毎日放送 映像’17(2017/5/29) 全村避難6年、福島・飯舘村と科学者の記録、今中哲二先生の活動

永岡です、毎日放送の映像’17、福島原発事故、飯舘村についての、今中哲二先生のことが取り上げられました。ディレクターは津村健夫さん(熊取6人組の番組を作られた方)です。

福島県飯舘村、2017年3月、田んぼを2,3段、畑も多数持つ農家さん、何もできない状態になったと語り、シートで放射能汚染された土が隠されて、廃棄処分までここに置き、原発事故で村は全員避難、一生懸命やって、これからの時に残念と村民は語り、これからどうして暮らしていいかわからない、息子さん娘さんの世代のことは分からないと語り、全員避難の村で、科学者が測定、リーダーは今中哲二先生、10時10分、1.4マイクロシーベルト、30km離れても高濃度の汚染があり、線量は落ちておらず、セシウム137の半減期は30年、戻るか、100年後に戻るか、国や東電は村民の判断をちゃんとさせる責任があると言われて、国は飯舘村の避難指示解除、1ミリシーベルトではなく、20ミリシーベルトで帰れと国は言い、避難指示解除で、人々は村に戻るのか、その時に科学者はどう発言するのか、全村避難から6年、放射能に奪われた村のことです。

2011/3/11の東日本大震災、福島原発事故、全電源喪失→メルトダウン→大量の放射性物質が外に出て、過酷事故は起きないという安全神話は崩れ去り、3/15に格納容器が破損して、漏れた放射性物質は北西に行き、30km離れた飯舘村に注がれて、雨もあり、放射性物質は色もにおいもなく、村の風景は事故前と変わらないものの、菅野村長は、農業ができるのか、事故直後、余震の続く中で全村避難。

大阪府熊取町の京都大学原子炉実験所、今中先生はチェルノブイリ事故などを調査、福島原発事故は今中先生にショックで、事故直後、現地に測定に行きたいと事故後2週間で語り、放射線量を測る必要があり、チェルノブイリの放射線量があり、それと比較して事故の規模を把握できると言われて、事故から2週間、放射線の極端に高い飯舘村に入られて、今中先生、放射線のことを、空間線量と土の汚れを測定、当時23~24マイクロシーベルト/時間、濃度を見ると、村の南部で20マイクロ→年60ミリシーベルト、法律の60倍であり、今中先生、涙を流すしかなく、被曝の現状に愕然、慰留、避難は行政が判断するしかなく、苦しい位置にあり、今中先生は行政、住民の判断できる材料を出したいと言われて、4月12日、国は飯舘村を計画的避難区域として、1か月以内に避難せよとして、飯舘村の住民は、今夜集まってどうするか決めると言われるのです。

住民は、子どもの甲状腺が気になり、小さい子を持つ親は心配、飯舘村から離れるのか、チェルノブイリでは4,5年後から子供の甲状腺がん、白血病が増えて、村では地区単位の集会が開かれて、職場も仕事も奪われた皆さん、放射能から身を守るには、避難するしかなく、不安の声が上がり、高齢者は避難できない、核の問題は村では対応できないと言いつつ、様々な葛藤を抱えて、6000人の村民が全員避難、原発事故→メルトダウン、情報は開示されず、事故の1週間後、市民向けの勉強会が京大原子炉実験所であり、今中先生は小出先生とともに、娘さんが東京にいて、いかに放射能汚染に立ち向かい、汚染に耐えていくか、という時代に入ったと語り、聴講者から放射能に耐えられないとの声で、今中先生はチェルノブイリ原発事故を引き合いに出されて、86年のチェルノブイリ原発事故、有無を言わさず強制避難、事故から土地が放射能汚染を知り途方にくれた人もいて、今中先生、原発事故が日本で起きたら、というテーマが福島原発事故で現実化して、20~30km住めなくなるものであり、飯舘村に2011年10月に、事故から半年後に今中先生入られて、調査チームは放射能の測定、本来稲穂のあるべき田んぼが雑草に覆われて、7.4マイクロシーベルト、セシウム134の半減期は2年、137の半減期は30年、空間放射線量は事故直後の1/3、田んぼで1/2になり、今中先生は自分に何ができるか、避難している村民に接して、村民は自分たちも屠畜されると、情けないと語り、家畜を失い、避難先でなぜこんな思いをするのかと、泣きながらの村民もあり、故郷を奪われた村民の声に耳を傾けて、子や孫を戻すつもりはない、20ミリシーベルトで子育てはできないと語る人もあり、今中先生、村民の感じていることを受け取り、村民たちは事故と闘っている、村に帰る、戻るとは何か、考えると言われました。

飯舘村では移染が行われて、そのためには肥沃な土地が破壊されて、フレコンバックに詰められた核廃物は処理のめどが立たず、飯舘村は1955年に合併で誕生、農業の村、原発から30km、交付金とは無縁の村であり、故郷に戻りたい住民の思いとは反して避難生活は長引き、先の見えない生活が続いたのです。

