この国はどこへ これだけは言いたい    1.作家・半藤一利さん・89歳 自分で考える力、失ったら終わり        2.評論家・森田実さん・86歳 政治家よ「反骨の士」であれ            3.作家・下重暁子さん・83歳 自立へ「直感」研ぎ澄ませ

特集ワイド

この国はどこへ これだけは言いたい 作家・半藤一利さん・89歳 自分で考える力、失ったら終わり

=藤井達也撮影

 インタビューしたのは「令和」に入って、ちょうどひと月半の日だった。先月89歳になった半藤一利さんは背筋をスッと伸ばし、ゲタを鳴らしながら、なじみの喫茶店に現れた。開口一番、「歴史探偵」に確認したいことがあった。新元号の考案者とされる国文学者の中西進さん(89)とは、東大文学部国文科時代の同級生だったとか。

 「仲いいんだよ。卒業論文で『万葉集にみる大化の改新と壬申(じんしん)の乱』をやると言ったら、周囲が『万葉集を全部暗記している“お化け”がいるからやめろ。あいつと比べられたら卒業も危なくなるぞ』と。それが中西です。結局、卒論は『堤中納言物語の短篇(たんぺん)小説性』にして、何とか卒業させてもらいました」と笑う。前年に占領が終わり、日本が独立を果たしたばかりの1953(昭和28)年のことである。忠告のかいあってか、大変な就職難にもかかわらず文芸春秋新社(当時)に入社した青年が後に昭和史の闇に光を当てて、その本質を伝えるべく「語り部」となった。運命の不思議さ、天の配剤と言わずして、何と言えばいいだろうか。

 30年、東京・向島に生まれた。敗戦の年、3月10日の東京大空襲で逃げ惑い九死に一生を得た少国民は「生と死は紙一重」であり、この世に「絶対」はないと悟った。長じて編集者となり、坂口安吾、高見順、永井荷風、亀井勝一郎、司馬遼太郎、松本清張……そうそうたる文士に間近で接する幸運を得て、歴史をつくるのは人間だと知る。

 「考えていることが普通の人と違う。面白くてねえ。安吾さんからは『ある一つの事実があっても、それが全てではない、必ず反対する史実が出てくる。その間はどうしたらつながるのか、よく考えろ』と」。若き編集者は史料の行間を読んで「事実」の先にある空白を埋め、「真実」を追究する大切さを教わった。「歴史探偵」誕生の瞬間である。

 当時の日本は、平和主義に覆われており、太平洋戦争と昭和史の勉強をすることは、ジャーナリズムの世界でも「変わり者」扱いされたという。「名字が半藤だから『あいつは反動分子だ』とね。でも応援してくれる人は必ずいるもんです。当時担当していた伊藤正徳さんが病床から『このまま勉強を続けなさいよ。歴史は学べば学ぶほど深くなるし、教訓が生まれてくる。この国の後世のためにも、途中で放り投げたりしないようにね』と言ってくれました。やめようと思ったこともあったんですが、それからは本気で勉強しましたよ」。「連合艦隊の最後」などの著作で知られた伊藤の「遺言」が、まだ無名の青年に「日本のいちばん長い日」を書かせ、「昭和史」の大仕事に挑ませたのである。

 後年、専業作家となった半藤さんは首尾一貫して平和の尊さを書いてきた。ふと、中西さんが不戦を誓った憲法9条を「世界の真珠」とたたえたことを思い出して話題を振ると、「若い頃から彼は言っていましたよ。『しっかりと守った方がいい、これは宝物なんだから』ってね。その点でも僕らの意見は一致していたね」と言うと、遠くを見つめるような目をした。

 初めて知ったことがあった。<もはや「戦後」ではない>。56年度の「経済白書」が高らかにうたった一節。それは英文学者の中野好夫が「文芸春秋」56年2月号に寄稿した評論から採られたことは有名だが、半藤さんがその担当だったとは--。「うまいタイトルだろ。昔はちゃんと働いていたんだよ」と謙遜するが、編集者時代は「名デスク」として数々の企画をものしてきた人である。

