軽視される。-自由
論
誰でも自分は間違えることがあると知っているのに、そのことをつねに心にとめておか
ねばと考える人はほとんどいない。自分も間違えることがあるとわかっていても、自分
にとってかなり確実と思える意見がその一例かもしれぬと疑う人はごく少ない。-自由
論
時代というものもまた個人と同じくらい間違いを犯す。それは山ほど証拠があるし、ほ
とんど自明のことである。どの時代にも、後の時代から見れば間違った意見、馬鹿げた
意見がたくさんあった。-自由論
政府は自分の判断と責任において、さまざまなことを実行するが、それは絶対に間違っ
ていないとの想定に立つものではない。間違った意見の流布を禁ずる場合も同様で、自
分は絶対に間違わないとの想定に立つものではない。人間に判断力が与えられているの
は、それを使ってもよいからである。-自由論
有害だと判断したものを禁止するのは、自分は間違っていないと主張することではない
。間違っている可能性はあっても、良心と確信にもとづく行動を自分の義務として果た
すことなのである。-自由論
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