ナガサキノート:辻本正義さん(1935年生まれ)

 昨年、先輩記者から辻本正義(つじもとまさよし)さん(84)を紹介された。辻本さんは西浦上国民学校(現・西浦上小)5年だった10歳のときに、爆心地から約1キロの長崎市西郷(現・油木町)で被爆。昨年夏に長崎原爆被災者協議会が開いたイベントで、初めて人前に出て被爆体験を話した。

 なぜ今話そうと思い立ったのだろうと関心を抱き、現在も油木町に住む辻本さんを記者は訪ねた。快く迎え入れてくれた辻本さんだが、話題が戦争のことに向かうと表情が曇った。「あれは本当に悲惨やった。原爆の話はしとうなか」

 母校は原爆で校舎が全壊するほどの被害を受けた。あの惨禍について十分に調査され、継承されているのか、という思いを抱き続けてきた。もう自分のような悲しい思いをする人を生まないため、少しでも当時の記録を後世に残そうとの思いで語り始めたという。それでも、当時を振り返るとつらくなる。辻本さんは複雑な葛藤を抱えながら、少しずつ自分の体験を語ってくれた。

【3Dで特集】ナガサキノート あの日、人々の足取り
1945年8月9~10日に爆心地数キロ圏内にいた人を中心に約150人について、証言から推測される足取りを地図上に再現しました。一人ひとりの証言が読めます。

のどかな日常が一変

 辻本さんは、6人きょうだいの次男として生まれた。「小柄でおとなしい子どもだった」。山の上にあった長崎市西郷の自宅の窓から外を眺めていることが多かったという。1歳下の弟・幸一郎さんがいるときは、近所の田畑で、せいろにひもを結びつけたものを引きずり、からんころんと音を鳴らして遊んだ。

 1941年に西浦上国民学校に入学。山をおりて通学するようになった。初めて間近で列車を見て、その大きさに驚いたという。「窓から見たらマッチ箱ぐらいの大きさやったのに、車輪だけで人の背丈ほどもあるなんて、たまげたなあ」

 朝は近所の子どもたちと連れ立って、「さくらさくら」や「茶摘み」などの童歌を歌いながら登校した。帰りは子どもだけで山を登るのは大変だろうと、祖母のハツさんか母のフヂエさんが迎えに来てくれた。だが、その年の12月に太平洋戦争が始まると、のどかな日常はがらっと変わった。

 ♪勝ってくるぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは~

 子どもたちが口ずさむ歌は、軍歌に変わった。大人たちと連れ立って、早朝に住吉神社長崎市住吉町)に「戦勝祈願」に行くこともあった。家の近くでは、田畑を潰して三菱長崎兵器製作所の寮や工場が建てられた。

 学校では昭和天皇に忠誠を誓うよう教えられ、校舎の横には天皇の写真をまつった「奉安殿」ができた。ラジオの大本営発表がある時や天皇の誕生日には、奉安殿から校内の講堂に写真が運び出された。子どもたちは写真に最敬礼をし、直立不動でラジオの発表や先生の読む教育勅語に耳を傾けた。

 「子どもやけん、大人の言うことが正しいと思っとった」。戦争一色に染まっていく世の中に、辻本さんが疑問を持つことはなかった。

登校中、機銃掃射の標的に

 戦況が悪くなると、ひっきりなしに警報が鳴るようになり、学校もよく休みになった。

 辻本さんは学校に行く途中、低空飛行していた戦闘機から機銃掃射の標的にされたことがある。ほかの子どもたちと無我夢中で走り、校門の外に放置されていた水道管に間一髪で逃げ込んだという。弾が水道管にぶつかる「ピシッ、ピシッ」という音が、今も耳にこびりついている。

 辻本さんが学校で教えられたのは、「空襲があったら目と耳を覆って地面に伏せろ」ということだけ。それが身を守る唯一の術(すべ)だった。避難場所は、校舎の脇に掘ってある全長60メートルほどの防空壕(ごう)だけ。「いま考えたら、こんなにお粗末なことで勝てるわけがなかったと分かる」

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【動画】米軍によるガンカメラ映像の一部。米公文書館で入手し、編集した(音声なし)

 1945年8月9日、辻本さんはいつものように学校に向かったが、途中で警戒警報が鳴ったため家に戻った。自宅から数十メートル離れた田んぼで、母のフヂエさんと農作業をしていた。

 よく晴れた日だった。「飛行機が『ブーン』と音を立てて飛んでいたことは覚えとる」。今思えば、あれがB29だったか。

太陽の何倍も強い光

 山あいにある長崎市西郷は、空襲の標的になることが少ないと聞いていた。そのまま農作業を続けていると、太陽の何倍も強い光を感じた。その直後、「ドカーン」という爆音とともに10メートルほど吹き飛ばされて意識を失った。

 しばらくして、田んぼの水を吸い込み、むせかえって目が覚めた。フヂエさんと家に戻ると炎に包まれ、隣にある牛舎で牛が焼け死んでいた。フヂエさんは「あんたはあっちに行ってなさい!」と叫び、1人で布団やタンスを運び出した。弟の幸一郎さんは、近くの用水路に水をくみに行った時に被爆した。ちょうど爆心地の方向を振り返っていたのだろうか、体の前半分にやけどを負って皮膚がただれ落ちていた。辻本さんは、何が起こったのか分からなかった。

 10軒程度しかない小さな集落は、あっという間に火の海になった。辻本さんは幸一郎さんを背負い、フヂエさんとともに山の中腹あたりまで避難した。途中、幸一郎さんが「僕は天皇に忠義を尽くしきれずに死んでしまうのかもしれん」とつぶやいた。すぐにフヂエさんが「大きくなって立派な兵隊さんになるんでしょう」とたしなめた。辻本さんは、弟を助けたい一心で足を早めた。