 退職後もその眼識と手だれの筆はいかんなく発揮され、この国の将来について<あの日の慟哭(どうこく)と嗚咽(おえつ)が遠ざかるにつれて、日本人は見事に変貌しはじめる>(「日本国憲法の二〇〇日」)と看破した。いわく戦争で<死ぬ必要がなくなり、いまや生きるための欲望に憑(つ)かれてしまった人びとの関心のなかには、天皇も憲法もこれからの日本も、いや隣人も他人もなくなる。生きぬくために、自分のことだけしか考えられなくなる>と。

 嫌な話を聞いた。「平成」の30年間を読み解くキーワードの一つ「IT革命」によって多くの恩恵を受けたのは周知の事実である。一方で、二次元の言論空間では善悪二元論や黒白・面白ジャーナリズムが大手を振り、匿名による罵詈雑言(ばりぞうごん)があふれている。

 「電車に乗ると誰も彼もがスマホに夢中でしょ。膨大な情報に簡単に接して分かった気になって、自分で考える力を失っているんじゃないかねえ。判断停止だよ。インターネット上の訳の分からない意見に火がついて熱狂そのものになり、雪崩現象のように、ある種の権威が人々を引っ張っていくことが起きるんじゃないか」。軌を一にしてバブル経済がはじけて長きデフレに陥った平成ニッポン。大災害も度重なり、目先の生活を守るために国民は内向きになった。

 「しょうがないっちゃ、しょうがないんじゃないの」。あくまで半藤さんは冷静である。

 「よく歴史に学べ、というけれど、そうじゃなくて、歴史を学べと。サアーッと表面をなでて親しみが湧いたら、もう少し調べようという気になるでしょ。その繰り返し。だから、まずは歴史を学ぼうと。そう言っているんだけど、最近妙な歴史になってきているんだよな、昭和史も書く人によって……。ネットでは私のことを『反日』呼ばわりしてるんだってね」

 若き日の半藤さんは本業の合間を縫って多くの元軍人を訪ね歩き、「真実」を探求する日々を送った。「自己弁護したり、美化したりする元軍人もいました。軍中枢にいた人たちは死んじまったし、もう聞き歩くこともできないからねえ。伊藤さんの言葉を思い出しますよ。『日露戦争の時、事実を残さずに、神話的な美談にしてしまった。東郷平八郎も、乃木希典も神社になった。日本は無敵だということで、ばかな戦争を繰り返した』って。昭和10年代に僕らが習った歴史では、日露戦争は聖戦でした。何だかまた同じようなことが繰り返されてきているのかなと。だからこそ今、できるだけ公正な歴史を学んだ方がいいですよ、と言いたいね」

 元首相で海軍大将の米内光政は、日中戦争から太平洋戦争に至る日本国内の流れを「魔性の歴史」と呼んだ。先を見通せない不安な現代にあって、半藤さんは再びこの国が負の歴史を繰り返しかねないと危惧しているのだ。なかでも気になるのが、現政権の言い換えだという。

 「ヘリ搭載の護衛艦を空母化しても『多用途運用護衛艦』だと。『積極的平和主義』って何ですか。戦前の日本が国民をだましたように、意味をごまかしているんじゃないでしょうか」

 「昭和の失敗」を振り返る時、天皇の存在を抜きにしては語れない。今度の令和の始まりを、メディアは奉祝ムードたっぷりに報じて物議を醸したが、半藤さんも60年前、上皇、上皇后両陛下のご結婚に合わせて創刊した「週刊文春」のトップ記事を書いていた。<馬車がゆく、砂利がきしむ音がする、その音は何百万の戦死者のうめきと聞こえるであろう>。「若気の至り」と恐縮するが、当時の世相を誠実に活写したものといえる。そうした不戦思想は昭和-平成-令和の皇室にあって、連綿と引き継がれているという。

 「今の上皇陛下は戦争体験がおありだからね。これまで何遍か、吹上御所でご夫妻とお話ししたことがありますが、例えば沖縄について、琉球処分から戦史、今日のことまで、私が知っているよりも、はるかに陛下はご存じでした」

