骨になっても まあだだよ……。)-平成13年5月3日 朝日新聞
回復した人でさえ、病名を明かせない病気――それがハンセン病だ。
15年前、京都で学生だったころ、医学部の友人たちと瀬戸内海の島を訪れた。
高松市から小さな船で大島に渡り、そこの療養所、
青松(せいしょう)園の「元」患者さん方から、さまざまな若いころのお話を伺っ
た
。
かつて「らい病」とよばれ、(事実と異って)死に至る不治の病とされた。
手足や顔に変形が目立つ症状から、患者は「かったい」「くされ」などと蔑称
(べっ
し
ょう)された。
1931年制定の「らい予防法」によって、全患者が隔離対象とされ、
36年には地域から病者を一掃する「無らい県運動」が広がって、
警察力まで使って発症者全員が療養所に強制収容されたという。
「天刑病」「業(ごう)病」とまでいわれた元凶のひとつは、
差別意識を助長する隔離法、つまり当時の国家政策にあった。
敗戦により、全国の療養所には患者自治会が再建された。
74歳の「語り部」平沢保治(やすじ)さんにお会いした。
国立ハンセン病療養所・多摩全生(ぜんしょう)園の入所者自治会長だ。
13歳の時発病を宣告され、診察した東大病院の医師に
「軽症だから一年もすれば帰れる」とだまされて全生園に送り込まれた。
戦後、薬物療法によって病気が完治するようになっても、世間からの偏見は続い
た。
「座っていた椅子を消毒されたり、全生園の人間だとわかると、タクシーを下ろさ
れ
た
り……」
「苦しみの中にある幸せを自分自身で感じられれば、人生に希望を持つことができ
る
」
「歴史は歴史として正しく伝えなければ、その教訓は後世に生かされない」
「公教育の中で障害者と交流できる仕組みをつくれば、そこから信頼関係を育てて
い
く
ことができる」
……「人生に絶望はない」と語る平沢さんの信念である。
94年、大谷藤郎氏(現高松宮記念ハンセン病資料館館長)が
「医学的、人権的に強制隔離は許されない。
らい予防法の隔離条項も削除する必要がある」
と日本らい学会で発言した。
この発言がきっかけとなって、
日本でもやっと96年4月1日にらい予防法は廃止された。
ハンセン病は完治するようになり、らい予防法もなくなった。
しかし血のつながりはあっても、肉親はいない。
「終わり」があっても、帰るところがない。
昔は「火葬場の煙になって出るよりほか、ここから外に出る方法はない」
といわれた強制隔離政策だった。
今はそうではないはずなのだが、死んでもまだふるさとに帰れない。
その思いを、ある入所者が川柳によんでいる。
「もういいかい」
もういいかい?
骨になっても
まあだだよ
いわれ無き偏見に対し、患者自治会は闘い続けた。
しかし、人間の業を見せつけられ、奪われてしまったものは
未(いま)だ取り戻せてはいない。
現在、全国15カ所の療養所には「元」患者さん約4500人が入所、
入所者の平均年齢は74歳になろうとしている。
http://irohira.web.fc2.com/113-41Hansen.htm
MLホームページ: http://www.freeml.com/uniting-peace