本土決戦の中枢として 信濃毎日新聞 2017年12月4日
長野市の松代大本営地下壕(ごう)跡には、
国内外から年間約8万人の見学者が訪れる。
太平洋戦争末期に造られた巨大なトンネル網は、
陸軍が本土決戦の拠点として計画したとされ、
工事には朝鮮半島からも多くの労働者が動員された。
第一級の戦争遺跡と言え、明治以降の日本の近現代を考える上でも、
重要な意味を持っている。
8日の「開戦の日」を前に、
「マツシロ」から見えてくる歴史と現在を改めてたどってみたい。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ、、、」。
ラジオから昭和天皇本人の声で「終戦の詔勅」が流れた。
1945(昭和20)年8月15日正午。
国民が敗戦を知らされたこの日の早朝、陸軍大臣阿南惟幾
(あなみこれちか)は官邸で割腹自殺を遂げた。
阿南の最期に立ち会った一人に、井田正孝中佐がいる。
敗戦を伝える「玉音放送」を阻止しようと青年将校が決起した
「宮城事件」に関わった人物だ。
松代大本営の発案者は、この井田であり、
工事期間中、阿南も2度、現地を視察している。
戦後、井田が残した証言が興味深い。
「松代大本営は本土決戦のための中枢として準備されたものです。
本土決戦は、結局国体護持という大目的を達成するために
敵に最後の一撃を与えるということです」
(日本放送協会編「歴史への招待」32巻)
大本営とは、戦争指揮の最高機関のことで、
天皇は頂点に立つ大元帥だった。
東京にある大本営を内陸部の信州に移すー。
これが陸軍主導で進められた松代大本営計画である。
関係者の証言を収めた「昭和史の天皇2」(読売新聞社編)
によると、陸軍省軍事課予算班に所属していた井田が
陸軍次官の富永恭次中将に移転を進言したのは、
44(昭和19)年の初めころ。
戦況の悪化に伴い空襲を避ける狙いがあったと語っている。
候補地は八王子だったが、後日、富永から「信州あたり」
で探すように命じられ、専門家2人と共に県内を調査し、
松代に落ち着いた。
地質、地理的条件に加え、天皇を迎え入れる品格や風格、
信州は”神州”に通じるーといったことも考慮されたようだ。
設計段階になると、計画は松代の象山・舞鶴山・皆神山に
地下壕を掘り、天皇皇后の御座所や大本営だけでなく、
政府省庁なども入れる大規模なものとなった。
東条英機首相の指示とされる。
掘削工事は11月から敗戦まで続けられ、9カ月間で8割が
完成したというから、すさまじい突貫工事だった。
陸軍はなぜ、この計画に踏み切ったのか。
松代大本営研究の基礎を築いた青木孝寿(たかじゅ)・
県短大教授(故人)は、当初は空襲を回避する目的だったが、
本土決戦にかじを切るにつれ「本土決戦の作戦指揮の中枢」、
さらには「国体護持のための拠点」へと変わっていったー
との見方を示している(「松代大本営 歴史の証言」)。
明治以降、日本の近代が抱えた「国体」概念は単純ではない。
ここでは「万世一系の天皇が統治する国家体制」と押さえておきたい。
本土決戦の方針は、沖縄戦が配色濃厚となった45年6月8日の
御前会議でも確認されている。
軍事史に詳しい山田朗(あきら)・明治大学教授(61)は
「本土決戦に持ち込めば米軍に大きな出血を強いることができる。
米軍は勝利を確信していても出血は避けたいから、
国体護持の条件を引き出せるー。
陸軍はそう考えたのです」と解説する。
これが冒頭の井田証言の意味だ。
連合国が無条件降伏を突きつけたポツダム宣言は7月26日。
受諾か否かを巡って日本の首脳部が最も腐心したのは、
国体護持の保証だった。
鈴木貫太郎首相、阿南陸相らの間で激しい議論が交わされ、
正式に受諾したのは8月14日になってからだった。
この間、米軍は広島・長崎に原爆を投下、ソ連軍は満州(現中国東北部)
や樺太(現サハリン)南部に侵攻し、多くの国民が犠牲を強いられた。
「国体護持」とは何だったのか。
松本市の高校教師・染野雄太郎さん(25)は大学時代、
国体護持と本土決戦の視点から松代大本営の歴史を考える卒論に取り組んだ。
戦争末期に叫ばれた「国体護持」が、陸軍や皇族、政治家の間で
どう受け取られていたかに迫った意欲作だ。
「国体とは、戦争で死にゆく者の精神を安定させるものだったのではないか。
日本人全体が洗脳されていたとも言える。
だからこそ、初めから結論ありきではなく、事実を学び、
自分の頭で考える人を育てる教育が求められているのだと思います」
染野さんは今年から長野市で始まった「『松代大本営』研究会」
(原昭己・事務局代表)に参加し、新たな探求に取り組んでいる。
