時代
みなさま
こんにちは。
森さん、海の臭い、心配ですね・・
テレビの平成特集を少しのぞいただけでも、事件や、文化、歌、スポーツ、
たくさんの出来事が「あった」30年だったけれど、「なかった」ことは
何だろう?そのひとつが「戦争」だと、今日の東京新聞が社説で書いて
いました。(東京新聞のHPで読めます)
ミサイルを撃ちあうような「戦争」はなかったかもしれない。けれど沖縄では
事故や事件が頻発し、今日も米軍機が住宅地の上を飛んでいます。福島の
原発事故は収束しておらず、いまだたくさんの方がふるさとを離れて生活
しているのに、原発は次々に再稼働しています。
元号はひとつの区切りかもしれないけれど、区切れない宿題を、私たちは
かかえている。
「昨日」までできなかったことを、「今日」動く。「今日」できなかったら
「明日」また動く。そうやって一人ひとりが、かけがえのない瞬間を生きていく、
その一瞬一瞬の連なりこそが「時代」なのかもしれません。誰かに区切られる
ものじゃなくて。
西岡由香
ーーーーー
ようこさん、
気づかってくれてありがとう。
とにもかくにも生きています。
ありとあらゆるところで「さしつかえ」は日常不断におこっているけれど、それをつつみこんだ全体としての精神身体は
まだ致命的に傷つけられてはいないのです。
「におい」をかぎわけることは、生きるうえでもっとも肝要な力のひとつです。
「海」から「臭い」においがつたわってくるとしたら、海が死にかけているのです。
こういうにおいには、ただ耐えていてはだめだとおもいます。
ゆかさん、みなさん、
「戦争」という「ことば」でなにをとらえるか、なにをイメージするかが問われているのですね。
時のながれを、なんらかの人為的な条件で「区切る」ことそれ自体が問われているのですね。
国家に固有の権利として「交戦権」があります。
日本国憲法はこの「交戦権」の行使をみとめていない。
近代国家は、その「権利」にもとづいて戦争をはじめたりおわらせたりしてきた。
わたしはコッケイだとおもっていますが、もともと、人間が人間であるかぎりまもらなければならない戒律の
根本的なもののひとつ「殺すなかれ」に違反する行為を正当化するために、近代諸国家は相互に
協約をむすんで、たとえば、正当な「宣戦布告」が必要だとか、「民間人」を殺戮してはならないだとか、
毒ガスや細菌兵器を使用してはならないだとかいった、さまざまなとりきめ=約束をしてきています。
しかし、第二次世界大戦のあとに地球上のあちこちで絶えることなくおこなわれている戦闘では、
こういった協約などまもられたためしがない。だいいち、「宣戦布告」をしてはじめた「まともな」戦争など
ひとつもない。「民間人=非戦闘員」と戦闘員との区別など幻にすぎなくなっています。
日本国がこの30年間戦争をしなかった、戦争が「なかった」などと言ってとくとくとしていたり
安堵したりするくらいコッケイナこともないでしょう。
いまげんに辺野古で「国家権力の一部である武装部隊」が非武装の「民間人」に
対しておこなっている暴力行使は、戦闘行為と区別しがたい。
国家のもつ「交戦権」の発動が「なかった」などと言っても、それは「ことばのあや」でしかないでしょう。
ゆかさんが、素朴に、すなおに、つぎのように言っていることには、深い真実のうらづけがあります。
《ミサイルを撃ちあうような「戦争」はなかったかもしれない。けれど沖縄では
事故や事件が頻発し、今日も米軍機が住宅地の上を飛んでいます。福島の
原発事故は収束しておらず、いまだたくさんの方がふるさとを離れて生活
しているのに、原発は次々に再稼働しています。》
これって、もはや「戦闘状態」ではないですか?!
