東京電力の株主が原発事故を招いた旧経営陣に対し、会社に損害を賠償するよう求めた訴訟が大きなヤマ場を迎えている。

焦点は、政府の事故調査・検証委員会が関係者から聞きとりをして作った調書の扱いだ。

株主側が裁判の証拠にしたいと申し立てた。政府は、責任追及に使わない前提で聴取したこと、同意を得たものは一部黒塗りをして既に公開していることをあげ、これ以上の開示は政府の仕事に「著しい支障」が出ると反対している。

東京地裁は黒塗りされる前の調書を裁判官だけで見て、この言い分に理があるかどうかを判断することになった。

政府の主張で事足れりとせずに、中身を見極めたうえで提出を命じるか否かを決めようという姿勢は評価できる。公正な裁判を実現するには必要かつ十分な証拠がそろうことが肝要だ。

理解できないのは、一部の東電関係者や官僚の調書について、存在するかどうかすら明らかにしないという政府の態度である。聴取に応じたと知られるだけで、嫌がらせや報復をうける可能性があるという。

「調書はあるが本人が開示を了承しない」といった説明ならともかく、こんな抽象的な恐れを言いたてて、いったい何を守ろうとしているのか。

原発事故をめぐっては、ほかにも腑(ふ)に落ちない話が多い。

当時、国会にも民間人でつくる事故調がおかれた。報告書は作られたものの、集めた記録類を公開する動きは止まったままだ。国会に第三者機関を設け、引き続き原発をめぐる諸問題の調査・検討にあたるべきだという提言も宙に浮いている。

事故を繰り返さないために、しっかり総括をしなければならないという、発生直後の危機意識や責任感は薄れ、情報を囲いこみ、議論を再燃させる動きは封じる。そんな方向に政府も国会も流れている。だがそれは、原発政策に対する国民の不信と不安を深めるだけだ。

改めて思うのは、原発に限らず、さまざまな事象が重なって大きな事故が起きたとき、原因の究明・共有と責任の追及を両立させる難しさである。

責任を問わないかわりに調査に協力させ、再発防止を図るという考えが唱えられて久しい。政府事故調もその方針にたって究明にとり組んだが、作業を終えた後、裁判や自治体の独自検証によって新たな事実が判明するなどの限界を露呈した。

どんなしくみをつくり、実効をあげるか。これもまた、社会に課せられた重い宿題である。