(編集委員・増田正昭)
天皇の真意、見えぬまま
宮内省の担当者が松代を視察したのは、
1945(昭和20)年6月になってからだ。
報告を受けた天皇側近の政治家木戸幸一は、
「松代のことはちょいちょい聞いていたが、そこまで行っては
もうおしまいで、結局洞窟の中で自殺する以外になくなってしまう」
「御動座についての話には、ほとんど関心を持たなかった」
と述べている(「昭和史の天皇2」)
7月31日の木戸の日記には、昭和天皇が三種の神器を
「度々御移するのも如何かと思ふ故、
信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ」
「万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」
と語ったとある(「木戸幸一日記」)
だが、「昭和天皇実録」には松代大本営の記述がなく、
天皇の真意は不明だ。
日本政治思想史や天皇制に詳しい原武史・放送大教授は
「天皇が松代大本営に行くつもりがあったかは疑問だ」
と指摘する。
理由として皇居内に造られた鉄筋コンクリート製の
「御文庫(おぶんこ)」を挙げる。
頑強な防空施設を備えた天皇の住まいのことで、
45年にはさらに強力な御文庫地下壕(付属室)を造った。
「あくまで東京にとどまると考えたからではないか」
山田朗・明治大教授は
「天皇は大元帥だった。
総司令部が信州に立てこもったのでは士気低下は免れがたい。
天皇は最後の最後まで東京に踏みとどまりたかったと思う」
と推察する。
戦後の47年10月の天皇巡行の際、
長野市内の展望台で林虎雄知事に
「この辺に戦争中無駄な穴を掘ったところがあるというがどの辺か」
と尋ね、林知事が
「正面に見える松代町の山陰に大本営を掘った跡があります」
と答えている(10月14日付信濃毎日新聞)。
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マツシロから見えるもの(中) 植民地支配 問題の本質
朝鮮人労働者の動員 信濃毎日新聞 2017年12月14日
松代大本営の工事に動員された朝鮮人労働者の証言や資料を展示する
民間施設「もうひとつの歴史館・松代」。
長野市が公開する地下壕(ごう)跡のすぐ近くとあって、
入館者は年間5千人を超える。
「労働者には、お金を払ったのだから問題はないでしょう」
「強制労働とは言えないのでは」、、、。
5年前から同館で解説を務める塾経営・原昭己(あきみ)さん(64)
=同市=は、こんな感想を述べる若い来館者が少なくないと話す。
「あくまで感触としてですが」と断った上で、
「若い人の間に”嫌韓”的な気分が広がっているのではないか」と懸念する。
1944年(昭和19年)の11月から始まった地下壕工事には
日本人も動員されたが、主力は7千人ともいわれる朝鮮人労働者だった。
建設会社の西松組、鹿島組などが軍から請け負っていた。
ただ敗戦直後に関係機関が重要文書を処分したとされ、
全体像を知るには証言が頼りだ。
掘削に従事し、91年に亡くなるまで地元で暮らした崔小岩(チェソアム)
さんのような「語り部」がいなくなった今日、さまざまな見解が飛び交う。
最近は慰安婦や徴用工を巡るネット上の論議の影響も大きい。
「実態はどうだったのか。
日本の植民地支配の歴史を踏まえて証言を検証し、
入館者に説明するように心掛けている」と原さんは話す。
例えば、賃金一つとっても単純ではない。
注目したいのは、西松組の社員だった金錫智(キムソッテ)さんの証言だ。
軍からの日当は1人当たり2円10銭で、
西松組や下請けの親方がピンハネし、末端には
「80銭か90銭しか渡らない仕組みだった。
孫請けになるとそれ以下」。
さらに飯代などが引かれたと語っている。
「特別な技術者」は別扱いで、同じ労働者でも格差があったことが
うかがえる(林えいだい著「松代地下大本営」)。
崔さんによると、宿舎は地面に屋根を立て掛けただけの「三角兵舎」。
コーリャンや大豆かすが入った粗末な食事で下痢と空腹に悩まされながら、
二交代でひたすらトンネルを掘った。
苦しさのあまり、自殺した人もいたという(前掲書)。
言動は憲兵が潜り込ませた同胞の朝鮮人スパイによって
常に監視されていた。
元長野地区憲兵隊長は「7千人の朝鮮人労働者の暴動」を恐れた
と語っている(信濃毎日新聞社編「信州 昭和史の空白」)
作業は過酷を極めた。
落盤やダイナマイト事故がしばしば起こり、多くの死傷者が出た
との複数の証言がある。
だが、誰が・いつ・どのようにして亡くなったのかー。