かつて小泉首相が口にした「明言=迷言」を地でいくようなものです。
《元号はひとつの区切りかもしれないけれど、区切れない宿題を、私たちは
かかえている。》
「かもしれない」ではなく、「区切り」なんかじゃないんですよね、じつは。
みんながわすれてるが気づいていないことをひとつ指摘しておきます。
「令和」などというインチキ年号を考えだしてきめたのは安倍シンゾーという名のエセ総理です。
元号とは、「本来」なら、天皇がきめるはずのものなのに、こんかいは、その天皇を無視して、
安倍ソーリがきめた。天皇には事後報告をしたらしいけど、けっしてかかわらせなかった。
しかし、じつは、これ、法的には正当な行為なのですね。
なぜなら、日本国憲法によって、天皇は政治的行為を禁じられている。
元号制定はあきらかに政治的行為ですからね。
しかし、この行為のもととなる「元号法」それ自体が憲法違反でもある。
なのに、「国民」の大部分が一喜一憂している。
マスコミも「平成」さいごのとかなんとかいった番組一色です。
昭和から平成へのときは、逆に、おおさわぎどころか歌舞音曲をはじめすべてを「自粛」させられていた。
このとき、わたしは、「自粛」って「みずからつつしむ」ことであって、こんなふうに「いっせいに」、それも、
暗黙の強制によって「自粛させられる」のはおかしいじゃないかって書いたおおぼえがある。
あのとき、わたしの父も裕仁と相前後して死んでいたけど、わたしは、喪に服す行為はいっさいなさなかった。
《「昨日」までできなかったことを、「今日」動く。「今日」できなかったら
「明日」また動く。そうやって一人ひとりが、かけがえのない瞬間を生きていく、
その一瞬一瞬の連なりこそが「時代」なのかもしれません。誰かに区切られる
ものじゃなくて。》
そう! まさに、かけがえのないひとりひとりが、かけげのない瞬間を生きていく、
「その一瞬一瞬の連なり」が「時代」と呼ばれるようになる。
だれにも、それを、恣意的に(かってに)「区切る」権利などないはずです。
きのう、できなかったことを、きょう、しようとする、きょう、できなかったことは、
あす、しようとする。
しよおうとするとき「動く」のは「からだ=身体}です。
わたしたちはからだを動かしてなにかをして生きている。
からだは、生きているかぎり、動く。動かすことができる。
ひこ
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みなさま
こんにちは。
ひこさん、深夜のお返事ありがとうございました!
文字通り暗闇を照らすことばの灯りが、ゆく先を教えてくれます。
昨夜の「カウントダウン」。
テレビでは「令和まであと○秒」と出て、日付が変わると同時に
若者たちの熱狂に花火。バンザーイの声も。
それを見ながら思いました。こんなに盛り上がるんだったら、
来年からは「戦後75年カウントダウン」をやればいい。
今年も戦争しなかった。戦争しない一年が終わるまであと○秒。
「戦後76年」も「戦後77年」も、そうやってみんなで
お祝いしていく。形だけのお祭りかもしれない、けれど
その中から「戦争しない状態、って何だろう?」「戦後って
何だろう?」「じゃあ沖縄は?」「福島は?」「原発は?」
といった問いや検証や報道がもしかしたら生まれるかも
しれない。
テレビでは早くも令和生まれの赤ちゃんを伝えています。
この赤ちゃんが戦争に行く世の中にしたくないから、
今日も、私なりの「一瞬」を積み重ねていきます。
西岡由香
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コメント:
一切生命体は約四十億年の宇宙(時空)と共に進化(新化)した掛け替えの出来ない貴重この上もないものです。だから1993年にシカゴに世界諸宗教関係者七千余が集まった世界宗教会議で、宗教のあるなしに拘わらず守るべき「取り消し不能の教令」として不殺生・不偸盗・不妄語・(不邪淫翻案して)男女平等共同の(五戒・十戒の最重要四戒)を「地球倫理宣言」発布し(普遍人権宣言の権利の対応として)義務を要請しました(http://www.global-ethics.org/参照)。一切が相依相対の縁起(因縁生起)世界の存在ですから、一切は本来平等・自由・博愛・平和が真理であり、それを守るのが倫理です。誰にも殺し、盗み、虚言し、異性間・世代間関係を乱すことは出来ません。
国家とは個人の集団であり、その意味では個人より具体性がなく仮構体に過ぎません。その仮の組織・権力を濫用して戦争をし、世界終末の核の冬を誰かが行うなどという狂気・越権は許されません。勿論このような狂気・越権に対する抵抗は当然ですが、最重要四戒を破る交戦権など許され真理・倫理もありません。大局的・客観的真理・倫理は「国家と戦争の世紀」(吾我の罪悪:分離病患)を超えて「地球と平和の世界」(生命の聖性:全体健全)への転換を緊急・必須のものとしています(以下参照):https://heiwasekai.wordpress.com/2018/01/20/%E3%80%8C%E6%9E%A0%E7%B5%84%E8%BB%A2%E6%8F%9B%E3%80%8D%EF%BC%9Aparadigm-shift/
時代錯誤・世界違犯の国家主義・君主制度などを利用する権力者の狂気・越権を許さず、真理・倫理(平等・自由・博愛・平和)を一切衆生と共に友となって推進して、時代・世界を形成する努力を各人が覚醒して活動して行く権利があり、義務を守って共生・共栄して行くことが何よりも重要ではないでしょうか。戦後七十五年・七十六年・・・をやりましょう!戦争廃止元年・二年・・・をやりましょう‼衆生世界元年・二年・・・をやりましょう‼!