(インタビュー)救済なき民間の戦災者 弁護士・瑞慶山茂さん

(インタビュー)救済なき民間の戦災者 弁護士・瑞慶山茂さん
朝日新聞 2018年1月19日

沖縄で問われている戦後日本のあり方は基地問題だけではない。戦争末期、沖縄や南
洋諸島などの戦闘で被害を受けた民間人が、国に謝罪と補償を求めている。23日、那
覇地裁で南洋戦・フィリピン戦訴訟の判決がある。過去だけでなく、将来も起こりうる
かも知れない問題。代理人を務める弁護士の瑞慶山茂さんに聞いた。

――民間被害者への国家賠償の請求は、名古屋、東京、大阪の空襲訴訟とも最高裁で
原告が敗訴しました。ハードルは高いです。

「戦後、旧軍人・軍属だけに計約60兆円の恩給や援護金が支払われましたが、民間
の被害者へはゼロです。本土も沖縄も南洋もすべて救済するべきです。沖縄は本土決戦
を遅らせる捨て石として地上戦を3カ月も続けさせられ、60万県民のうち15万人が
亡くなりました。しかも、1972年まで米国に占領され、60年代はじめまで本土か
ら財政援助もありませんでした。47都道府県で沖縄だけ国の被害調査もされなかった
。死者数は戦前戦後の人口差から推定しているだけです。放っておけません」

――それだけの被害、差別がありながら、なぜ沖縄の国家賠償訴訟が遅れたのでしょ
う。

「被害者が生活に追われていたのが第一ですが、沖縄は反基地や戦争記憶の継承活動
が熱心な割に、補償要求の運動が弱かった。でも例えば交通事故の被害者に手記を出版
してあげて喜びますか? 加害者に謝罪させ、証しとして補償させるべきでしょう。本
土より1年遅れで、53年に旧軍人・軍属向けの戦傷病者戦没者遺族等援護法が適用に
なりましたが、県民戦没者15万人のうち旧軍人・軍属は3万人弱に過ぎない。日本軍
や米軍の戦死者よりも民間死者の方が多い推計もあり、異常な戦場だったのです。世論
が猛反発し、保守系の沖縄遺族連合会などが全被害者の救済を求めました。ただ、それ
は援護法の適用拡大運動でした」

――その運動は、一部、受け入れられましたね。

「当初、本土の政府もある程度、応えた。放置すれば、当時の米軍支配が揺らぐ、と
いう危機感もあったのでしょう。そのころは保守政治家に、沖縄の痛みへの配慮も今よ
りもあったと思います。57年、民間死者・負傷者でも『集団自決』『壕(ごう)の提
供』など20項目に該当すれば、『戦闘参加者』の準軍属扱いとし、その後、6歳未満
児も援護対象に加えた。さらに撃沈された対馬丸の疎開児童も準ずる扱いにした。しか
し、適用拡大運動は80年代に財源の壁などで沈滞します。沖縄戦の民間戦没者のうち
約7万人が未補償。南洋戦やフィリピン戦も沖縄からの移民が多く、沖縄関係者だけで
も約2万5千人のうち1万7千人が未補償のままです」

■     ■

――この裁判でも国が主張する「戦争被害は国民が等しく我慢すべきだ」という戦争
被害受忍論は、「みんな苦労したんだから」と受け入れられやすい論理です。

「でも、実際は『雇用関係があったから』と旧軍人軍属を特別扱いし、戦闘参加者の
民間人も準ずる扱いです。世論の突き上げの結果とはいえ、矛盾だらけ。民間でも約6
0年で6500万円もらった遺族もいれば、ゼロもおり、差別が生まれました。認定も
混乱し、集団自決で母と2人だけ、けがして生き残り、援護法適用を申請しても『3人
以上の証言が必要』といわれ、棄却された原告もいます。そもそも集団自決や『スパイ
嫌疑による斬殺』が、なぜ戦闘参加者なのでしょうか。被害者に戦闘参加者として申請
させること自体、おかしいと思いませんか」

