生井久美子 朝日新聞 2017年8月21日
認知症は人生の終わりじゃない 「常識」変えた本人の力
■「恍惚(こうこつ)の人」から「希望の人びと」へ:2(マンスリーコラム)
今年7月、丹野智文さん(43)が、東京経済大学で特別講義をした。39歳で認知
症と診断されて4年。全国を飛び回り、100回以上講演しているが、大学で話すのは
初めてだ。
テーマは「若年性認知症当事者としての生き方、社会とのかかわり方」。階段教室は
約330人の学生でいっぱいになった。
「両親が40歳以下の人はいますか?」
冒頭に丹野さんが質問すると、学生たちはキョトンとした。
「いないですね。私は39歳で認知症と診断されたので、みなさんのご両親が明日、
診断される可能性があるかもしれない。他人事ではなく、今日は自分事(じぶんごと)
として、聞いてください」
最初から学生たちをグイッと引きつけた。丹野さんは元トップ営業マンで、いまも事
務職として働く。この日は休みをとって仙台から訪れた。
診断後1年ほどは「一人になると涙が出た」こと。先輩の当事者やさまざまな人との
出会いで「認知症を悔やむのではなく、認知症とともに生きるという道を選んだ」こと
。薬の副作用のこと。偏見は自分自身や家族の心の中にもあること……。
一つ一つ丁寧に語り、「できることは奪わないで。時間はかかっても待ってあげて」
「何もできなくなるというのは間違いだと知ってほしい」。そして、「病気になったと
き、最初の一歩を踏み出すのは大変だけれど、踏み出すことで人生は変わるよ」と話し
た。
■学生の質問に
「もし明日、親が認知症になったら、どう対応したらいいでしょうか」と、学生が質
問した。
「質問の1発目は勇気がいるよね。ありがとう」。まず笑顔で感謝するのが丹野流だ
。場がふっとゆるむ。
「認知症と診断されると、次の日から別人のように扱われるけれど、昨日のお父さん
と診断直後のお父さんは何も変わらない。認知症は恥ずかしい病気ではなく、誰もがな
りうる、ただの普通の病気です。今までのお父さんと変わらず、普通に接したらいいん
です」
丹野さんにも高校生の娘が2人いる。これは、丹野パパの願いでもあるのだろう。
次の学生が質問した。「認知症の祖母は、どんなことを一番助けて欲しいでしょうか
」
「人それぞれ違うので、ぜひ、おばあちゃんに聞くといいんじゃないですか。病院で
も家族にばかり尋ねるから、なんで当事者に聞かないのかな、と思うんですね。家族と
当事者って、必ずしも同じ考えではないんです」と丹野さん。
「夢は?」と、別の学生が聞いた。認知症の当事者に「夢」を尋ねる時代になったこ
とが、私には感慨深かった。
「最初は営業で1位になることで、それはできたけれど、全国で1位という夢はでき
なくなって……。今は、一人でも多くの当事者に元気になってもらいたいというのが、
僕の夢です。皆さんにも、夢をいっぱい持って生きていってほしいです」
丹野さんは、駅で若い女性に道を尋ねて「ナンパ」と間違えられたことなどを、ユー
モアも交えて話す。
「日本は優しすぎる。認知症と診断されると、家族が24時間付いて回る。どんなに
好きな人でも、彼女でも、24時間ずーっと一緒だと嫌になりますよね。自分のペース
でやりたい。みんなも、ちょっと体調が悪いからといって、明日から付きっきりで、授
業も送り迎えもずっと一緒って、どう思う?」
学生たちは大きくうなずいた。
■「進化」と「深化」
私は、認知症とともに生きる人たちを取材して、「進化」と「深化」を感じてきた。
丹野さんはその一人だ。
初めて会ったのは3年前、認知症に関する国際会議のレセプションで彼がスピーチし
たときだった。翌年、別のシンポジウムで再会。打ち上げで彼が語る言葉を聞いた。
「僕の人生は終わったと思った。でも、小学校で講演したら、『認知症になってよか
ったことは』と子どもたちに聞かれて。子どもって素直なんだよね。『よかったことは
』って話せるようになりたい」
2年前の11月、「当事者同士の飲み会をするけど来ない?」と、丹野さんから電話
で誘われた。
東京・有楽町のガード下に行くと、丹野さんを含め男性ばかり5人。居酒屋を探しな
がら、丹野さんがつぶやいた。
「人と人をつなぐのも、僕の役割だから」
この場で丹野さんは「恩人」を紹介してくれた。
