(追悼文) 肥田舜太郎・被爆医師の人類への献身。
日本科学者会議埼玉支部代表幹事 杉浦公昭
広島で自ら被爆しながら長年、被爆者の治療をされてこられた、医師で日本原水爆被害者団体協議会顧問の、肥田舜太郎さん(100歳)が20日、肺炎で亡くなられました。
肥田さんの訃報に接し、生前中のご厚意に感謝し、謹んでご冥福を念じます。
肥田さんとの出会いは、私たち日本科学者会議東洋大学工学部分会が「自然と平和を守る集い」を催し、「広島の消えた日」の内容の話をお聴きした時と記憶しています。
軍医として「前線から送られてくる傷病兵を『治癒』すると、再び前線に送られ死んでいくことに矛盾を感じた」と話されました。
肥田さんは、部下の近藤少尉から「貴方のような方が、なぜ職業軍人になられたのか?その道筋の中に、戦争と人間のかかわり合いのようなものが見えるのではないかと思うので、貴方を死に急がせる前に、一緒に考えてみたい」と問われ、いきなり刃物を胸元に突き付けられた思いがしたそうです。
そこで、肥田さんは山好きの中学生が、その時代に翻弄されながら軍医になるまでの話を丁寧に話されましたが、夜も更けたため、近藤少尉としては話を聞くだけに留め、その返事は、後日になって、宛名も差出人の署名もない封書を使い、命がけの遺言ともいえる形で送られてきたそうです。その中に次のような一文が含まれていました。
【貴方に知って頂きたいのは、国民やアジアの何億と言う人々に不幸をもたらした今次の戦争を、無益な侵略戦争としてその危険を予告し、警鐘を鳴らした勇気ある人たちがこの国にもたくさんいた事実です。
戦争は阻止しなければならないという思想も、知識も、またそのための手段も、まだ限られた少数の人たちのものでしかありません。不幸にも、そうした人たちは獄につながれるか、そうではない場合は心ならずも貝のように口を閉ざさざるを得ない状態に置かれています。
しかし医学の進歩によって伝染病を克服することができるようになったと同じように、もし、社会の疾患である戦争について、その原因、経過、転帰についての研究がすすみ、克服する手段、方法が明らかになれば、いつかは戦争を予防し、発生を防止することができるようになる筈ではないでしょうか】と書かれていたと言います。
肥田さんは、「私が戦後を生きる考え方の原点になった」と申して居られました。戦争法が施行された今日、私たちが、しっかり噛みしめるべき文章と考えます。
肥田さんは軍医として働いていた広島で自らも被爆しながら、被災者の救助や治療に当たられました。
戦後も長年にわたって被爆者の診察を続け、被爆者健康手帳の申請相談などにも応じてこられたほか、地域では長年、「平和のための埼玉の戦争展」の実行委員長も務められ、晩年は、若者を育てるための「平和の学び場・コラボ21」を提唱、物心両面で支えてこられました。平成23年からは日本被団協の顧問も務めてみえました。
また、アメリカやヨーロッパなど150か所以上を回って原爆の悲惨さを伝える活動を行い、東日本大震災のあとは原発事故による内部被ばくの危険性を訴え続けてこられました。
今日、国連で核兵器禁止のための条約締結に向けての交渉開始を迎えていただけに、さぞかし残念であったろうと推察致します。
今後は私たちがバトンを受け取り、肥田さんの望みであった「核も戦争もない平和で豊かな地球」を目指して頑張ることを誓って、追悼の言葉とさせて頂きます。
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