「イエスマンの集まりになったら国は滅びる」 中島秀人・東工大教授
日本学術会議の新会員任命拒否は、226に上る人文・社会学系の学会や協会が共同声明を出すなど、学術界から問題視する声がやまない。科学史が専門の中島秀人・東京工業大教授は「イエスマンの集まりになったら国は滅びる。日本の未来が左右される問題だ」と、意に沿わない人材を排除するかのような政府の姿勢に危機感を抱く。【五味香織/統合デジタル取材センター】
任命拒否、組織「改革」に「ここまできたか」
――一連の問題を、どのように見ていますか。
◆政府は、日本学術会議が成立して10年もたたない1950年ごろから、その批判機能を少しずつ奪ってきました。次は組織を潰す話になるのではないかと思っていたら、行政改革の対象にするという話になりました。予想通りというか、ここまできたかという思いです。
――批判機能を奪ってきたとは。
◆当初の学術会議は、学術政策や予算の分配に強い影響力を持っていました。当時は権威がある組織だったので、代わりの団体を作る方策が取られました。59年に科学技術会議(現総合科学技術・イノベーション会議)、67年に学術審議会(現科学技術・学術審議会)が作られたのです。政策決定は科学技術会議が、予算配分は学術審議会が担うようになり、学術会議は権限を奪われていきました。学術会議には、提言、報告、政府の諮問に対する答申などの機能もありますが、これらを含め70年代から、社会的な発信力や影響力がほとんどなくなってきたと思います。
――今、さらなる「改革」の対象になっています。
◆自滅の方向に踏み出したのではないでしょうか。ここで学術会議を変な形で改組するようなことがあったら、世界中の笑いものになりますよ。
2003年に学術会議が海外のアカデミーについてまとめた調査報告書には、「アカデミーの活動水準は、その国の文化の尺度を反映している」などと書かれています。レベルの高い社会は、それなりにきちんとしたアカデミーを持っているということです。現存する歴史あるアカデミーは、例えば1660年に創設されたイギリスの王立協会で、ニュートンなども活躍した組織です。フランスのアカデミーも1666年に王立として始まりました。
多くのアカデミーは終身制で、日本のように任期はありません。また、海外との大きな違いは、日本は予算が年間約10億円と著しく少ないことです。そのうち事務局経費だけで何億円もかかっています。
王立協会は予算規模が小さい方ですが、それでも89億円で、うち半分は国費です。米国に至っては215億円あり、大半が連邦政府の補助金。人口比で考えても、日本政府は米国の3分の1の70億円ぐらい出しても当然でしょう。まして10億円を巡って多いかどうかなどと議論するのは、日本の恥さらしです。実際は、会議を開くにもお金がなく、集まるにも半年分ぐらいしか経費がないのです。
「学者の政府」なくしていいのか
――そもそもアカデミーは必要な組織だと思いますか。
◆もし消えるとしたら、学者の政府がなくなるようなものです。国を代表する人がいないと、海外と話し合いができないでしょう。国家間の話し合いは政府同士で行うのと同じで、学者の政府がないと、学術的な関わりがうまくいきません。国際的な学会も、学術会議の名の下で開催すると海外からの見られ方が違います。学者個人としても、アカデミーの会員であれば一目置かれます。
対外的な意味だけでなく、国内でも一定の権威を持った、政府などに助言をする機関が必要です。今、「権威」というものは敬遠されがちですが、それが存在しないと社会は混乱に陥ります。
例えば新型コロナウイルス対策でも、感染症そのものへの対策は医学の専門家に任せればいいけれど、社会的な問題は学術会議が前面に立って対応すればよかったと思います。医療の専門家が困っていたのは、自分たちの発言が専門外である社会に大きな影響を与えてしまうという状況です。学術会議であれば、さまざまな分野の専門家が知恵を出すことができたでしょう。
――学術会議は戦後に発足しました。
◆連合国軍総司令部(GHQ)は、帝国学士院、学術研究会議、日本学術振興会という旧学術3団体を民主化しようとしました。軍事研究からの切り離しも並行して行われ、大学でも軍事研究にかかわった人が追放されたりしました。1949年、新たな組織として日本学術会議が発足します。一方で一時、学術会議の傘下に置かれた学士院は結局存続し、学術振興会は後に、科学研究費補助金(科研費)を分配したりする特殊法人として復活します。
――会員の選出方法は変化してきました。
◆2回変わりました。最初は選挙制、次に学会からの推薦制。現在は現会員が推薦した人の中から新しい会員候補を選ぶ形です。選挙制は、当時としては民主的で合理性もありました。戦後は学者の人数も少なく、大学の数も限られた。それぞれの分野で、誰が優れた研究者なのか、よく見えたのです。ただ、次第に学術界全体の規模が大きくなり、選挙も動員合戦になってしまった経緯があります。
――かつては学術会議自体の存在感も大きかったのでしょうか。
◆そうですね。1954年、原子力の研究と利用について「公開、自主、民主」という3原則を提唱しましたが、これは原子力基本法にも反映されました。存在感は大きかったでしょう。まだ戦後民主主義の力が強く、高度経済成長期の前という時期でした。