「(認知症と診断されたら)2年で寝たきり」という情報しかなかったとき、診断後
5年たっても明るく元気な竹内裕さん、通称「タヌキのおっちゃん」に出会って、「何
だ、認知症でも大丈夫ジャン!」と思ったそうだ。さらに、自分の中に認知症への偏見
があることにも気づかされたという。いま、丹野さんは当事者のための総合相談窓口「
おれんじドア」のリーダーだ。そんないきさつを、ざっくばらんに話してくれた。
「記憶は残らないけれど、記録は残せる」という、先輩当事者の佐藤雅彦さん(62
、診断から12年)の名言に共感し、丹野さんは暮らしの工夫などを発信している。名
前を忘れても「フェイスブックは顔がわかるから大丈夫」と丹野さん。「友達」は18
00人を超えた。
積極的に発信する「進化」と、認知症への偏見に気づき、考える「深化」。二つの「
シンカ」を、私は丹野さんに感じる。
「つなぐのも僕の役割」と丹野さんに言われて、私は驚いた。それは、認知症の当事
者がそこまで考えてくれるとは想像していなかったからだ。
丹野さんはもともと営業マンとして人の心をつかみ、つながり、成果も上げてきた。
認知症と診断されて、より一層、人と人がつながる大切さを実感した丹野さんが「つな
ぐのも僕の役割」と考えるのは、逆に自然なことだったのに。
私自身にも偏見があったことに気づき、ハッとした。社会に偏見がある、というけれ
ど、当事者の中にも、私自身にもあったのだ。
この場に私を誘ってくれたことに深く感謝した。
■タイトルはこれ以外にない
私は今年2月、単行本「ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信」を
出版した。
この本のタイトルを考えていた昨秋、丹野さんに「希望」について聞くと、彼はこう
答えた。
「希望なんてないよ。(症状は)進んでいくし」
「『希望の人びと』をタイトルに」と考えていた私は、そんなに甘いものではないか
と改めて思った。だが、20年以上前に「痴呆(ちほう)病棟」と呼ばれていた頃に取
材した人たちの悲痛を思い出すと、当事者がありのままに語る姿はやはり希望だ……。
タイトルはこれ以外にない、と決めた。
この夏、改めて丹野さんに「希望」について尋ねてみた。
「いろんな人に、『僕(の存在)が希望だ』って言われるけれど、僕は、一人でも多
くの当事者に元気になってもらいたいだけなんだよね。元気になっていく当事者が、僕
にとっての希望なんだ」
人が出会って、つながって、心から語り合って、発信して。丹野さんと周りの人々と
のかかわりによって、希望は生まれる。丹野さんは自然体で希望を語る。だから、学生
たちにも「夢」として語ることができたのだろう。
丹野さんの「深化」を感じた日だった。
(次回は9月19日に配信の予定です)(生井久美子)
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生井 久美子(いくい・くみこ) 1981年、朝日新聞に入社。仙台支局、政治部
をへて90年から、医療や介護、福祉などいのちの現場の取材を続ける。編集委員、記
事審査室幹事の後、現在は報道局夕刊企画班記者。94年の家庭面連載「付き添って
ルポ老人介護の24時間」は、新聞初の介護をテーマとした長期連載だった。著書に「
付き添って」「介護の現場で何が起きているのか」(以上、朝日新聞出版)、「人間ら
しい死をもとめて」「ゆびさきの宇宙」(以上、岩波書店)、「私の乳房を取らないで
患者が変える乳ガン治療」(三省堂)。共著に「新聞記者の仕事」(岩波書店)、「
私の体のまま抱いて」「死刑執行」(朝日新聞出版)、「プロメテウスの罠7」(学研
プラス)など。認知症、福祉・障害などをテーマに講演や講師もつとめる。
今年2月、新聞連載をきっかけに追い続けてきた「当事者発信」の歩みと変化、最先
端の「いま」を、「ルポ 希望の人びと ここまできた認知症の当事者発信」(朝日新
聞出版)として出版した。購入は
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=18823
から。
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