【動画】真珠湾攻撃を振り返る吉岡政光さん=長島一浩撮影
「どこか遠くにいくのだろうか」。1941年11月18日、大分・佐伯湾を出港した日本海軍の空母「蒼龍(そうりゅう)」。艦載機の搭乗員だった吉岡政光さん(102)=東京都足立区=はそんな思いを巡らせていた。
集結した空母・赤城(あかぎ)や飛龍(ひりゅう)なども出港した。ただ、いつもは事前に伝えられる行き先がわからない。
甲板に出る通路に、ずらりと並んだ重油入りのドラム缶。凍結を防ぐためか、甲板のパイプ類には石綿が巻き付けられていた。一方で、半ズボンを積み込んだという話も聞いた。
寒いところへ向かうのか、暑い南方か。三重の伊勢湾近くにさしかかると、号令が響いた。皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる伊勢神宮の方向に、敬礼しろという号令だった。
「総員、敬礼!」
「伊勢湾の前を何回も行ったり来たりしているのに、こんなこと言われたことがなかった。みんなとたばこを吸う場所で、『どこにいくんだろうか』と」
当時、開戦から4年を経た日中戦争は泥沼化。資源を求めインドシナ半島へ軍を進めた日本に、米国は石油やくず鉄の全面禁輸など経済封鎖で応じ、対米関係は行き詰まっていた。41年11月5日、天皇と重臣らによる御前会議は、対米交渉打ち切りの場合、12月初旬の開戦を決断していた。
欧州戦線では、イタリアとともに日本と三国同盟を結んでいたドイツがソ連に奇襲を仕掛け、11月にモスクワの手前数十キロまで迫っていた。ドイツの優勢は揺らがないとみた軍部は、対米開戦に向けた極秘作戦を進めていた。
佐伯湾を出港して数日後。吉岡さんは、その作戦を告げられることになる。(瀬戸口和秀、永井靖二)
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大分・佐伯湾を出港して4日後の1941年11月22日、吉岡さんを乗せた空母「蒼龍(そうりゅう)」は千島列島の択捉(えとろふ)島にある単冠(ひとかっぷ)湾に着いた。しばらくして、食事や休憩をする広い部屋に吉岡さんら艦載機の搭乗員らが集められた。その場で艦長から極秘作戦の内容が伝えられた。
これからハワイに奇襲攻撃をかける――。
赤城や蒼龍といった空母6隻などからなる機動部隊を率いる南雲忠一中将の訓示が読み上げられた。「十年兵ヲ養フハ只一日之ヲ用ヒンガ為ナルヲ想起シ」
真珠湾へ 艦上で死を覚悟
「そのくだりを聞き、頭の上から足のつま先まで全ての血がデッキに吸い取られるような感覚になりました。10年も兵を養うのは、たった1日使うためだと。海軍に入って5年でしたけど、5年で終わりだなと覚悟したんです。アメリカの方が飛行機も軍艦も多いし、これは俺の死に場所だなって思いましたが、非常にうれしかった。たくさんいる中から選ばれ、こういう大戦争に行けるということは本当に幸福だなと」
「外交のことは詳しく知りませんが、アメリカは『中国から撤兵しないと石油をやらないよ』とひどいことを言っている。みんなそう言っているから、これ(真珠湾攻撃)をやれば、みんな喜んでくれるだろうと分かるんですね」
その後、吉岡さんたちは小型船で赤城へ向かった。ハワイ・オアフ島の模型を前に、真珠湾や飛行場、戦艦の位置を示され、作戦内容の詳しい説明を受けた。
機動部隊は11月26日、単冠湾から出港。12月8日未明(日本時間)、ハワイから約400キロの海上で作戦は始まった。その直前、甲板に上がり、ほかの搭乗員たちと艦長の訓示を聞いた。「弓矢に例えると俺たちは弓で、お前たちはみんな矢だ。しっかり当たってきてくれ」