 実は半藤さん、昨年の終戦記念日に秋篠宮家の長男悠仁さまに昭和史を講義していた。5日前に広島の平和記念公園を私的に訪れたばかりの悠仁さまから「なぜアメリカは広島に原子爆弾を落としたんでしょうか」と質問されたという。「秋篠宮さまも私の書いた本『あの戦争と日本人』を手に、『統帥権とは本当にどういうものだったのでしょうか』などと熱心に尋ねられた。改めて天皇家はこんなに勉強なさっているのかと驚きました」。こうした不確定な時代において、国民統合の象徴として、天皇の存在意義が一層大きくなるのでは、と半藤さんは見ている。

 <世の中は地獄の上の花見かな>。北方領土を巡る衆院議員の「戦争」発言など、どこか政治のたがが外れているように思えてならないと私が言うと、小林一茶の句を教えてくれた。

 「近ごろこんな感じでしょ。政治家のレベルが落ちたのは、国民の意識が劣化したから。荘子は『生に涯(はて)あり、されど知に涯なし』と言いました。ネットですぐに分かった気になっても、そんなもんじゃない。たちまち人生が終わっちゃうよ。自分で考えないとね」【中澤雄大】


 ■人物略歴

はんどう・かずとし

 1930年東京生まれ。疎開先の新潟県長岡市で終戦を迎えた。東大卒業後、文芸春秋入社。「週刊文春」「文芸春秋」編集長、取締役などを経て作家。「漱石先生ぞな、もし」で新田次郎文学賞。「昭和史」で毎日出版文化賞特別賞。2015年菊池寛賞を受賞。

 

ーーーーー

特集ワイド

この国はどこへ これだけは言いたい 評論家・森田実さん・86歳 政治家よ「反骨の士」であれ

=玉城達郎撮影

 梅雨の晴れ間の昼下がり、政治評論家の森田実さん(86)と、本人が行きつけというカフェで待ち合わせをした。半世紀もの間、政界を表裏から眺めてきた「ご意見番」は、昨今の日本の政治をどう見るのか。コーヒーが運ばれてくる間も惜しんで、最近のトピックスをふると、森田さん、早くもご立腹だ。

 矛先は安倍晋三首相とトランプ米大統領による海上自衛隊の護衛艦「かが」の視察。両首脳がそろって自衛隊と米軍を激励するのは初めてだ。自衛官や在日米軍兵士ら約500人を前に、安倍首相は「日米同盟は私とトランプ大統領のもとで、これまでになく強固なものとなった。我々が並んで立っていることがその証しだ」と胸を張った。

 「あのシーンを見て、安倍首相はいろいろと踏み越えてしまったと感じました。『一体化』という名のもとに、自衛隊が米軍に従属しているという事実を公にしてしまった。世界や国民に宣言する形でね」

 憂いの色は濃い。「日本は憲法9条のもと、外交努力を重ね、国際社会の信頼を得てきました。米国の世界支配に日本が追従すれば『米国と共に戦争する国』というイメージが広がり、国益に著しいマイナスをもたらします。つらい……」。絶句した。

 日本国憲法が施行された1947年、中学3年生だった。暗記するほど読み込み、「よくできた憲法だと感じ入った」。当時、国民は「二度と戦争は嫌だ」「平和な国をつくりたい」と願っていた。「9条はそうした国民の思いそのものだった。『お仕着せ憲法』と批判する人がいますが、平和憲法が国民に定着しているのは明らか。安倍首相は改憲を目指したおじいさん(岸信介元首相)の思いを肩代わりする必要はありません」

 森田さんは「平和を守ることこそが政治家の仕事」と断じるが、いまの政府は「それと逆を向いている」。護衛艦「かが」は今後「空母化」され、米国から購入するステルス戦闘機F35が搭載される。新たな105機の購入額は1兆円超に上る。