ごく一部を除き、基本的な事実すら今もって判明していない。
慶尚南道出身の朴道三(パクトサム)さんは、
経緯が分かっている数少ない一人だ。
45年2月に故郷から松代に連行され、
4月18日に発破事故で命を落とした。
朴さんと一緒に連行された金昌箕(キムチャンギ)さんは、
新婚早々で有無を言わさず連れ去られたと証言している。
研究者の原山茂夫さん(88)らが編集した「岩陰の語り」に詳しい。
95年に朴さんの息子が慰霊に訪れ、
「こんなことのために、なぜ死なねばならなかったのか」
と語っている(同年8月10日本紙夕刊)。
国家総動員法に基づく国民徴用令が朝鮮に適用されたのは、
44年9月以降。
戦争で不足した日本内地の労働力を植民地から強引に調達するためだった。
朴さんらはこれに当たる。
一方、語り部の崔さんは、38年に兄を頼って渡航し、
トンネル工事の技術を身に付け宮城県から松代に来た。
いきなり連れて来られ、布団の中で涙を流す年若い同胞たち
への思いを証言に残している。
松代には、さまざまな経緯で動員された朝鮮人労働者が混在していた。
こうした背景などもあって、「全てが強制とはいえない」
といった議論が近年、起きている。
「徴用が強制で、そうでないケースは強制ではない、
といった議論は以前から繰り返されてきた。
こうした言葉の対立は、あまり意味がないと思う」。
「朝鮮人強制連行」の著者で、日本近現代史に詳しい
外村大(とのむらまさる)・東京大教授(51)は、こう指摘する。
「個々にはいろいろな事情があったにしても、
そもそもなぜ朝鮮の畑を耕すべきはずの人が日本に来たのか。
そこにこそ問題の本質があるはずだ。
日本の植民地支配の構造そのものに目を向けて考える必要がある」
(編集委員・増田正昭)
皇民化強制 欠かせぬ観点
1910年(明治43年)、日本は軍事力を背景に朝鮮を植民地に組み入れ、
敗戦までの35年間、朝鮮総督府を通して統治した。
「一貫しているのは、同化主義。
単なる同化ではなく、同化と言いながら一方で差別するといった特徴があった」
と趙景達(チョキョンダル)・千葉大教授(朝鮮近代史)は指摘する。
趙教授によると、37年に日中戦争が始まると朝鮮を総力戦体制に
組み込むため、総督府は皇民化政策へと踏み出す。
皇国臣民をつくるためのいわば「洗脳」政策である。
国旗掲揚や神社参拝、「国語」奨励などのほか、
「皇国臣民の誓詞」を斉唱させた。
38年に朝鮮語を正課から外すなどの教育改革を実施。
40年には姓を日本式に変える創氏改名を行い、
44年に徴兵制を実施する。
「皇民化政策の狙いは徴兵制にあった。
植民地兵を使いたいが、日本は朝鮮人を信用していない。
武器を持たせるために皇民化が必要だった」と、趙教授は解説する。
朝鮮に労働力の提供を割り当て、本格的な調達に乗り出したのは39年から。
当初「募集」や「官斡旋」といった方法を採ったが、
実態は警察や行政機関を使った動員だった。
44年には国民徴用令を適用し、各地の過酷な現場に投入した。
「もうひとつの歴史観・松代」で解説を務める原昭己さんは
「朝鮮人労働者の実態も皇民化の強制という観点が欠かせない」と話している。
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マツシロから見えるもの(下) 証言から歴史に迫るために
平和学習の教材として 信濃毎日新聞 2017年12月19日
9月10日の昼下がり。
長野市の長野俊英高校・郷土研究班3年生の古田純さんらは、
松代大本営地下壕(ごう)跡の案内を終えた後、
近くの食堂で2人の見学者と懇談した。
満蒙開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)の事務局長、三沢亜紀さん(50)と
上田女子短大(上田市)の専任講師、山本一生(いっせい)さん(37)だ。
同研究班は長年、大本営建設を巡る地域の歴史を聞き取り調査などによって
掘り起こし、地下壕の案内・解説を行ってきた。
現在は先輩たちが作った台本を基にしたガイドが主な活動で、
調査は休止している。
この日も、過去に収集した元朝鮮人労働者の悲惨な事故と、
住民と労働者との交流のエピソードを一つずつ盛り込み、
両面から説明する定番の内容だった。
懇談では、こうした証言を基に歴史を再現する難しさに話題が及んだ。
「交流を強調し過ぎると美談になってしまう。
強制労働を強調し過ぎると悲劇の物語に陥る恐れがある。
事実として何があったかを丁寧に見ることが大事になっていく」。
近代教育史が専門の山本さんは、こう話した。
