核兵器使用の犠牲者(ヒバクシャ)の「受け入れがたい苦痛と被害」を心に留める。先月、国連で採択された核兵器禁止条約の前文はこううたう。

「母や妹を含め、たくさんの人たちの犠牲が無駄にならなかった」。日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)顧問の岩佐幹三(みきそう)さん(88)は感激した。

72年前のきょう、米国は広島へ原爆を投下した。立ち上るキノコ雲の下で、16歳の岩佐さんは母と妹を奪われた。

3日後、長崎にも原爆が投下された。両被爆地でその年のうちに21万人が死亡した。生き延びた人々も放射線の後遺症に脅かされ、被爆者(ひばくしゃ)と呼ばれた。

■世界に響く被爆者の声

「早(はよ)う逃げんさい」。72年前の8月6日、広島の爆心地から1・2キロ。倒壊した家の下敷きになった母の清子(きよこ)さんは、助けようと躍起になる岩佐さんに告げた。猛火が迫っていた。

数日後、自宅の跡を掘り起こし、清子さんの遺体を見つけた。むごたらしく焼けただれ、人の姿をとどめていなかった。

12歳の妹、好子(よしこ)さんは朝から女学校の同級生たちと屋外作業に動員されていた。どこで亡くなったのか、今もわからない。

「原爆は人間らしく生きることも、人間として死ぬことも許さない」。その憤りが岩佐さんを被爆者運動に駆り立てた。

多くの市民が味わわされた「苦痛と被害」はやがて、世界を動かす力になった。

2010年以降、国際社会では「核兵器の非人道性」への関心が高まった。日本被団協は、関連の国際会議に被爆者を派遣し続けた。核兵器が人間にどんな被害をもたらすか。体験に根差した被爆者の訴えは、各国の参加者に強烈な印象を与えた。

条約は核兵器の使用だけでなく、保有や実験、使用をちらつかせた脅しなどを、「いかなる場合も」禁じるとした。交渉に参加した各国代表は「ヒバクシャに感謝したい」と口をそろえた。被爆者の切なる願いが、国際法となって結実した。

■核保有国動かすには

条約の採択には国連加盟国の6割を超す122カ国が賛成した。9月から署名が始まり、50カ国の批准で発効する。

実効性を疑問視する声は強い。核保有国や北朝鮮は採択に加わらず、当面、署名・批准もしないとみられるためだ。

核兵器のない世界」と逆行するような動きも目立つ。

今年就任したトランプ米大統領は、核戦力の増強に意欲的だ。ロシアや中国も核戦力の強化に巨費を投じているとされる。北朝鮮は公然と核開発を続け、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を2度発射した。

核保有国に共通するのは「核兵器は抑止力であり、安全保障の根幹だ」との思想だ。だが、抑止が破れ、核が使われた場合の被害は破滅的だ。事故やテロのリスクもある。安定的な安全保障とはとうてい言えない。

カギを握るのは世論だ。原爆投下正当化論が根強い米国をはじめ、核保有国では核の非人道性はあまり知られていない。

昨年5月にオバマ米大統領が訪れた広島平和記念資料館は昨年度の外国人入館者が36万人を超え、過去最多を更新した。キノコ雲の下で起きた「苦痛と被害」のむごさは、核保有国の人々の心にも響かぬはずはない。

非人道性の認識を市民レベルで広げ、核に依存する自国の政策転換を求める世論へと変える。被爆国として、そういう働きかけを強めていきたい。

■「核の傘」依存脱却を

日本政府は条約交渉をボイコットし、被爆者を失望させた。安倍政権は署名しない方針だ。

日本は、米国の核で他国の攻撃を抑止する「核の傘」を安全保障の基軸とする。安倍首相は2月のトランプ氏との首脳会談で核の傘の提供を確認した。北朝鮮や中国の脅威を背景に、核への依存を強めている。

だが核抑止論は、相手との軍拡競争に陥るリスクがある。現に北朝鮮は核・ミサイル開発を米国への対抗策だと主張する。

核の傘の本質は「有事では核攻撃もありうる」との脅しだ。政府は米国が核を使う可能性を否定しないが、深刻な「苦痛と被害」の再現は確実だ。被爆国として道義的にも許されまい。

日本政府は、核兵器禁止条約への参加を目標とし、核の傘を脱却する道筋を探るべきだ。

米国の群を抜く通常戦力だけで北朝鮮や中国への抑止は十分との見方もある。安全保障上どこまで核兵器が必要か。役割を下げる努力を日米に求めたい。

オバマ前政権は、相手の核攻撃がない限り核を使わない「先制不使用」を検討したという。軍事偏重の懸念があるトランプ政権への牽制(けんせい)としても、日本側から再検討を求めてはどうか。

安倍首相は今年も広島、長崎を訪れる。同行する河野太郎外相は核軍縮の問題に熱心に取り組んできた。ともに被爆国のリーダーとして、被爆者の願いを実現する決意を示してほしい。

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