東京電力福島第一原発の事故原因の検証も不完全なまま、各地の原発の再稼働に向けた動きが進む。廃炉除染など事故処理費の試算は倍増となった。事故後、世界最大級の柏崎刈羽原発がある新潟県の知事を務めた泉田裕彦さんに、東電や原子力防災との向き合い方、4選出馬を突然取りやめた判断などを聞いた。

――地震ログイン前の続きと原発への対応に追われた知事在任中、東京電力に対して厳しい姿勢でした。

「2004年10月、知事就任の30時間前に新潟県中越地震が起きました。県庁に駆けつけたあと避難所の体育館へ行き、携帯で東電柏崎刈羽原発に電話し被害がないことを確認しました。就任以来、地震と原発に追われ続けました」

「原発震災への備えが不十分だと最初に感じたのは、07年7月の新潟県中越沖地震のときです。炎があがる現場を中継していたテレビの映像をみて柏崎刈羽原発の異常に気づきました。敷地内で最大1・5メートルの段差が生じ、3号機の変圧器で火災が起きていたのです。原発には、県庁と結ぶホットラインはあったのですが、設置してある原発内の建物がゆがみドアが開かなくなり、使えませんでした。原発震災による事故が起きたのは新潟県が世界で初めてです」

――原発震災を体験しながらも、09年5月には柏崎刈羽原発再稼働の容認を表明しましたね。

柏崎刈羽原発では大量の放射能漏れはありませんでしたが、再稼働について、賛成と反対の両方の意見が多数寄せられていました。再稼働の妥当性について検討した県の技術委員会の報告を受け、『おおむね安全性は確保されている』と受け止めたので、再稼働を認めました」

「ただ、地震があったときに連絡が取れないようなトラブルなど、中越沖地震で明らかになった問題点の改善を強く主張しました。だからこそ、原発内で緊急対応できる免震重要棟の建設と消防車の配備が実現したのです。免震重要棟は、福島第一原発でも東日本大震災の8カ月前に完成していました。これが、原発事故の命綱となったことで、東日本の壊滅という最悪の事態が回避できた可能性があります」

――11年3月の福島第一原発事故をどう受け止めましたか。

「震災の当日、原発周辺にある放射線量を測定するモニタリングポストが停電のため稼働していない、と福島県からSOSがありました。県職員を派遣すると被曝(ひばく)する恐れがあります。苦悩した末に『絶対強制しない』という条件つきで、行ってもいいという職員に移動モニタリングカーで福島へ入ってもらいました」

「新潟に避難する被災者もいました。新潟にはロシア、中国、韓国の3総領事館があります。新潟県民が避難する事態も視野に入れざるを得ない状況で、各国から受け入れ申し出が実際ありました」

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――そうした体験が東電に対する厳しい態度になったのですか。

「東電に不信感を持ったのは、メルトダウン炉心溶融)の問題で、原発立地県の知事にウソをついたからです。事故直後の3月14日には、武藤栄・東電副社長(当時)が福島第一原発の2号機について『2時間でメルトの可能性あり』と発言しています。事故対応をしていた東電本社の様子は、社内のテレビ会議システムで柏崎刈羽原発にも伝わっていました」

「当時、メルトダウンしている疑念もあり、新潟県民の避難が必要かどうか判断するため、18日に福島第一原発の現状がどうなっているのか東電に説明を求めました。柏崎刈羽原発の幹部が県庁に来ました。『メルトダウンしていない』と話しました。ところが、東電は2カ月後、メルトダウンが津波到着の5時間半後に始まっていたと発表したのです」

――13年7月、再稼働に向けた手続き開始への同意を求めに東電社長が訪れましたが、了承しませんでした。

「知事の最大の使命は、県民の生命と安全、財産を守ることです。新潟県でも技術委員会で福島原発事故の検証を進めています。しかし、東電は情報をきちんと開示しない姿勢を続けてきました。これでは事故の総括も対策の検討もできません。虚偽説明をする会社に原発を管理する資格があるのか疑問です」

