「核兵器は人間と共存できない」 高齢ヒバクシャの声を記憶にとどめる
今夏、広島、長崎に74回目の原爆の日が訪れる。核兵器の開発や使用、更に核兵器を使った威嚇などを禁じる核兵器禁止条約が国連で2年前に成立したが、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けて開かれた今春の準備委員会では、核保有国と非保有国の対立が浮き彫りとなった。核兵器なき世界はなお遠く、その廃絶を悲願とする被爆者の平均年齢は82歳を超えた。今年もまた、その声に耳を澄ませ、その思いを伝えたい。【ヒバクシャ取材班】
木戸季市(きど・すえいち)さん(79)=岐阜市
5歳の時、長崎市の爆心地から約2キロの自宅前で被爆した。17年6月から日本被団協の事務局長を務める。
来年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で議長を務めたサイード・ハスリン氏が来日した7月中旬、日本被団協を代表し外務省で意見交換した。「核兵器は人間と共存できない」と伝えた。
国連本部で今春開かれた準備委員会では、核保有国側と非核保有国側の対立が顕在化した。しかし「世界の流れは核兵器廃絶に向かっている。楽観的になるのも問題かもしれないが、悲観するのはもっとだめだ」と強調する。「核戦争が起きれば人類は絶滅する。国益を論じ合うのではなく、核兵器とは何かを話し合ってほしい」
田中熙巳(たなか・てるみ)さん(87)=埼玉県新座市
旧制長崎中学1年時に被爆。宮城県の被爆者団体事務局長などを経て、17年6月から日本被団協代表委員。
代表委員を務める日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)ではメンバーの高齢化が進む。「見届けることはできないにしても必ず実現できる」。6月の定期総会後の記者会見で高齢化について聞かれると、核廃絶への強い思いを改めて口にした。「戦争はしてはいけないと全ての市民が受け止めれば、国の為政者を動かして廃絶も可能だと思う」と力を込めた。
原爆症認定訴訟でも高齢化が進み、判決を聞くことなく亡くなる被爆者もいる。「私たちには時間がない。政府に解決しようとする意志はあるのか」と訴える。
張本勲(はりもと・いさお)さん(79)=東京都
通算3085安打を放った元プロ野球選手。爆心地から東に2・3キロ離れた広島市内の自宅で被爆した。
被爆した時、張本さんは5歳だった。あの日を脳裏に刻む「最後のメッセンジャー」として、体験を語り始めたのは還暦も過ぎた頃。最愛の長姉を奪った原爆への怒り、そして悔しさを忘れてはならぬと、メディアを通じ体験を伝えてきた。
しかし、70代最後の8月6日を広島で迎えたくないという。「行かなきゃいけないとは思うんだけどね。怒るのも、疲れたような気がするんだよ」。電話口に聞く声が、どこか寂しい。
「情けないけどね、年ですよ」。自嘲するような笑い声に続き、言葉を添えた。「若い人にバトンタッチする時期なのかもしれないね」【平川哲也】
原広司(はら・ひろし)さん=今年4月に87歳で死去、原爆ドームを描き続けた画家
国鉄に勤務していた頃から、修学旅行生らに被爆体験を語る活動の傍ら、30年以上にわたり原爆ドームを色紙に描き続けた。「平和を求める原爆ドームの心を描かなくては」。焼けつくような夏の日も雪降る日も平和記念公園に足を運び、原爆ドームに向き合ってきた。その数は3400枚を超える。
数年前に足腰を悪くしてからも絵と記憶を頼りに自宅で絵筆を握り続けた。私が初めて取材をさせてもらったのはそんな頃。公園まで行けないもどかしさから「どうもいけない」と言って、拳で何度も膝をたたいていた姿が印象的だった。
普段は穏やかだが、核廃絶への思いを語る言葉は鋭かった。「近づいて爆風や熱線の恐ろしさを見ないと実態はわからない」。2016年5月、米大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏が原爆ドームを遠くから望んだだけで帰ってしまった時は憤りをあらわにした。
色紙は学校などに寄付していた。私も1枚いただいた。原爆ドームの手前に満開の八重桜が広がっている絵。「私が元気な間はがんばるけど、これからはあなたに責任があるんですよ。どうかそのことを忘れんようにしてください」。色紙を眺めるたびにその言葉を思い出す。【竹内麻子】