《再び訪ねて(2) 西山 進さん》

 

ナガサキノート・32【再び訪ねて】

反戦漫画、次世代動かす

写真:作品展の会場で被爆体験を語る西山進さん=7日、北九州市戸畑区拡大作品展の会場で被爆体験を語る西山進さん=7日、北九州市戸畑区
写真:1945年8月9日午前11時2分、爆心地から約3・5キロの造船所内で原爆に遭った=西山進さん作「あの日のこと」(クリエイティブ21刊)から拡大1945年8月9日午前11時2分、爆心地から約3・5キロの造船所内で原爆に遭った=西山進さん作「あの日のこと」(クリエイティブ21刊)から

《再び訪ねて(2) 西山 進さん》

 漫画家の西山進(にしやますすむ)さん(90)が7日、福岡市南区の入院先から、北九州市戸畑区で開かれている自作の作品展の会場に駆けつけ、被爆体験を語った。

 2016年に胃がんの手術をした。肺も弱り、酸素吸入器が手放せなくなった。車いすがなければ遠出ができなくなり、講話は以前のように長時間は難しい。今春、90歳を迎え、「被爆者がいなくなったら、被爆の実相をどう伝えていけばいいのか」と不安そうに話すことが多くなった。

 この日は、自身の被爆体験を描いた紙芝居を準備していたが、「これをやると、感情がこもるので、くたびれるんです」。だが、ひとたび紙芝居をめくると、言葉がほとばしり出るように語った。

 この10年ほど、「ナガサキノート」の取材をはじめ、私は西山さんの話を何度聴いたことか。

 西山さんは現在の大分県宇佐市で育った。1942年春、国民学校高等科(現在の中学校)を卒業し、長崎市の三菱重工業長崎造船所へ。戦艦「武蔵」の建造が大詰めだった。次第に戦況が悪化し、資材不足から大きな船は造られなくなった。

 45年8月9日、爆心地から約3・5キロの造船所内で原爆に遭った。翌日、救援隊として爆心地付近を縦断した。靴底から伝わった焼け跡の熱が忘れられない。遺体があちこちに転がり、何度もうめいた。あまりの多さにだんだん頭が空っぽになり、何も感じなくなっていったという。

 体験を、自ら描いた紙芝居を見せながら語る。言葉だけで伝えるよりもイメージが湧いて分かりやすく、子どもたちも引きつける。漫画家の真骨頂だろう。

 戦後は炭坑労働者を経て、絵の腕を見込まれて労働組合の書記に転じた。広報やビラ、集会のポスターやデモのプラカードの絵を描いた。50年6月に朝鮮戦争が起きると、「戦争はもうゴメンだ」と絵入りの壁新聞を作った。「漫画で訴える」という原点となった。

 一念発起して東京に行き、漫画で一本立ちしたのは40歳を過ぎてから。労組や市民団体の漫画を請け負った縁から、被爆者運動と出会った。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)にイラストや漫画紀行を寄せた。4コマ連載「おり鶴さん」は79年のスタートから足かけ40年になる。

 「原爆を、戦争を、二度と繰り返してはならないと伝えるのが被爆者の使命」。そんな思いから、外国にも出かけた。米国、韓国と北朝鮮、ギリシャ、リトアニア、シリア……。外国語ができなくても、即興で漫画を描けば人の輪ができた。紙芝居はかさばるため、障子紙を使って原爆絵巻を制作。広げると長さ9メートルになり、注目を集めた。

 行動範囲は被爆者運動にとどまらない。脱原発を求めるデモ、安保法や共謀罪に反対する集会、メーデーに手製のプラカードを持って駆けつける。

 そのひたむきさが次の世代を動かす。

 北九州での作品展は、被爆者の聞き書きを20年以上続けてきた女性たちが中心になって企画した。長崎では、平和学習の出前講座を手がける市民グループが西山さんの紙芝居をレパートリーに加えた。

 西山さんの姿に励まされた人たちが発信を始め、今度はその姿に西山さんが励まされている。(佐々木亮・54歳)

 通算3556回目。「再び訪ねて」シリーズは7回の予定。

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