坊ちゃんの時代:上映期間延期はあるかも Re: 前田高地は沖縄戦の「へそ」 Re: 映画「ハクソー・リッジ」

彦坂さん
お疲れさま、ロラン研究でお会いした石垣です。
彦坂さんも人の子、私と同様に道に迷うことが
あるのですね、ホッとしました。
『ひとはどのようにして生きのびるのか』下巻、1995)。
の紹介ありがとうございました。
もうお読みになっていると思いますが、
共謀罪に関連して幸徳秋水が
出てくる、坊ちゃんの時代「関川夏央・谷口ジロー」
アクションコミックがとても良かったです。
明治の人間には骨太の人がいたと思っています。
                                              石垣敏夫
上映期間延期はあるかも Re: 前田高地は沖縄戦の「へそ」 Re: 映画「ハクソー・リッジ」
田島さん、みなさん、
けさ早く家を出て、この映画を観にいったのですが、大失敗を演じてしまいました。
千葉県内の映画館はいずれも時間のかかる行きにくい場所なので、
一番近い、といっても1時間半くらいはかかるのですが、「TOHOシネマズ日本橋」に行くつもりで、
都営地下鉄浅草線の日本橋駅におりたまではよかったのですが、出口をまちがえ、それに気づかなかったため、
大手町に着いてしまい、あわてて、日本橋にひきかえしたものの、すぐにわかるはずの映画館が見つからず、
まごまごしているうちに最初の上映開始時刻はすぎてしまい、おまけに、体調を崩してしまったので、
そのまま帰ってきてしまいました。
一眠りしたあとですが、いまも、からだのぐあいはよくなっていません。
やはりむりはできないのだ、と思いしらされました。
この映画を自分の目で観てたしかめることはあきらめざるをえません。
それにしても、近いか遠いかをはかる尺度は距離ではなく所要時間であることを
再確認しましたね。
けっきょく見つけられなかったものの、家からあのあたりまでに要した時間は、
新幹線で東京から名古屋までに要する時間とほぼおなじです。
「衛生兵デズモンド・ドス一等兵が、父親が第1次大戦参戦でうけた心の傷など、
なぜドスが『良心的戦闘拒否者』になったかを綴ってい」るとおっしゃるのは、
そのとおりだろうと想像できます。
アメリカ合州国という国家の国軍が、あの大戦の時点で「良心的戦闘拒否」を認めていたことの意味を、
それすらも完璧認めていなかった「大日本帝国軍隊」との対比において、
あらためて考えさせられます。
「良心的兵役拒否」を、この時点で、認めていた国家が、アメリカ合州国をふくめて、あったかどうか、
わたしはまだ確認していないので、たしかのことはいえないのですが、あの大戦中にたったひとり、
脱走のかどによって銃殺刑に処せられた兵が、ヨーロッパ戦線におけるアイゼンハウアー総司令官麾下の
アメリカ陸軍から出ていることの意味について、かつて、書いたことがあります(「どうしておれたちをほっといて
くれないんだ?!」『ひとはどのようにして生きのびるのか』下巻、1995)。
このエディ・スロヴィク二等兵は、「良心的」拒否とはまったくかかわりのない、まったく私的な理由、
つまり、やっと結婚できたばかりの新妻と「離れて」生きていたくないという、ただそれだけのおもいから、
脱走をくわだて、つかまって軍法会議にかけられると、自分はいくどでもまた脱走するだろうと
公言した男です。
このとき、スロヴィクが知っていたのは、アメリカの軍事法廷では脱走兵に厳罰を下す、つまり、
死刑の判決を下す、けれども、じっさいに処刑された者はいない、という事実でした。
まさか、現実に死刑が執行されるとは予想してなかったでしょう。
じじつ、彼は、南北戦争以来いまにいたるまで、ただひとり、脱走の罪によって処刑された兵でした。
このエッセーのなかの一部をぬきがきしておきます。
「たいていのばあい、男たちは、妻子を愛してはいるけれど、その愛しかたは適度で周囲と調和がとれている。
それは、世間一般がそのなかにおだやかにとどまっている枠をはみだすことはないだろう。なのに、エディ・スロヴィクは
そうではなかった。彼ははみだしてしまった。愛しすぎたのだ。」
「なぜ、やつらはおれたちをこんなに苦しめるのか? なぜ、やつらはおれたちを憎むのか? なぜ、やつらは
おれたちにこんなしうちをするのか? なぜ? なぜ? と無限に重ねられていくむなしい問いかけ。
無限に重ねられていくその苦悶のはてに、うらみともいのりともつかないうめきがもらされる。
ああ、どうしてやつらはおれたちをほっといてくれないんだ?!」
「この幸福を返してくれと彼は国家に要求した。この幸福を奪ったのは不当であると国家に抗議した。
いくら考えても、どう考えてみたって、アメリカ合州国という国家は彼を不当にあつかったんだとしか、彼には
思えなかったのだ。まさにこの点において、彼は、国家権力とまっこうから対立していたのだ。
そのような彼の要求を、そして、国家権力の側が認めるわけにはぜったいにいかなかったのだ。」
「ここにこそ、エディ・スロヴィクがどうしても処刑されなければならなかった根本的理由があるだろう。
と同時に、だからこそ、その彼の処刑がひとつの根底的な問をきわだたせている理由もそこにあるのだ。
その根底的な問とは、つぎのようなかたちに要約されるだろう。
国家は、一人の人間を、自発性以外の根拠にもとづいて、兵となしうるのか?
一つの国家というものは、私たちがそこで生きている大地や森や川や海などのように私たちが生れる
まえからそこにあり私たちが死んだのちもそこにありつづける――この地球そのものが死滅してしまわないかぎり――
といったものではないだろう。それは、この私が選びとるあるいはつくりあげるものであるはずだ。
その国家を、だから、この私がなにからどのようにまもるのかまもらないのかは、この私自身が決めること
であって、ほかのだれかが決めることではあるまい。まして、どのようなことあるいはもののためにであっても、
この私の生命を賭けてもいいと考えるか考えないかは、私自身の決意にかかることであって、
それ以外のなにものによっても強制されるべきではない。」
いま、このわたしが生きているこの土地を支配している権力が、せめてこのわたしだけでも
ほうっておいてほしいという、このわたしのねがいを、それに耳をかさないどころか、
平然と踏みにじる、その根拠となしうる法を、つぎつぎと、つくりあげていく、
そのさまをまのあたりにするにつけ、
このわたしの生き死にはこのわたし自身が決めることであって、たとえどのような「法的」根拠
をもってしても、その権利をうばうことはできないのだ、と、
あらためて、きっぱりと、言明しておきたいとおもいます。
ひこ
彦坂さん
上映は延長してるようです。
お近くの上映館をご参照ください。
ご懸念のとおりです。
この映画は映像効果としては「戦闘」がウリです。
しかし、映画の半分は
衛生兵デズモンド・ドス一等兵が、父親が第1次大戦参戦でうけた心の傷など、
なぜドスが「良心的戦闘拒否者」になったかを綴っています。
ni0615田島拝
On 2017/06/27 12:09, 彦坂 諦 wrote:
> 石原吉郎の詩「禮節」のなかにつぎのような詩句ががあります。
> 「世界がほろびる日に
> かぜをひくな
> ビールスに気をつけろ
> ベランダに
> ふとんを干しておけ
> ガスの元栓を忘れるな
> 電気釜は
> 八時に仕掛けておけ」
> 戦争のほんとうのおそろしさはここにあるのではないでしょうか?
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