Global Ethics


「差別の島」でハンセン病と闘う by limitlesslife
November 27, 2016, 1:02 am
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キーパーソンインタビュー
「差別の島」でハンセン病と闘う
フィリピン人医師のクナナンさん
毎日新聞 2015年2月19日

フィリピン全土からハンセン病患者が集められ、かつて「世界最大のハンセン病隔離
施設」とされたクリオン島。施設は米統治下の20世紀初頭に設置されたものだが、現
在も島民のほとんどは元患者や子孫、医療関係者らだ。ハンセン病の差別撤廃を訴える
ため、1月に日本で初開催された「第10回グローバル・アピール」のため来日したク
リオンハンセン病療養所・総合病院長のアルトゥロ・クナナン医師(56)に、差別の
歴史を繰り返さないために大切なことを聞いた。【聞き手・垂水友里香】

??クリオン島で生まれ育ったのですか。

クナナンさん ハンセン病だった母方の祖父母がこの島に隔離され、母が生まれました
。マニラ出身の父は同じようにハンセン病を患い、島に隔離された姉妹を訪ねてクリオ
ンを訪れ母と出会いました。2人はクリオンで結婚し、私が生まれました。

??当時、ハンセン病患者は出産すると、赤ちゃんから引き離されたそうですね。

クナナンさん ハンセン病である両親から生まれた私の母も、生後すぐ隔離されそうに
なりましたが、ちょうど同じ頃、母が行く予定だったクリオン島内の保育園でポリオが
まん延したため隔離されずに済んだのでした。

??クリオン島での生活について教えてください。

クナナンさん 私が生まれたのは1958年です。当時、島は患者が生活する「汚染地
帯」と呼ばれるエリアと、健康な人が暮らす「清潔地帯」と呼ばれるエリアに完全に分
けられていました。そのため、学校や教会、墓地に至るまですべて別でした。

とはいえ、あちらこちらに患者がいて島全体が病院のような感じ。家を一歩出ると、
学校の先生がハンセン病、道で行き交う人や、子供で発症している人もいる。教会でも
そうです。ハンセン病の人に囲まれて育ちました。そうした環境の中で、高校卒業まで
クリオン島で過ごしました。島には、キリスト教・イエズス会がやっているハンセン病
の両親から生まれた子供たちのための学校があり、どんどん子供たちが増えていました

私が生まれた頃にはすでに治療法は確立されていましたが、島が作られたコンセプト
が隔離するためだったため、隔離が廃止されることはありませんでした。

※「不治の病」といわれたハンセン病に対して、1943年には米医師がプロミン(ス
ルフォン剤)の有効性を報告。81年には、世界保健機関(WHO)が複数の薬を併用
する新しい治療法「多剤併用療法」(MDT)を推奨し効果的な治療が確立されていた

貧しくても医師になる夢があった

??医師を志したのは自然な流れだったのですか。

クナナンさん 私の周りは病気の人ばかりでしたし、ハンセン病の祖母と一緒に暮らし
ていました。小さい頃から「どうやったらこうした人たちを助けることができるのか」
「苦しんでいる人を助けたい」と思っていました。ですから、夢として心の中では「医
師になりたい」と思っていました。ですが、私たち一家はあまりに貧しく、こういった
夢を口に出せません。ほとんど不可能だと思っていました。そういう思いを抱いていた
のは私だけでなく、同級生たちも同じでした。

??高校卒業後、マニラで大学に進学したいと両親を説得したのですね。

クナナンさん 「自分の運命を切り開きたい」と両親にマニラに行かせてほしいと頼み
ました。母は裁縫、父は大工、漁師、肉体労働、ペンキ塗りと何でもやりましたが、私
たち一家の生活はとても貧しいものでした。ですが、両親は私をマニラの学校に進学さ
せるため、裏庭で飼っていたブタを売りに出すなどしてマニラまでの船賃を工面してく
れました。それは私たち一家の1カ月分に相当するほどの大金でした。そして苦労はし
ましたが、奨学金を得ることもできました。まさに「プア・リビング、ビッグドリーム
ズ(貧しくても大きな夢)」がありました。

??島の子供たちの中でそうした機会を得られる人は一握りだったのでは。

クナナンさん キリスト教では、島の人たちのために働く教師や神父、修道女を育成す
るため奨学金で、子供たちの大学進学を援助していました。ですが、それもとても限ら
れていました。

??大学に通うため、親戚を頼ったそうですね。

クナナンさん 親戚宅に住まわせてもらい、奨学金を得てまずは4年制の医療技術を学
ぶマニラの聖トマス大学に通いました。その後、5年間の同じ大学の医学部に進みまし
た。家の手伝いをし、休暇にはアルバイトをしていました。

??離島のクリオン島での生活から一転、大都市マニラでの生活に順応するのには苦労
したのでは。

クナナンさん マニラの生活はクリオンと大きく違っており、適応するのはとても大変
でした。多くのクリオン出身の学生は、差別を恐れ、出身地を隠します。私はそうしま
せんでした。クリオン出身だということが恥ずかしいことだとは思わなかったからです
。そして出身地を言い続けることで、ある可能性を開くことができると思っていました

マニラの人はクリオン島について、ハンセン病にまつわるさまざまなイメージを持っ
ています。医学部は私一人にだけ、ハンセン病に罹患(りかん)していない証明証の提
出を求めました。クラスメートたちからは、冗談で「クリオン出身なのに目もあるね、
鼻もあるね」といわれました。クリオン出身だとどこかが欠けていたり、障害があった
りすると思われていたわけですね。私は自分がクリオン出身だといい続けることで、話
し合えるアドボカシー(権利の擁護)のチャンスだと思いました。