――学術会議は元々、「政府寄り」の団体ではなかったのですね。
◆むしろ、御用学者団体にならないように、GHQが指導したとも言えます。原水爆禁止のアピールなど、政府がお気に召さないであろう発信もしていました。政府には、この組織を何とかしたいという思いがあったのでしょう。ただ、当時は権威がある組織だったので、先に述べたような代わりの団体を作ったのです。
――ずっと政府と対立してきたのでしょうか。
◆80年代までは経済成長に伴って予算が潤沢になり、今より幅広く配分もされていたので、学術会議としてもそれほど反発は感じなかったのだと思います。90年代に入って予算が増えなくなり、大学の安全設備が不十分なことで爆発事故が起きたりもしました。95年に科学技術基本法ができて再び投資が増えますが、2000年代になると政府の「選択と集中」という方針で競争的資金が中心になり、基礎研究の予算が付きにくくなりました。大学は結果が出やすい研究を求められるようになり、疲弊しています。とはいえ、17年に(軍事研究に否定的な)「軍事的安全保障研究に関する声明」を出すまでは、学術会議はのんびりしていたように感じます。
「金を出しているから言うことを聞け」は最悪の政治
――政府の動きに、学問の自由が脅かされるという危機感はありますか。
◆憲法23条に「学問の自由は、これを保障する」とあります。背景には、いずれも京都大学(当時は京都帝国大学)で起きた1913年の沢柳事件や33年の滝川事件といった、大学の自治や思想の自由を巡る問題があります。今回の任命拒否も人事の問題です。裁判に訴えたら、憲法23条の議論になるのではないでしょうか。とうとうここまで来たか、という思いです。
任命拒否された6人は全員、文科系の学者です。理工系は予算のケタも大きいので、政府にとってどちらかというと操りやすいけれど、文科系は違います。今回は、言うことを聞かない文科系に対する見せしめだと言えます。
――学術会議は今後、どうあるべきだと思いますか。
◆存続すべきですが、組織を変えていくため、人数を減らし、いわゆるエリート集団にする方法があると思います。今は政府に推薦する人をどう決めているのか、選考過程が見えにくくなっています。学術会議には210人の会員の他に、2000人の連携会員がいます。この区分を廃止したほうがいいでしょう。その上で、新しい会員を選ぶ時は、会員が推薦した人を対象にした選挙制にするのです。会員が選ぶので、組織票を作るのは難しいでしょう。他国のアカデミーでも導入している方法です。会員の終身制も検討に値します。
政治と学術の距離感
――学術会議を「改革」しようとする政府は、科学技術政策をどう考えているのでしょうか。
◆近年の文部科学相などの言動から、トップが学術政策の問題点を理解していないと感じます。そういう人たちが権限を持っているのは怖いことです。菅義偉首相も、実務家だとは感じますが、理想主義者だとは思えません。どういう社会を実現したいのかが見えないのです。
私はつい最近まで、学術会議の連携会員の一人でした。その前には、「御用学者」をやっていました。文科省の科学官という非常勤公務員です。全国の大学・研究所から20人の学者が文科省から選任されるもので、かつては重職でした。研究機関と文科省を仲介することが任務で、学者と官僚が協力して学術政策や予算について議論していました。文科省の中に科学官室というのがあり、科学官や学者、官僚がたむろしていたようです。今は科学官室もなくなり、科学官会議も1年に1、2回程度という有り様です。
学術会議が弱体化したあとも、科学官のような政府と学界を比較的ダイレクトにつなぐ仕掛けは存在しました。しかし、それすらも今は失われ、トップダウンで政策が決まるようになったのです。現場の声が十分届かないから、場当たり的な政策が増える。真に日本の科学技術を発展させるには、基礎的研究経費と競争的資金の適切な割合での配分が重要ですが、ご承知のように、いまは競争的資金が肥大しています。
――そもそも学術と政治はぶつかり合うものでしょうか。
◆政治と学術は、一定の距離感がないといけないと思います。よく言われることですが、自分をきちんと批判してくれる人を身近に置いておくことは、リーダーにとって大事です。取り巻きがイエスマンの集まりだったら国が滅びます。
日本の未来が左右されることです。金を出しているから言うことを聞けというのは最悪の政治ですよね。
なかじま・ひでと
1956年生まれ。専門は科学史、科学技術社会論。東大先端科学技術研究センター助手などを経て2010年から現職。著書「日本の科学/技術はどこへいくのか」でサントリー学芸賞。
- 「後衛」を拒絶する政府の危うさ 永田和宏さん「学問そのものの否定だ」
1998年入社。岐阜支局、中部報道センター、東京社会部、くらし医療部などを経て2020年4月から統合デジタル取材センター。妊娠・出産や子育てをめぐる課題、「生きづらさ」を抱える人たちを中心に取材している。性同一性障害や性分化疾患の>人たちを追ったキャンペーン報道「境界を生きる」、不妊や不育、出生前診断をテーマにした長期連載「こうのとり追って」取材班(いずれも毎日新聞出版より書籍化)。