――その不満が戦後、ずっとたまっていた、ということですか。

「私自身、南洋のパラオ生まれ、沖縄育ちですが、千葉で弁護士をしており、認識不
足でした。2006年に東京大空襲訴訟の弁護団に入って勉強するうちに深刻さを痛感
しました。09年に沖縄事務所を設け、戦争被害の無料法律相談を始めたら、電話が鳴
りやまず、多くの人に怒られました。『なぜ10年早くやってくれなかったか』と。元
知事の故大田昌秀さんには『やり残した仕事だ。頼んだぞ』と言われました。約500
人に会って被害者の会を結成しました。党派は関係なく、親戚が自民党国会議員の方や
、自身が創価学会員の方もいます。12年に79人で沖縄戦、13年に45人で南洋戦
・フィリピン戦訴訟を起こしました。平均80歳超ですが、『国に一言謝らせたい』と
頑張っています」

――沖縄のほか、南洋のサイパンやペリリュー、フィリピンも天皇が慰霊の旅で訪ね
ました。

「天皇が戦争の犠牲者を悼む気持ちに疑いはありません。でもあの姿をみて、多くの
国民は『これで犠牲者の問題も終わった』と勘違いしていませんか? 未補償のまま放
置されているんです。南洋戦訴訟の原告には、大勢の民間人が飛び降りたサイパンのバ
ンザイクリフの生き残りもいます。姉と自殺しようとしたが、『父が助けにくるかもし
れない』と、かろうじて踏みとどまった。老年になって記憶がよみがえり、『幽霊をみ
る』という人もいるのです。沖縄戦訴訟の原告79人中43人が戦争PTSDなど外傷
性精神障害でした。南洋戦は45人中28人です」

「44年、私は家族とパラオから疎開船に乗りました。船は沈没、3歳の姉は死にま
した。沖縄出身でパラオに移民した父は軍にとられており、母は姉と1歳の私を抱いて
いたはず。戦後ずっと悔やんでいました。父方の祖母は沖縄で米兵に撃たれて死んでい
ます。何の補償も謝罪もありません」

――国民を保護しなかった戦前の「不法行為」を弾劾(だんがい)し、賠償を求めて
いますが、沖縄戦訴訟の一、二審は「戦前は国家賠償制度がなかった」と門前払いでし
た。国家は賠償責任を負わないという「国家無答責」の考え方です。

「確かに国家賠償法は戦後の法律です。従来の空襲訴訟は、その戦後に的を絞り、国
会議員の『不作為』などで旧軍人との差別が放置されていると主張しました。敗訴でし
たが、判決文に『心情的には理解できる』『立法を通じて解決するべきだ』と書かせま
した。沖縄でも同じ主張はしています。ただ、私たちはどうしても国家の責任を問いた
いのです」

「明治憲法下でも他人を殺傷すれば、民法で不法行為として、加害者は損害賠償責任
を負い、その使用者も責任を問われました。私はこの民法の規定を根拠に、軍人の行為
について国の使用者責任(賠償責任)を問うたのです。高裁は軍人の個人責任を認めま
したが、国の使用者責任を認めず、矛盾だらけです。36人が上告しました。法廷を通
じ、国民に訴えたい。中南米やアフリカの旧植民地国では何百年も前の宗主国の責任を
問うているじゃないですか。一昨年、日本原水爆被害者団体協議会との交流も始まりま
した。被爆者援護法は、原爆の死者は対象外で、謝罪も補償もありません」

■     ■

――原則的な主張の一方で、妥協的とも言える空襲被害者らへの見舞金支給法案を検
討中の超党派国会議員連盟の集会にも参加し、発言しておられますね。

「国会議連が昨年まとめた素案は、生存身体障害者に限り見舞金50万円を支給する
という案でした。1100万円の補償金を要求する私たちの主張とはかけ離れています
。『ちゃんと主張しているのか』と沖縄で突き上げられました。もちろん私だって不満
です。でもまずは成立させてほしい。全面解決の糸口になります」

