序章 日本のシチリア 文・山岡淳一郎

序章 日本のシチリア    文・山岡淳一郎

1989(平成元)年12月15日、大阪は天神橋筋6丁目、
中華料理店の大宴会場で、山口組直参若衆、盛政之助(もりまさのすけ)
が率いる盛政(もりまさ)組の「事始め」がにぎにぎしく開かれていた。

奄美(あまみ)群島の徳之島(とくのしま)に生まれた盛は、島の先輩の
背中を追って組長に成り上がった。
アウトローの世界には奄美、徳之島出身者の人脈がある。
盛は、山口組の知恵袋といわれた若頭補佐の下で力をつけ、
債権取り立てや地上げで腕を振るった。

事始めとは、1年を振り返り、新年を迎える門出の儀式である。
ヤクザ社会ではもっとも重要な年中行事とされ、「不言実行、信賞必罰」
といった新たな「組方針」が伝達される。
親分、子分が盃(さかずき)を交わし、

「親分(おや)のいうことには白いものを黒と言われても『はい』という。
この盃を背負ったからには、一家に忠誠、親分に孝、たとえ妻子は食わずに
いるとも、親分のために一命を捨てても尽くします」

と、忠誠が誓われる。
若い組員は「抱負」を語った。

盛は、式の進行を、目を細めて眺めた。
晴れやかに事始めができるのも、抗争に生き残ったからだ。
「山口組の代紋(だいもん)のおかげや」
と背広の胸元にとめた山菱(やまびし)のバッジにそっと手を当てる。
あしかけ5年の報復合戦が終わり、愁眉を開いていた。

関西の極道は、「山一抗争」といわれた山口組と一和会の長い戦いで疲弊した。
山口組のカリスマ、3代目組長・田岡一雄が逝き、武闘派の竹中正久が4代目
を襲名すると、これに反発した直参組長たちが一和会を結成。
盛も親分ー子分の筋目から一和会に加わるものとみられたが、案に相違して
山口組の傘下に入った。

40代の盛にはまだ「先」があった。
凄惨な報復合戦に火がつき、一和会側の死者は19人、負傷者49人、
山口組側の死者10人、負傷者17人。
警察官や市民にも負傷者が出た。
一和会は切り崩され、トップが身を引いて消滅し、山口組の勝利で
抗争に終止符が打たれる。
裏社会も浮き沈みが激しく、勝てば官軍が世の常である。
盛は山口組直参の組長に名を連ね、ほっと胸をなで下ろした。

「白いものを黒」と言われて「はい」と答えるかどうかは、
ときと場合によるのだ。

事始めの式は滞りなく進み、酒宴に移った。
吉本興業の大物漫才コンビが舞台に立った。
盛がビールを片手にくつろいでいると、地味なグレーのスーツを着た男が、
カバン持ちを従えて宴会場に入ってきた。
見るからに堅気(かたぎ)である。
和(なご)やかだった空気に冷たい風が流れ込み、子分たちが道をあける。
盛は、近づいてきた男の顔を見てたまげた。

「おお。
どないしたんや。
おまえが、こんなところに来るとは。
何があったんや」

盛が仰天したのも無理はない。
男の名は盛岡正博(もりおかまさひろ)。
盛と同じ徳之島・伊仙町(いせんちょう)生まれの幼なじみで、
京都大学医学部を出た医師である。
飛ぶ鳥を落とす勢いの医療グループ、「徳洲会(とくしゅう会)」の
ナンバーツーだ。
盛岡にも徳之島生まれの「荒ぶる血」が脈打っていた。

盛岡は、京大在学中、学生運動にのめり込んだ。
・・・
警察が自治会室を家宅捜索すると、
「大学自治、学問の自由への権力の介入は許せない」
と3泊4日の総長団交を仕切る。
大学卒業後も精神科医として民間病院に勤めながら10年ちかく医療変革、
病棟開放化運動に携わった。
その後、米国のボストン小児病院に移り、2年間研鑽(けんさん)を積んで
帰国して身の振り方を考えていたときに、野生の病院経営者、徳田虎雄
(とくだとらお)の訪問を受けた。
徳田もまた徳之島育ちだ。
徳田は「生命(いのち)だけは平等だ」と叫び、1年365日無休の病院グループ、
徳洲会を創設した。
紛れもなく、医療界の台風だった。

盛岡は、徳田に三顧の礼を尽くされて徳洲会に加わった。
いざ、入ってみると、そこは離島や僻地(へきち)医療、救急救命で医療を
変革しようとする志と、際限のない欲望が渦巻く、空前絶後の社会運動体であった。

組長の盛は、目の前に座った盛岡に
「まぁ、一杯やれや」
とビールを勧め、
「珍しいなぁ。
どないした。
ここは島とは違うぞ」
と声をかけた。

盛岡は、注(つ)がれたビールに軽く口をつけ、応じる。

「久しぶりに伊仙の話でもしようと思ってな。
いやいや、徳田理事長の代理で、仁義を切りに来たよ」

「ほう。
えらく、あらたまって、なにごとや」
と盛が訊ねる。

「わかっとるとは思うが、年明けにも衆議院の総選挙がある。
間違いない。
三度目の正直で、今回は何としても徳田を勝たさんと病院がもたん。
万一、負ければ理事長についていく者はおらんようになる。
こんどばかりは、動かんでくれんか。
頼む」

