家康は水戸家を将来の保険として考えていたようだ
小対立に置き換わった。戦後は、皇国思想が民主主義と自由に糾弾されて葬り去られ、
大対立が成立する余地さえなかった。
皇国思想は、抑圧された尊皇攘夷思想の再来だった。ただし革命思想でなく、その《劣
化コピー版》だ。戦後日本は再び、閉塞(へいそく)と劣化、絶望が深まっている。状
況が厳しさを増すと、忘れたはずの過去が再来するだろう。《新たな尊皇攘夷思想がさ
らに劣化の度合いを進めたかたちでやってくる》と予期しなければならない。最近はび
こるヘイトスピーチやプチ右翼は、その前兆ではないのか。
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家康は水戸家を将来の保険として考えていたようだ。将来、徳川将軍家と天皇家が敵対
した場合は、水戸家は単独で天皇家に味方する。どちらが歴史の勝利者となっても、徳
川一族の「血」は守られる。実際には、徳川将軍家では将軍が「京」とつながらないよ
うに、徹底的にその「血」を排除していた。三代将軍家光の愛妾である「お万の方」は
公家の出身だが、子を産むことは許されなかった。反対に水戸家では、「京の最高の血
」を入れようとしていた。これは将軍家の暗黙の了解あってのことで、光圀が晩年よく
口にしていたのは「将軍家は親戚頭に過ぎぬ、我々の主君は天皇家である」という言葉
だった。
歴代の水戸家の藩主の正室は、ほとんど五摂家から正室を迎えている。子沢山であった
11代将軍徳川家斉の治世に、水戸藩の当主が33歳の若さで死んだ時、将軍家では家
斉の子を新藩主に押し付けようとしたが、水戸藩は抵抗し、新藩主として選んだのは関
白一条家の血を引く先代藩主治紀の三男の斉昭だった。この人こそ、幕末に攘夷派の大
親玉として活躍し、大老井伊直弼と争った水戸斉昭である。そして、その子が最後の将
軍となった徳川慶喜である。徳川慶喜は、勝てるはずだった鳥羽伏見の戦いで、薩長側
が「錦の御旗」を立てて進軍してきた時、腰砕けとなり軍艦で大阪から江戸まで逃げ帰
った最後の将軍だ。彼の父すなわち水戸藩の9代藩主の水戸斉昭、そしてその妻、つま
り彼の母、それは有栖川宮家の吉子女王だった。つまり、徳川慶喜には天皇家の血が入
っていた。先に将軍となった14代徳川家茂は天皇家の皇女和宮と結婚して「公武合体
」しようとしたが、水戸家ではそれ以前から実行していた。また、皇女和宮の婚約者で
ありながら「公武合体」のために婚約解消させられた有栖川宮親王は、後の幕府討伐の
官軍の東征大総督である。徳川慶喜とは「母方の従兄弟の子」という関係になる。
家康の計画でゆくと、「将軍家に逆らって官軍側に味方する」はずだった水戸家の人間
が、こともあろうに最後の将軍になってしまった。つまり、幕府は一番「大将」にふさ
わしくない人間を「大将」に選んでしまった。なぜそんなことになったか、八代将軍吉
宗が徳川御三家の他に、自身のエゴから「御三卿」を新設し、その御三卿の一つ、一橋
家に徳川慶喜が養子に入ったことにある。これで、家康のプランは台無しとなってしま
った。また、「大日本史」より先に家康のブレーンでもあった林羅山が中心となって「
本朝通鑑」全310巻が、神代から後陽成天皇までの正史(官史)で作られている。こ
の「本朝通鑑」の歴史観が、光圀をして「大日本史」編纂に走らせた。
「本朝通鑑」の中に天皇中国人説が書かれている。林羅山たちは儒教の徒だ。儒教の発
祥の地は中国、中国というのは単なる地名ではなく、「中華の地」つまり世界で一番優
れた国という意味であり、中華文明以外に文明は存在せず、中国の君主、皇帝こそ世界
唯一の存在だという。そこで、日本人はこれに反発し、この後に「日本こそ中国だ」と
主張し、山鹿素行は「中朝事実」なる本を書く。中朝とは中国、それは日本だと主張し
ている。戦国末期、公家の冷泉家の子に生まれた藤原惺窩は、秀吉の朝鮮出兵で捕虜と
なり、朝鮮人儒学者と親しく交わり、聖人の国(中国、朝鮮)に生まれたかったと愚痴
をこぼしている。その弟子が林羅山だ。 そして、日本で最も徳の優れた家系である天
皇家は中国から聖人の子孫が渡ってきたものと考え、その神話も、「大和」の外からき
た(天孫降臨)という。更に、林羅山は、天皇家を中国で最も理想的な王朝とする古代
「周」の太伯の子孫だとする。光圀にとっては、こんな話は絶対に許すことが出来なか
った。日本は神国であるという神道と儒教を合体させ、日本流の天皇絶対主義儒教を生
み出して反論した山崎闇斎もいるが、光圀の反論もこれに劣らなかった。
紀元前に孔子を開祖として始まった儒教は、当初は体系的にまとまったものではなく、
後に孟子や荀子も出て、相互に矛盾もあり、整合性のあるものではなかった。12世紀
に朱子(朱熹)が登場し、一つの哲学的学問体系として整理した。従って、これ以後を
新儒教と呼ぶ。朱子の学説は、この世界には「理」という普遍的原則があり、西洋科学
でいう「自然の法則」に似ているが、西洋と大きく違う点は、それ自体が「理性的」な
秩序をもたらすものとする点だ。この「理」を極める「窮理」が学問の本質であり、人
間はそれを窮めることで正しい存在になるという。西洋的にいうなら、それは「神」に
なる。朱子の新儒教は、それまでの儒教を体系的にしたという功績もあるが、大きな罪
作りもしている。それはあまりにも独断的な中華思想を肥大化させたことだ。
朱子が活動した12世紀は、当時の中国、「宋」の国が異民族に圧迫され、領土を侵略
されていた。世界一優れた帝国が野蛮人に圧迫されることはあってはならない、それが
現実に起こってしまった。しかし、あるべき理想に逃げ込んだのが朱子学だ。中華思想
という理想の極致こそが朱子学だった。その後、世界一、正義であるはずの中国が野蛮
人の「金」や「元」に滅ぼされてしまう。そこで、野蛮人(外国人)は排除すべきとい
う排他的、独善的な主張が朱子学の中に組み込まれてゆく。これは一種の過激な宗教だ
。日本では、後醍醐天皇が、これを尊王論に取り入れて熱狂的に信奉し、これに楠木正
成が加担し討幕運動を成功させた。幕末においても、朱子学によって強化された最大の
ものが尊王攘夷の運動だったといえる。
光圀は、亡命してきた当時の中国の「明」の学者(朱舜水)を水戸に招き、日本歴史上
の人物について朱子学による再評価を行った。そこで注目されたのが楠木正成である。
武家の出身でありながら天皇家に味方し、幕府側から見れば、時の将軍であった足利尊
氏に反逆した人間であった。かつて、学問好きで読書家だった家康は、「忠義」という
ものを最大の目標とする朱子学さえあれば、徳川家は末永く安泰だと信じた。それが、
家康の孫、光圀の代であっけなく裏目に出て、勤皇運動は倒幕運動となった。皮肉な朱
子学の結末ともいえよう。
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