――戦争の被害者への国の賠償には限界がありませんか。

「考えてほしいのは、いまも政府は国民を救わない理屈を貫いていることです。04
年にできた国民保護法では武力攻撃事態の時、国に協力した国民が死亡・負傷したら損
害を補償する、とあるだけです。沖縄戦の『戦闘参加者』と同じ論法です。今、仮にミ
サイル攻撃を受け、万が一、住民が被害を受けても補償する仕組みも論理もないのです
。軍事基地が集中する沖縄は、また攻撃を受ける可能性が高い。被害を救済できない、
というなら、その危険を高めない工夫を尽くすべきですが、しているでしょうか。問い
たいのは、先の戦争の誤りだけじゃない。いまの政府の対応、判断なのです」

ずけやましげる 1943年、パラオ生まれ。千葉県弁護士会長などを歴任。沖縄戦
被害、南洋戦・フィリピン戦被害の各国家賠償訴訟弁護団長。

■■■■■■■

■国境超えた共感力、戦争防ぐ 大阪大学大学院准教授・木戸衛一さん

第2次大戦の敗戦国ドイツでは、旧西ドイツが占領解除直後の1950年、戦争被害
者全体に医療サービスや年金を給付する連邦援護法をつくり、さらに2年後、民間の戦
災者向けの負担調整法を実施して、統一後も維持しています。旧軍人・軍属だけに給付
して、民間人を放置している日本の現状を話すと、「なぜそこまで差別するのか」と驚
かれます。

ドイツも20世紀初頭の帝政時代までは、将校だけが国の支援対象でした。総力戦の
第1次大戦の後、傷ついた元一般兵士たちが「俺たちには何もないのか」と声を上げ、
制度を変えさせました。第2次大戦は沖縄のように国内が戦場になり、民間に深刻な被
害が発生しました。

戦後、領土の4分の1が旧ソ連、ポーランドに割譲され、ドイツ系住民が追い出され
ました。満蒙開拓団と違い、何百年も前からの住民が移動させられたのです。その数は
約1200万人、8割が旧西ドイツに移住しました。受け入れ側も大混乱です。

当時は冷戦時代。西ドイツ政府は国民統合のため、戦災者を放置できませんでした。
第1次大戦の時は革命が起き、皇帝が退位しています。昭和天皇が戦後も在位し続けた
日本とは、下からの突き上げも国家の危機感も違います。過大評価はできませんが、空
襲被害者や被追放民には、財産補償や居住支援が行われました。

ドイツは、ユダヤ人虐殺の歴史から戦争被害を言いにくく、旧西ドイツを含め全国的
に空襲の記憶が語られるようになったのは2000年代に入ってからです。空襲記録や
平和博物館の運動は日本の方がずっと盛んです。ただし、日本ではそれが社会運動にと
どまり、政治を動かせていません。父が東京大空襲で焼け出されたこともあり、私は大
阪空襲訴訟を支える市民運動に参加しましたが、強者優先の新自由主義の世の中で、補
償や謝罪の実現はますます難しい状況です。

でも大阪訴訟の元原告には、イラク戦争をみて「二度と自分のような思いをさせたく
ない」と参加してきた人もいます。イラクであれ、北朝鮮であれ、子どもたちが犠牲に
なってはいけない。国境や時代を超えたそんな共感力は、次の戦争を防ぐ力にもなりま
す。

(聞き手はいずれも編集委員・伊藤智章)

きどえいいち 1957年生まれ。専門は、ドイツ現代政治・平和研究。著書に「変
容するドイツ政治社会と左翼党」

https://digital.asahi.com/articles/DA3S13319739.html?rm=150

MLホームページ: https://www.freeml.com/uniting-peace

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