外科医を断念してクリオン島に戻る

??医師になってすぐにクリオン島に戻ったのですか。

クナナンさん 外科医になるための研修プログラムに入るところでした。当時私には、
大きな夢があり、外科医になって整形手術などで、鼻がない人や目がない人をきちんと
治して、その人たちの悲しみやスティグマ(社会的烙印=らくいん)から解放してあげ
たいと思っていました。

ところが同じ頃、クリオン財団を設立した人が訪ねてきて、ドーナツ店で話したんで
すけど、「新薬ができたので、治療する医師が必要だ」と言われました。私は彼にちょ
うど外科医の研修が始まるところなんだといいましたが、彼が私にいった言葉が私が島
に帰る決め手となりました。

「君はクリオン出身だね。クリオン出身者がきちんとクリオンの人のために働かなか
ったら、出身でない人がどうしてクリオンのために手を貸してくれるんだ」

私は家に帰り、彼に言われた言葉を反すうしました。研修を受けて外科医になるとい
う選択肢もありましたが、外科医になるためにはまだ時間がかかります。でも今すぐ島
に帰れば、とくに子供たちが罹患するのを防ぐことができる、障害を持たなくて済むだ
ろうと考えたんです。そして86年、28歳でハンセン病専門医としてクリオン島に帰
りました。

※WHOが81年に多剤併用療法を推奨し、クリオン島では他地域に先駆けて導入され
た。フィリピン全体での導入は88年になる。

??どんな気持ちで故郷に戻ったのですか。

クナナンさん 私はとにかく「この島でハンセン病をしっかりコントロールしないとい
けない」。そういう熱意を持っていました。そうすればクリオンのイメージも変わりま
す。

そのためには高齢患者の治療をしないといけない。そうすれば感染率も下がりますか
ら。そうした患者を見つけに島から島に行ったり、山奥まで行ったり、家を一軒一軒訪
ねたり学校で子供たちを診察したりということがあり、やっと成功したのです。

一番重要なことは、高齢者がハンセン病で陽性だった場合は必ず治療しなくちゃいけ
ない。なぜかというと、クリオンの人たちは周り中が患者なので、自分がハンセン病に
なったら子供もなるのが普通のことだと思っていたのです。私どもは、ハンセン病にな
ることは普通のことじゃないと何度もいいました。

高齢患者の説得は困難を極めた

??制圧プロジェクトはどのように進んだのですか。

クナナンさん 医師である私の他、看護師や歯科医、研究者、地域の啓蒙(けいもう)
活動家など10人ほどのチームで、患者1000人以上を治療しました。最も重要なの
は、高齢の患者に新しい治療を受けてもらうことでした。

彼らはもう何十年も前から隔離されており、障害があって、今までさまざまな治療を
受けてきたがうまくいかなかった。なので「もうすでに目が見えないのに、なんで新た
な治療をしなくちゃいけないのか」。そういう抵抗があったわけです。

説得は困難を極めました。「あなたには子供がいる。孫もいる。あなたが治療を受け
れば子供や孫への感染を防げます。子供や孫にあなたと同じような苦しみを味わわせた
いんですか。今は完治する治療薬があります。あなたの視力や手は回復しないかもしれ
ないけれども、孫たちにはそれが防げます」。そう語りかけました。

歴史と記憶をこれからも伝えていく

??フィリピンでハンセン病制圧に成功したのはいつですか。

クナナンさん 10年以上かかって1998年になります。その時は何も感じませんで
した。しかしその後、次に何をしたらいいのかということを考えるようになりました。
ハンセン病の発症率が下がって、その後にすべきことは歴史を保存していくことだと思
いました。今までの患者さんの人権やアイデンティティー(人格)、そういうものを伝
えていかなくてはならないだろうと。

クリオン島では1995年に初の地方自治選挙が行われ、地方自治体入りしました。
歴史や記憶はこれからもつないで、これからの人のエンパワーメント(活力)にしてい
かなくてはいけないですね。

※フィリピンでは64年に隔離が廃止されたが、日本では大幅に遅れた。96年に「ら
い予防法」が廃止され、2001年には予防法を違憲とする熊本地裁での国賠訴訟で原
告が勝訴し、国は控訴せず患者らに謝罪した。

クナナンさん 日本のように先進国で、ハンセン病研究で大きな貢献をしている国がこ
ういった状況なのは悲しい。治療で治る病気にも関わらず隔離政策が続けられ、らい予
防法の廃止が遅れたのは、長い間人々が沈黙していたせいだと思う。マスコミも教師も
弁護士も同じで、アドボカシーをしてこなかった。この隔離を中止してもいいのだとい
うことを訴えなかった。人権違反をしているという状況を克服しなかった。

国賠(訴訟)はそれ自体よりも、ハンセン病の人が自分たちの権利に目覚めて一致団
結できるんだという意識を持てたことが重要だと思います。マスコミには、今やってい
ることをもっと前にやってほしかった。

??06年には、クリオンの隔離と苦難の歴史を伝える資料館の設立や、1月に日本で
初開催されたハンセン病の差別撤廃を呼びかける「グローバル・アピール」で講演する
などの活動を続けられています。負の歴史を繰り返さないためには、どうしたらいいで
しょうか。

クナナンさん 歴史と記憶をこれからも伝えていくことだと思います。これからも誤っ
た情報によって政策が決まり、ハンセン病の患者が苦しんだような差別やスティグマを
絶対に繰り返さないということ。このような歴史や記憶をしっかりと政策立案者が学ぶ
ことで、人々が同じような差別に苦しまないようにすることが重要だと思います。

最後にこれらの記録をお願いします。私たちの活動を支援してくださる日本財団への
感謝と、「グローバルアピール」をぜひ継続してほしいと思っています。

http://mainichi.jp/articles/20150218/mog/00m/040/006000c

MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace

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