 「何のための空母化なのか。日本が米国に追従し、専守防衛を逸脱しようとしているのは明らか」と森田さん。安倍政権のもとでは2014年、歴代政権が「憲法上許されない」としてきた集団的自衛権の行使を認める「解釈改憲」がなされ、戦後の安保政策を大転換させた。15年には安全保障関連法が成立、17年には同法に基づき、「米艦防護」の実施に踏み切った。「時の政権が恣意(しい)的に憲法を骨抜きにすることは許されない。日本政府の従米主義、ここにきて極まれりという思いがしてなりません」

 日米一体化の影響が最も深刻なのが、全国の米軍専用施設の7割が集中する沖縄だ。森田さんは沖縄と「浅からぬ縁」がある。「56年に米下院軍事委員会が『プライス勧告』を出した時、私は全学連(全日本学生自治会総連合)の平和部長でした。国会で集会を開くと、大きな反響があった。米軍は『銃剣とブルドーザー』で沖縄住民の土地を強制的に奪い、地元では『島ぐるみ運動』が起きた。本土でも世論が高まった。それ以来、私の中で沖縄は気がかりな存在であり続けています」

 訪沖は30回を超える。15年には名護市辺野古に赴き、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設予定地が一望できる丘に立った。地元のおじいやおばあたちが座り込む「テント村」にも足を運び交流した。ある女性から「子どもや孫のために沖縄の自然を残したい。日米同盟がどんなにひどいことをしても屈しない」と決意を聞いた。

 脳裏に55~57年、東京都砂川町(現立川市)で展開された「砂川米軍基地拡張反対闘争」の光景がよみがえってきた。米軍立川基地拡張に伴う土地収用に反対し、住民らが起こした「町ぐるみ」の運動だ。当時、森田さんは学生を指揮。56年10月には、測量を阻止しようとした住民と警察との間で衝突が起き、多数の負傷者が出た。「流血の砂川」の現場にも立ち会った。

 「砂川と辺野古の共通点は女性たちが立ち上がった点です。砂川ではお母さんたちが『先祖の土地を取られるな』と頑張った。私たちは非武装で闘うことを誓った。どんなに正しい主張でも暴力を肯定したらおしまい。守勢一本と決めていました」

 闘争の記録をまとめた「砂川」(現代社)に、当時の様子が描写されている。<警棒が乱れ飛んだ。腹を突き、頭に振り下ろす。「ウーン」と腹をおさえて、よろめく学生、みけんにパッと血をにじませて、うつ伏す労組員。「やめろ!」「人殺し!」悲痛な叫びが畑地をおおった>

 無抵抗の運動に世論の支持が集まり、政府は測量中止に追い込まれた。森田さんは「政府の方針を撤回させるには、世論の動きも大きく影響します。それだけに在沖米軍問題に対する本土の関心の乏しさが気がかりです」と語る。

 終戦を迎えた時、森田さんは中学1年生だった。ラジオから流れる玉音放送を聞いて、「死なずに済んだ」と心底安堵(あんど)した。だが、戦地に赴いていた長兄の戦死通知が届いたのは、終戦7カ月後の46年3月だった。「母が仏壇の前にじっと座り、悲しみに耐える姿が脳裏に焼き付いています。母を元気づけようと、家事を手伝い、畑仕事をし、勉強も懸命にやった。しかし、悲しみを癒やすことはできませんでした。こうした悲しみが至る所で生まれるのが戦争です。反戦平和を強く願うのは、二度と母のような人を見たくないからです」

 戦後74年。丸山穂高衆院議員は北方領土返還に関し「戦争しないとどうしようもなくないか」と発言した。その話題に及ぶと、森田さんは憤りのボルテージを一段と上げた。「あの議員の見識のなさは指摘するまでもありませんが、そうした発言を擁護する風潮はもっと危険です。ひとたび戦争が起きれば、最も深刻な被害を受けるのは国民です。私たちは有権者として平和を重んじる政治家を選ばないといけません」