「原発事故の判定基準マニュアルで、メルトダウンだと判断すべきところをしていなかったことを認め、東電が謝罪したのは今年の2月になってからです。技術委員会の議論を通し事実の積み重ねで外堀が埋まった中、知事選に私が出て4選した場合、虚偽説明を続けていては再稼働の議論に入ることもできない、と考えたのではないでしょうか。地に落ちた東電の信頼を少しでも回復するために、4期目に入る前に認めた、と受け止めています」

「8月25日に訪れてきた東電幹部は『原子炉に注水できない状況から判断すれば炉心溶融していると申し上げるべきだった』と釈明しましたが、いまだに責任を問われる真実は話せないようです」

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――2月に出馬表明しながら、知事選直前の8月30日、不出馬を発表しました。理由が地元紙報道とは理解しがたいことです。

新潟日報が県が金融支援として出資して第三セクターになった企業の日本海横断航路のフェリー購入契約トラブルについて報道を続けました。事実に反する点について県のホームページに掲載して訂正を求めましたが、新潟日報は言論を通した真実の追及をしませんでした。8月24日には定例記者会見で新潟日報への抗議を発表項目に入れるという異例の対応をしました。しかし、重要性が高くないと考えたのか、他社が取り上げることはなく、原子力防災をふくめ県の主張を県民に伝えることが難しい選挙になる、と判断しました。別の人が出て原子力防災など未来を争点にした選挙が行われた方が、当選後に国との交渉力が増すと考えて撤退を決めました」

――別の人が出る、と考えていたのですか。

「当選した米山隆一氏ら特定の人を想定していたわけではありませんが、必ず誰か出ると考えていました。7月の参院選で野党共闘候補が自民候補を破っているわけですから、私が出なかった場合、共産党単独候補ではなく野党が連携する形で擁立される可能性があり、候補者によっては自民党公明党の対応もどうなるかわからない、と思っていました」

――選挙態勢を組めず出馬を見送ったとか、再稼働の判断を迫られるのを避けたという見方もあるようです。

「各機関の調査で県政への評価が8割を超えていました。選挙事務所の態勢も整っていましたし、選挙資金も問題はありませんでした。再稼働について検討する前に、福島第一原発の事故検証が必須という立場は貫いてきました」

――不出馬表明のあと決意は変わらなかったのですか。

「市民団体などからも撤退の撤回署名などをいただきましたが、政治家が進退をいちど口にした以上、撤回はできません。ただ、進退の判断にあたって、大阪市長だった橋下徹さんをうらやましく思いましたね。大阪にはテレビの準キー局や全国紙の本社もあり、メディアと議論できる環境があると思いました。でも、新潟ではローカル放送の時間や紙面が限られ、私の考えを県内にも広く発信して議論することが難しい状況でした」

――「後継指名しない」と言いながら、知事選ではツイッターで候補者に質問する形で、米山氏を支援しているようでした。

「原子力防災などを争点にしてほしいと撤退表明したわけですから当然です。森民夫氏(自民、公明推薦)からは、接戦の報道があるまでは質問に対する回答はありませんでした。原子力防災で泉田県政の取り組みを継承するとしていた米山氏(共産、社民、自由推薦)には、返信で確認できましたので礼を尽くしました」

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――現在の原発についての議論をどう見ますか。

「今は原発事故の対応にかかる費用を含めても原子力発電は割安という説明になっています。一方で、国民に負担を求める議論も進んでいます。原発を動かさないので国民負担を求めるというのなら論理的ですが、割安だと主張する原発の再稼働を進めながら国民負担を求めているわけです。結局、原発は高いのか安いのか、整合的な説明が求められるように思います。こうした入り口の整理を抜きに、国民負担の賛否を問うのは拙速です。原子力規制委員会の指針は霞が関だけの調整でつくられ、現場を抱える地方自治体の意見が採り入れられていません」

「原発事故で被曝する恐れがあるのは周辺にいる住民です。規制委の委員に住民を代表する立場の人を入れるべきだと考えます。中央省庁の官僚は『福島の住民の苦しみを忘れるべきではない』という主張と、『とにかく原発を再稼働させよう』との2派あるように思います。省庁というより個人によって考えは異なり、人事異動で方針が変わり得ると見ています」(聞き手・川本裕司)

いずみだひろひこ 1962年生まれ。新潟県加茂市出身。87年、通産省(現経産省)入省。2004年、新潟県知事に当選、3期12年務めた。