 辻本さん一家は、今の長崎市小江原に住む親戚の家に身を寄せたが、十分な薬はなかった。幸一郎さんはやけどのつらさから逃れようと、うわごとのように「兄ちゃん、泳ぎに行こう」と繰り返したという。

 終戦を迎えた8月15日の朝、幸一郎さんは死んだ。

 「弟はまだ国民学校の3年生だった。9歳の子どもにあんなことを言わせて、何が戦争か」。当時を振り返り、辻本さんは憤った。その目には、今にもこぼれ落ちそうなほど涙を浮かべていた。

防空壕を掘っていて被爆した父も

 辻本さんの父・久右ヱ門(きゅうえもん)さんは、三菱長崎造船所の竹ノ久保工場で働いていた。8月9日は工場の外で防空壕を掘っている時に被爆した。何かの破片で頭を切るけがをしていたが、その日の午後3時ごろ、自力で歩いて辻本さんたちのもとへ戻ってきたという。

 当初はけがも快方に向かい、元気だったという久右ヱ門さん。だが、8月下旬ごろから突然けがが化膿(かのう)し、赤紫色の斑点が体中に現れるようになった。辻本さんは毎日、近くの山でツワブキの葉をとり、薬代わりに久右ヱ門さんの傷口に貼った。

 9月1日、祖母ハツさんのひざの上で眠っているようだった久右ヱ門さん。だが、辻本さんが「お父ちゃん」と呼んでも目を覚ますことはなかった。その日から3日間、ひどい雨が降ったため火葬ができず、辻本さんは久右ヱ門さんの遺体の隣で寝起きした。久右ヱ門さんの隣には、別の親戚の遺体もあった。たび重なる家族の死に、辻本さんは「なんて言っていいか、分からんかった」。

 久右ヱ門さんが亡くなってすぐ、国民学校が再開した。だが、木造の校舎は粉々に崩れており、まともに勉強ができる状態ではなかった。無事だった奉安殿だけが、ぽつんと立っていた。辻本さんはその様子を「亡霊みたいで、よく覚えとる」と話す。同級生には、すっかり髪が抜け落ちている女の子もいた。それでも、同級生と無事を確認し合えたことがうれしかった。

 授業は、原爆の被害を免れて残った教科書に墨を塗ることから始まった。「戦争や兵隊について書いてある部分を全部消していく。そしたら、接続詞しか残らなかった」

 新たに配られた教科書は、食物の栄養価などについて書かれた「何をどれだけ食べたらよいか」と、天皇制が廃止された後の社会に向けて歴史を学び直す「日本のあけぼの」という2冊だったと記憶している。「食べ物も何もかも足りない中で、みんな生き抜くのに必死だった」。辻本さんも、学校に通う余裕はなかった。

 国民学校が再開した直後から、母や親戚と土地をならして畑を作り、家族が住むためのトタン小屋を建てた。辻本さんは雑用係として働き、約2カ月間学校を休んだ。生活を立て直すことが最優先だったため、学校を休むことに負い目は感じなかったという。

 近所に住む同級生に「先生が『学校に来い』と言っとったぞ」と言われて、仕方なく登校した。久しぶりの授業は、まったく内容についていけなかった。今でも割り算が苦手だという。

「あの戦争なければ」今も怒りが

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【動画】思いを託された「モノ」をめぐる、人々の物語=西田堅一、上田幸一撮影

 1949年に学校を卒業してすぐ、辻本さんは建設関係の仕事を始めた。長崎市油木町の道路の整備などに携わり、秋には諏訪神社で営まれる「長崎くんち」の桟敷席も組んだ。

 その後、材木店に転職した。「少しでも生活がよくなればと、がむしゃらに働いた」。24歳になった1959年、それまでの貯金を崩し、今も住んでいる一軒家を建てた。家財道具は、母のフヂエさんが「あの日」に燃える家から救い出したものをずっと使った。

 家を建てて2年後の1961年、祖母ハツさんが死去した。その6年後、辻本さんは独立し、油木町の自宅の向かいに「辻本材木店」を開いた。

 フヂエさんは、朝から晩まで忙しく働く辻本さんの体や、店の経営状態を心配して口を挟んでくることも多かった。そんなフヂエさんも、1991年に亡くなった。「毎日がおふくろとの言い争いやった。でも、なんだかんだ言いつつも自分のことを理解して、見守ってくれていたと思う」

 辻本さんは、ハツさんとフヂエさんが生前に戦争について語るのをほとんど聞いたことがないという。「家族や家を失った自分たちの状況への悔しさはあったと思うが、恨みごとは言わなかった。『仕方がない』と、諦めの気持ちが強かったんだと思う」

 しかし、フヂエさんはよく「世が世になれば」と言っていたという。「世の中がよくなれば自分たちの生活もよくなる、という意味だった。自分に言い聞かせていたんだろう」

 辻本さんは、今でも「あの戦争がなければ」と悔しさや怒りがわき上がってくることがあるという。空襲のたびに街が燃えているのが見え、大きな音が聞こえてきた。戦後は破れたズボンの穴に新聞をくっつけたり、わらで草履を作ったりした。戦争は恐ろしく、苦しかった。

 なにより原爆で家族をなくし、家を失い、学校にもろくに通えなかった。「人生がまったく変わっとるもん」

 米国とロシアの中距離核戦力(INF)全廃条約破棄といった最近の国際情勢に、辻本さんは再び戦争が始まるのでは、という危機感をぬぐい去ることができないという。

 「戦争はダメですよ。私たちだけで十分ですよ」

 辻本さんは、まっすぐに記者を見てそう語った。そのまなざしに、辻本さんが戦争体験を話し始めた理由を見た気がした。(弓長理佳・24歳)