 参院選が近い。「国民の声に耳を傾け、政治に生かしてくれる人を見極めることです。安倍政権は身内へのえこひいきが過ぎ、自ら放つ『悪臭』に気づいていません。与党内にはこの悪臭を絶とうとする動きがない。野党も安倍官邸を巨大なガリバーのように恐れて無力感に陥っています。心ある与野党議員の皆さん、今こそ『反骨の士』となるべきではありませんか。たとえ一人になっても、信念のために闘うべきです」

 重い病を患い、近年は第一線から退いていたが、政治の現状を憂え「復帰」を決意している。「せっかく三途(さんず)の川から戻ってきましたから、命続く限り平和の尊さを訴えたい。つらく苦しい戦争を体験した者の使命としてね」

 私たちが平和の尊さを訴える声を弱めた時、軍靴の足音がまた一歩、近づいてくるような気がした。【鈴木美穂】


 ■人物略歴

もりた・みのる

 1932年静岡県生まれ。東大卒。全学連、共産主義者同盟(ブント)の幹部として砂川闘争や安保闘争に関わる。雑誌編集者などを経て政治評論家に。著書に「森田実の永田町政治に喝!」など。

 

ーーーーー

特集ワイド

この国はどこへ これだけは言いたい 作家・下重暁子さん・83歳 自立へ「直感」研ぎ澄ませ

=宮武祐希撮影

 平成から令和へ元号が変わろうとするその時、作家の下重暁子さんは軽井沢の山荘で、見るともなくテレビを見ていた。画面に映るのは新元号の幕開けを祝おうと、皇居前に集まった大勢の人たち。10秒前からはカウントダウンを刻む声がわき起こり、その瞬間には「万歳!」の歓声も上がった。その光景に下重さんは衝撃を受けたという。

 「お祝いするのは結構なんですよ。そういう気持ちがみんなにあるというのは分かります。けれども、あまりにも多くの人が宮城前に集まったのには驚きました。準備してきたのか、誰かが渡したのか知りませんが、手に日の丸の小旗を持って振っていた人もいましたね。戦争を知っている世代としては、あれはどこかで見た風景だなあ、なんて思いましたよ。あんまりいい感じはしませんでしたね」

 2・26事件(1936年)が世間を騒がせた3カ月後に生を受けた。父は陸軍士官学校を卒業したエリート軍人。事件の首謀者の一人、野中四郎大尉と同期の36期生だった。

 「当時、父は宇都宮にある陸軍第14師団に勤めていました。思想的には事件を起こした皇道派でも、対立した統制派でもなく、『中道派』だったようですが、事件が起きた当日は一報を聞いて上京を決め、母に『戻れぬかもしれぬ』と告げたそうです。行動に移す前に気づいた上官に止められて、結局行けなかったのです」

 おかげで「反乱軍の娘」にはならずに済んだ。だが小学3年生で迎えた敗戦は、軍人の娘にとって大きな転機となった。

 父は公職から追われ、始めた仕事はことごとく失敗し、生活は一変した。さらに深い挫折として心に刻まれたのは、大人たちの変節ぶりだった。「天皇陛下万歳だったのが、ころっと変わって、聞いたこともない民主主義の話をしだす。あんなに信用できないものはありません。父も、それに従っているだけに見えた母も、学校の先生も、みんな信じられなくなりました」

 敗戦を経験したことが、「お嬢さん」だった下重さんを、自立した一人の人間として立たせる原点となった。

 <世界がガタガタと崩れてくる。一昨年あたりからそんな不安の中にいる>

 5月に出版した初の自伝的エッセー「天邪鬼(あまのじゃく)のすすめ」の前書きに、下重さんはこう記した。何が不安に陥れるのか。

 「アメリカのトランプ大統領の出現が大きいと思います。アメリカは世界の1、2位を争う大国です。その大統領であるトランプさんが自国の経済第一主義であることは、日本への影響も大きい。日本は今や経済一辺倒でしょう? これまで我々が良しとしてきた価値観、例えば文化とか教養とか、そうしたものが意味を持たなくなってきている。安倍晋三首相だって、経済のことしか言わないじゃないですか。本当に悲しいですよ」