盛岡に付き添う建設会社の社長が、カバンから豆腐のように膨らんだ封筒を
取り出し、
「どうぞ、よろしく、お願いします」

と側面を下に差し出した。
横にしても立つほど現金が詰まっている。
社長は徳洲会の病院建設を受注しており、裏社会にも通じていた。

「おまえ、ここまでやらんといかんのか。
難儀やのう。
徳田なんかとは縁を切れや」

組長は気遣うように言った。

医療界の暴風雨、徳田は、進出する先々で地元の医師会と激闘を演じ、
既得権をなぎ倒して病院を建てた。
壁にぶつかるたびに闘争心を燃やし、たどり着いたのが「政治」への挑戦だった。
・・・

白衣の先生集団で、そうした裏仕事をこなせる幹部は、盛岡だけだ。
盛岡は徳田より五つ若く、のちにドル箱病院となる湘南鎌倉病院を「個人保証」
で開設したばかりだった。
徳田に次ぐ実力者である。

その盛岡が「動かないでくれ」と組長に頭を下げた。
何もかも異例だった。
事始めの場には、盛岡の父方の親戚も居合わせていた。
盛岡は噛(か)んで含めるように語りかける。

「医療の世界に踏み込んで、おれなりにやってきた。
あちこち躓(つまず)きもしたが、徳洲会で日本の医療を変革したくて飛び回っとる。
救急車が病院をたらい回しにされて患者が命を落とすような医療を変えたい。
投げ出すわけにはいかん。
今回だけはようすを見てくれんか。
応援してくれとは言わんよ。
ただ、邪魔をしないでほしい。
みなさんには、口を出さず、見ていてほしい。
動かれると厄介なことになる。
病院を潰すわけにはいかんのや」

「それは、徳洲会のナンバーツー、盛岡先生の本心なんやな」

と盛が真顔で聞き返す。

「徳田の意思だと思ってもらいたい」
・・・

都会で極道と恐れられる彼らも、徳之島に帰れば「ふつうの人」に戻った。
多くは住民票を島に残していた。
エネルギーがあり余る彼らは「羽振りのいい、兄貴」と歓迎され、
一族、郎党を束ねる。
選挙期間中、活発に行動し、カネを使って票をまとめた。

「伊仙の盛が帰ってきたぞ」と近隣に声がかかると、血気盛んな若者が集まった。

「おい、札を敷いてこい」
と買収が始まる。
命知らずの彼らが動けば、島民もなびく。
選挙賭博が大っぴらに行われ、勝てば極楽、負ければ財産を失(な)くし、
夜逃げが待っている。
選挙が「第四次産業」といわれる徳之島で、アウトローは公然と選挙をカネに変えた。
・・・

徳之島のなかでも、伊仙町の土地柄は独特であった。
人口1万人足らずの町なのに警官や教師、弁護士、医者を数多く輩出している。
一方で、ヤクザの供給地でもあった。

離島出身者が、都会で差別をはね返して、のし上がるには裏街道も
ひとつのコースだった。
かつて鹿児島の鴨池(かもいけ)空港(1972年廃止)の周りや、
兵庫の尼崎には”奄美部落”と呼ばれる集落があった。
地元の者は、そこで肩を寄せ合って暮らす奄美出身者を
”島人(しまじん)”とか”土人(どじん)”と蔑(さげす)んだという。
就職や結婚での差別は日常茶飯。
徳之島出身者が腕一本で勝負するには、弁護士や医者とともに極道も
また生業(なりわい)だったのである。

彼らは都会で裏街道を歩いていても、島に帰れば、その日から表通りを
闊歩(かっぽ)できる。
「出稼ぎ」の地上げや債権取り立て、賭博で儲けたカネを、貧しい島に還流
する役目も負っていた。
島では、警官と教師、ヤクザが「おれ」「おまえ」の間柄で酒宴を張る。
人の値打ちは、手段がどうであれ、外で培った甲斐性(かいしょう)で
母なる島に何を還元できるかで決まる。
独立不覊(どくりつふき)の気性と、命がけで絆(きずな)を守ろうと
する情念が、濃密な血脈を張りめぐらせた。

だが、島を出れば話は別だ。
都会では、同胞でも堅気とヤクザが親しく口を利くのはタブーだった。
シノギの場では、棲み分け、ヤクザは食うか食われるかの修羅に生きる。
たとえ食いつめて野垂れ死にしようが、花を手向ける者はいない。

島の外では関係を絶った。
本土で育った人間には想像もつかない、暗黙の掟(おきて)が存在する。
だから、事始めに現れた盛岡の姿を見て、親分、子分、こぞって驚嘆したのである。
組長の「ここまでやらんといかんのか」には、そのような実感がこもっていた。

盛が言った。

「奄美の選挙は、保岡、徳田、まっぷたつやな。
わしらの戦争が終わったら、次は保徳(やすとく)戦争か。
盛岡先生、体には気ぃつけろや」

盛は豆腐のような封筒をちらりと見た。
傍らの組幹部が事務的にそれを紙袋に入れた。

「では、親分、よろしく、頼みます」

と盛岡は頭を下げ、宴会場の出口へと歩いた。
・・・

2週間後、日経平均株価は3万8957円の史上最高値を記録した。
ドイツでは「ベルリンの壁」が崩壊し、東欧の民主化革命、東西冷戦構造の崩壊
へと世界史的転換が起きていたが、日本はバブルの宴に酔いしれるばかりだった。

翌1990年2月、衆議院選挙に出馬した徳田虎雄は、数十億円もの
「実弾(現金)」を投じて買収合戦を制し、金的を射止める。
三度目の正直で国会の赤じゅうたんを踏んだ。
医療と政治の結びつきが、吉と出るか、凶と出るか、それは
神のみぞ知るところであった。
・・・

【山岡淳一郎「ゴッドドクター 徳田虎雄」小学館文庫、2020年1月】

https://www.shogakukan.co.jp/books/09406731

(irohira)
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