暗闇の中、攻撃機が次々発艦していく。吉岡さんも第1次攻撃隊の一員として蒼龍から飛び立った。次第に空はあかね色に染まり、艦橋に人の姿が見えた。艦隊上空を一周して編隊を組み、真珠湾へ向かった。「どうせ死ぬんだから」。落下傘と体をつなぐバンドは身につけなかった。
佐伯湾を出港する前、九州で海面の上を低空で飛ぶ猛訓練を重ねた。真珠湾は水深が浅く、低空で魚雷を投下する必要がある。当時は真珠湾攻撃を想定した訓練とは思いもしなかった。
「なんとか魚雷を落としたい」。真珠湾へ向かう機上でそう願っていると、やがて島が見えた。手前には白い線。波打ち際とわかった。「ついに来た」
攻撃命令が下りた。目標は湾に浮かぶフォード島西側の戦艦群。ただ、島の東側はすでに攻撃を受け、大きな黒煙に包まれていた。近づくにつれ、ようやく戦艦とみられるマストをとらえた。
目標まで450メートルほどの地点で、同じ小隊の攻撃機に続き、「ヨーイ、テッ(撃て)!」の合図で投下した。重さ約800キロの魚雷が放たれ、機体が浮き上がった。「うまく離れた」。そう思った直後、「失敗」を知った。
「(戦艦だと思った)船の上を通るとき、砲塔に砲身がないんですよ。『あ、ユタだ』と気づきました。『これはしまったな』と」
ユタは米軍が訓練で標的として使っていた軍艦だった。米軍艦の資料を読み込み、ユタの存在も知っていた。魚雷は命中し、水柱が高く上がった。船体がゆっくり傾いていった。
「蒼龍に帰艦すると、周りはみんな喜んでいました。自分たちは戦艦だと思ってやったんです。恥ずかしかったですよ。もっといい船をやりたかった。残念ですよ。もうちょっと早く気がつけば良かったですけど」
玉音放送 最初に浮かんだのは戦死者
奇襲攻撃で米太平洋艦隊はほぼ壊滅状態となったが、最重要の攻撃目標だった空母は不在。開戦直後に米軍に大打撃を与えて戦意をくじき、早期講和の条件を整える――。それが連合艦隊の山本五十六司令長官の狙いだったが、宣戦布告が遅れ、逆に米国民の戦意をかき立てる結果となった。
欧州戦線でも日本の思惑は外れた。モスクワの防衛を担う赤軍は41年12月末までに長大な戦線でドイツ軍を160~240キロ押し返し、反転攻勢の契機とした。真珠湾攻撃のまさに同じ時期に欧州戦線は逆流し始め、翌年11月のスターリングラード攻防戦でドイツの退勢は決定的となった。
真珠湾攻撃に参加した日本軍機約350機のうち約320機が帰還。だが、戦況は悪化の一途をたどり、搭乗員の大半はその後の激戦で命を落としていった。吉岡さんは茨城の百里原海軍航空隊で終戦を迎えた。
「(玉音放送を聞いて)最初に浮かんだのは戦死した人たちのことですよね。たくさん親しい人たちが戦死して、そのことを思い出したら涙が出てきてですね」
戦後は運送会社や海上自衛隊に勤務。「負け戦。何も話すことはない」と戦争体験は語ってこなかったが、転機は約2年前。「(真珠湾攻撃の記憶を)残しておけば、死んだ人たちのためにもなる」と、講演するようになった。
「頭のいい人たちがなぜもう少し早くね、ひどくなる前に戦争をやめさせなかったのかなと思ってね。戦死した人たちが気の毒で、私みたいにのうのうと100歳過ぎまで生きていて、悪いなと思っていますよ」
「今でもいつ戦争になるか、そんな気がしますからね。よっぽど外交をしっかりやらないと。国民がしっかりして、みんなと仲良くするよう努力しなくちゃいけないと思いますね」
真珠湾攻撃
1941年12月8日未明(現地時間7日朝)、日本海軍機動部隊が、空母6隻、航空機約350機などで米ハワイ・真珠湾(パールハーバー)の米軍基地を奇襲攻撃した。米側は軍艦6隻が沈没するなどし、約2400人が死亡した。日本側は航空機29機、特殊潜航艇5隻が帰還せず、64人が亡くなった。宣戦布告が遅れ、米国では「だまし討ち」との批判がある。