 敗戦でひっくり返ったはずの価値観が、また元に戻りつつあると感じている。

 「父もそうでした。もともと画家志望で繊細な感覚の人でしたが、陸軍幼年学校からたたき込まれた価値観はそう簡単には薄れない。戦後、国の変化とともにそこに戻っていきました。それは、私にとっては許せないことだったので、反抗することで乗り越えてきましたね」

 だが、それでも父を認めていることが一つだけあるという。それは、自衛隊からの誘いを断ったことだ。「自衛のための組織だといっても、私に言わせれば自衛隊は軍隊です。陸軍や海軍をモデルに、その手法を取り入れてできたのですから。父の同期生は招かれて陸上幕僚長にまでなっています。軍国主義の指導者だったということで、公職追放されていた人ですよ。音楽や行進曲なども戦時中のものが使われているんです」

 口調が熱を帯び、一つ一つの言葉が鋭く心に突き刺さってくる。「日本という国は、誰も責任を取らない国だと言わざるを得ません。令和になりましたが、私は元号を使いません。なぜか? 元号が変わることで、すべてがチャラになっちゃう。戦争は昭和の出来事でもう終わったこと、平成も終わって、令和になったから過去はもう関係ない。そんな国でいいんですか」

 ベストセラーになった「家族という病」や「極上の孤独」などの著書にも書かれているように、徹底して「個」にこだわってきた。結婚し、やむなく戸籍上の姓は変えたが、今なお選択的夫婦別姓の実現を待ち望む。

 「姓を変える気は全くなかったのですが、連れ合いは報道の仕事に携わっていて、特派員として海外に行くことが多かったので、事務処理上の無言の圧力を感じて、何度も言われるものですから、妥協したわけですよ。その後すぐ、しまったと思いましたが、別姓にするためだけに籍を抜くというのは当時理解が得られなかった。そういうことで、ずるずると来てしまったんですけれど、年を取るにつれ、自分の名前をなくしたまま死ぬのは嫌だと思うようになりました」

 死ぬ時は「下重暁子」として死ぬと決めている。そこまでこだわる理由は何なのか。

 「私は下重暁子という人間なんです。他のどこにも下重暁子はいないのよ。それなのに今、下重暁子は公式な書類のどこにもない。どうして私という人間が公式にいないんですか。それはおかしくないですか。私は不愉快ですよ。だって個人として認められていないということでしょ。世の男性は、姓を変えることは不便だろうとは理解できても、不愉快だということは理解していないと思いますね」

 朗らかに笑いつつも、一向に実現の兆しがないことを嘆く。「選択制なんだから、好きなようにすればいいわけでしょ。それすら認めないというのは、この国って本当に遅れていると思いますね。でも結局は国民が悪いのよ。そういう政権を選んでいるんだから。国民、つまり自分自身の責任なんです」

 「自分で食べる」(経済的自立)、「自分で決める」(精神的自立)を旨としてきた。

 「他人に縛られるのが一番嫌い。国であろうと親であろうと、人に管理されるのは不愉快です。自分のことは自分で管理したいし判断したい。そのための頼りのつえは『直感』ですね。好き嫌いも含めて直感には結構自信があります。それだけは本や新聞を読んだり、物事を繰り返し考えたりして研ぎ澄ましておこうと思います。私、死ぬまで仕事をしていたいけど、自分なりの判断ができなくなったら、発言するのはやめなきゃと思っています」。まだまだ、と言いかけたら、心配ご無用とばかりに「大丈夫です」。そして「いろんな会合に出て発言しても、私が一番過激ですからね。うっふっふ……」。

 外の土砂降りを振り払うかのような晴れやかな笑顔に、自立して生きる女性の強さを見た。【小松やしほ】


 ■人物略歴

しもじゅう・あきこ

 1936年栃木県生まれ。9歳の時、疎開先の奈良県で終戦を迎える。早稲田大教育学部を卒業後、59年アナウンサーとしてNHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。

Categories Uncategorized

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s

%d bloggers like this:
search previous next tag category expand menu location phone mail time cart zoom edit close