三沢さんは「戦争体験者が少なくなっているが、どんな形であれ、
会って体験を聞くことに大きな意味があると思う」。
研究班の活動は、1985(昭和60)年の沖縄修学旅行に衝撃を受けた
生徒たちが、足元の地下壕に目を向けて調査と保存に取り組んだのが始まりだ。
以来、県内外に「マツシロ」を発信し、高い評価を得てきた。
だが、活動は試行錯誤の連続だった。
「地元の理解が得られず苦労した」。
2013年の退職まで顧問を務めた元教頭、土屋光男さん(69)は、
こう振り返る。
「何度も足を運び、徐々に信頼してもらえるようになった」
同市松代町西条の農業、宮入忠政さん(82)によると、
地元には当初、政治的な運動ではないかとの警戒心があったと言う。
「ある日、郷土研究班の説明会があると聞いて女房と地下壕に行ったら、
高校生たちが一生懸命にやっている。
それを見て協力しようという気持ちになった」
天皇の御座所が造られた西条地区は45年4月、124世帯が軍から
強制立ち退きを命じられ、宮入さん一家も住み慣れた家を追われた。
「地下壕を教材に歴史を語り、反省することで、
日本が再び悪い方向に進まないようにしてもらいたい」
と高校生たちの活動に期待を寄せる。
大学で日本近現代史を学んだ土屋さんには、一つの歴史認識があった。
「明治維新以降、日本には帝国化する道と中国や朝鮮と協力
していく道の二つがあったはずだが、帝国化してしまった。
松代大本営は、その象徴ではないか」
だが、学校や地域の中で活動を位置付けるに当たって自らの
歴史観・価値観を出さないように心掛けた。
「丹念に証言を集め、生徒たちが自分の頭で考えられるような
活動を目指した。
生徒たちの自信につながったと確信しているが、近現代史の流れの中
にマツシロを位置付けるといった学習は少し弱かったかもしれない」。
土屋さんは退職を機に体調を崩し、マツシロから遠ざかっていた。
最近、ようやく冷静に振り返ることができるようになったと話す。
郷土研究班が抱える課題は、フィールド調査を重視する平和学習全般に
当てはまることだ。
身近な証言から歴史の全体像に迫るためには何が必要なのかー。
「例えば、朝鮮人労働者と交流したという証言に出合ったときに、
『みんなが交流したの?』
『どのような交流だったの?』
といった疑問を自らに突きつけてみる。
証言に対する問い掛けによって、歴史や社会に対する認識を深め
鍛えていく作業が欠かせない」。
日本現代史を研究し教育現場にも詳しい大串潤児・信州大准教授(48)
は、こう指摘する。
郷土研究班顧問の海野修さんに今後の活動方針を尋ねると、
「過去の証言録を検証し、ガイド用の新たな台本を作る。
可能なら聞き取りもやってみたい」との答えが返ってきた。
1年生の高野礼さんは
「韓国の人や日本の人、だれが聞いても納得できる案内を目指す」。
2年生で班長の黒岩和音さんは
「先輩たちが残した資料もたくさんあるので、もっと勉強していきたい」。
メンバー一人一人から強い意欲が伝わってきた。
(編集委員・増田正昭)
被害と加害 複合的な視点で
松代大本営を巡る平和学習は長野市の長野俊英高校郷土研究班だけではない。
たとえば1982年、飯島春光さん(64)=現・篠ノ井西中学校教諭=
が担任をした更北中学校(同市)の生徒たちが地下壕跡を調査し、
87年には松代で600戸の聞き取りを行った。
86年、市民団体「松代大本営の保存をすすめる会」
(現在「NPO法人松代大本営平和祈念館」)も発足した。
一連の流れが90年の地下壕跡の一般公開につながった。
2016年に同祈念館がガイドを行った見学者は約1万9300人で
小中学生が7割近くを占めた。
マツシロの学習が定着していることがうかがえる。
飯島さんによると、1970年代の平和学習は家族の戦争体験の聞き取り
や原爆をテーマにするケースが多く「被害の歴史」に傾きがちだった。
「マツシロを教材にすることで子どもたちが
『なぜここに朝鮮人がいたのか?』といった疑問を抱き、
被害と加害の歴史を複合的に見る視点が生まれた」と指摘する。
ただ、地元の住民に比べて元朝鮮人労働者の証言は取りにくく、
聞き取りに重点を置いた学習には限界もある。
上田女子短大専任講師の山本一生さんは
「朝鮮人労働者が戦後、どう移動したのか、子どもや孫は
どうしているのか、といった観点から証言を聞くことも重要だ。
そうすることで歴史を現在の問題として見ることができるのではないか」
と話している。
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