2016年3月、東日本大震災から3月、福島原発は廃炉作業も予想以上に難航、費用は2兆→9兆、国民にツケ、デブリ取り出しのめどは放射線量が高すぎでめどが立たない。

この年、チェルノブイリ原発事故30年、今中先生は3年ぶりにチェルノブイリを訪れて、ソ連は崩壊、原発はウクライナにあり、原発事故処理の作業をご覧になり、煙突のそばに石棺、コンクリートで覆われて、しかし今でも周囲に強い放射線、第2石棺、最初の石棺がダメになり、新たな石棺で覆うことになり、チェルノブイリ原発から4km、プリピャチ村、全員避難の村、飯舘村と同じであり、この町に5万人住んで、チェルノブイリ原発の従業員とその家族、事故翌日にはソ連政府がバス数百台で、数時間にて避難させて、観覧車は5/1のメーデーに運転開始の予定が、その5日前に事故で1日も稼働せず、これらをご覧になり、今中先生、30年、長いのか短いのか、人間の時間は放射能の時間に負けると言われます。

ウクライナの法律では、年間5ミリシーベルト以上は住んではダメ、1ミリシーベルト以上は住んでもいいが移住の権利のある地域になり、年間20ミリシーベルトで解除した日本とはエライ違いで、チェルノブイリ原発から130km、キエフにはプリピャチから避難された皆さんの集まりがあり、バラの町、事故による強制避難は3日と言われても、戻れず30年であり、プリピャチの皆さんは、同じ原発事故を経験したものとして他人事ではなく、福島第2に行かれた方もあり、信じられない、前向きな気持ちで生きてほしいとも語られて、原発事故で住み慣れた土地を失ったプリピャチの方に、原発を無くしてエネルギーをどうするか、ウクライナでは今でも原発4基、電力の半分をまかなっているのです。

日本では、2016年春に、飯舘村への避難指示を2017/3/31に解除を決定、一部の帰還困難区域区域を除いても、20ミリシーベルトなら住んでも問題ないとして、しかし日本の法律では一般人は1ミリシーベルトしか許容されず、飯舘村の皆さんはこれをどう受け止めるのか、避難指示解除の前に、今中先生は飯舘村の皆さんに測定結果を伝えて、村の南部、線量の高いところの皆さんに、セシウム134と137、半減期は134が2ねん、137は30年、移染して放射性物質はなくなるものの、放射性物質は山から来るので、山から来るセシウムはガンマ線を出し、測定結果は5ミリシーベルトになると今中先生は報告して、1ミリシーベルトに減るのに50年近くかかると今中先生は語り、いつになったら食べられるかとの質問に、100年で1/10になり、200年で1/100、300年で1/1000、300年かかる!(泣)、1kg当たり100ベクレル、村で25000ベクレルで、基準値には300年かかり、村民は今中先生の説明に感謝されて、戻る戻らないの参考にした、しかし戻る人は皆無であり、今中先生、これから50年100年、自分たちの生きていない時代のことを考えないといけないと言われました。

2017年3月31日、飯舘村の避難指示解除、式典が村の交流センターで行われて、受付には東電のスタッフも動員されており、菅野村長は待ちに待ったもの、復興のスタートと語り、とてつもなくうれしい、6年間の支援への感謝が語られました。

避難指示解除後に村に戻った人たちをMBSテレビは探して、長谷川光男さん(70歳)、比較的放射線量の低い北部に家があり、神様を頼んでお祓いをしてもらい、戻ってきて、自宅は最高だと語り、しかし息子さんは帰ってこず、奥さんと二人の生活で、長谷川さんは親の代から農業と林業をされて、避難の6年間は福島県伊達市で息子夫婦と暮らして、それはつらい避難生活、自分の家でないのはつらかったと語り、他に帰って来たのは6軒、53軒のうちであり、帰られたのは高齢者、若い人は帰ってこず、70~80代の人たちが帰っており、家の周りは国による移染が行われても、重機で自分で移染して、しかしフレコンバックの山は残り、息子夫婦は帰らず、フレコンバック撤去のめどはなく、飯舘村は気候が良く、農作物、野菜、花にも理想的な場所が損なわれたことを長谷川さん怒られて、しかし町は一変してしまい、子供たちの声はなく、避難指示解除から1か月、戻ってきたのは111世帯の259人、村の人口6000人の5%なのです。

村役場の中堅職員は、飯舘村は2018年に学校再開、飯館中学校を再開して、幼稚園、小学校も再開したいが、戻ってきた人は少なく、しかし子供のいない村には将来はなく、しかし、役場で働く人の9割は村には戻せず、外から通い、他方村の予算は震災前の5倍、も復興予算、しかしこれは町の駅などのハコモノに注がれています。

今中先生はチェルノブイリ、福島原発事故に向き合ってきた経験から積極的に発信されて、原発で大事故が起きたら、突然家を追われて、町屋村が丸ごと消滅する、これが実態で、今中先生は核の専門家として汚染を調べているが、「被災者にもたらされた災難は専門家が測定することはできない」ことを実感されました。

5月、いつものように飯舘村に春が来て、核災害からの復興、マイナス→ゼロへ、避難指示解除はスタート地点には立っても、50年先、100年先、静かに咲く花を、その時の村の人たちは見ているのかと番組は締めくくられました。以上、映像‘17の内容でした。

 

 

 

 

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s

%d bloggers like this:
search previous next tag category expand menu location phone mail time cart zoom edit close