中村哲、生態系、資本主義、奴隷制、ほか

良心を束ねて河となす~医師・中村哲 73年の軌跡~

12月27日にはNHK総合にて中村医師と過ごした若者たちのドキュメンタリー
「中村哲の声がきこえる」が、12月28日にはNHK BS1にて中村医師のドキュメンタリー
「良心を束ねて河となす ~医師・中村哲73年の軌跡~」が放送予定です。

[NHK 総合] 中村哲の声がきこえる
2020年12月27日(日) 午前10:05~午前10:55(50分)

[NHK BS1] 良心を束ねて河となす~医師・中村哲 73年の軌跡~
2020年12月28日(月) 午後9:00~午後10:50(110分)   

日本から6000キロ彼方のアフガンの地で1600本の井戸を掘り、
25.5キロに及ぶ用水路を拓いた日本人医師の唯一の自伝を、ぜひお手に取りください。

https://bit.ly/3nBWX0B

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2013年4月、中村先生から突然、「企画の件、もしまだ生きているようでしたら、
7月までに原稿を送ります」との一報が入ります。びっくりして先生の盟友である
石風社社長・福元満治さんに確認したところ、先生は「書籍化の約束は必ず守る」
と常々おっしゃっていたとのこと。
そして2か月後、全12章分が一気にメールで私のもとに届きました、、、

「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる――それは普通のことです」

https://bit.ly/2LZn97v

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コロナ禍、看護師悲痛「夜間は戦場」 仮眠とれず オムツして業務も

新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない中、医療の最前線に身を置く看護師たち
がギリギリの闘いを続けている。
東京都は医療提供体制の警戒度を最高レベルの「逼迫(ひっぱく)している」に引き上げ。
基幹病院は昼夜を問わず入院患者を受け入れており、使命感で献身する看護師らの疲労困憊
(こんぱい)ぶりはもはや限界に近い。
「夜間帯の現場は戦場」「どれだけ入院患者が増えても人員が補充されない」。
悲痛な叫びは、コロナ対応の長期化と慢性的な人手不足に苦悩する医療現場の実態を示している。
(三宅陽子)

https://bit.ly/3paeEVe

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「同情するなら、金をくれ」 「感謝するなら、差別を止めてくれ」

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折々のことば:2030 鷲田清一  朝日新聞 12月22日

私たちは自分の仕事を全うするだけですので、感謝の言葉は要りません。
ただ看護に専念させて欲しいのです。
(日本看護管理学会)

12月10日付の声明「日本看護管理学会より国民の皆さまへ」から。
コロナ禍対応に疲弊する医療現場。
感染患者に顔をすり寄せるようにして聞き、看護にあたるスタッフは、緊張と過労以上に、
時に家族にすら業務の実態を隠さざるをえない、
社会の「偏見」に追いつめられていると、学会は訴える。
欲しいのは理解と協力なのだと。

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内田樹@levinassien 4時間

変異種ウイルスの感染拡大に伴ってロンドンのロックダウンを英政府が発表しました。
市民には外出自粛を求め、生活必需品を扱う店以外は閉店。
米が感染者1700万人、死者31万人。
英がロックダウンで年を越す中で、日本は28日までGoToやって
五輪開催まであと215日って本気なのかな?

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「人を認める」
「人を排除しない」
「仲間をつくる」

https://bit.ly/3nG0DP2
星槎大学

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「南部プランテーションでは、肥料の多用や輪作など手間のかかる土壌保全に努め、
同じ場所で継続的に綿花などの商品作物を栽培する、という手法を採ることは稀であった。
そのかわりに、ある畑の栄養分を使い果たすと、新しい土地に移動して綿花栽培を行い、
その土地の地力が落ちると、また別な土地に移っていくということが一般的だった。
このときに必要だったのが、奴隷の労働力である。
南部プランターにとっては、西部への拡大ができるか否か、その地に奴隷制度を持ち込めるか
否かは、まさに死活問題だったのである」

<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社文庫 p.30>

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「ポルトガルは1500年にブラジルの領有権を主張し、その後50年のうちに、
大規模な砂糖プランテーションの経営を開始した。
砂糖プランテーションでの労働は、人類史上もっとも苛酷な労働であったと言われている。
したがって、それは完全に奴隷労働の領分であった。
1550年から1800年の間に、ブラジルだけでおそらく250万余りのアフリカ人奴隷を
吸収したものと思われる。
だが、1800年の黒人人口は100万人にすぎなかった。
彼らはどこへ消えてしまったのだろうか? 
大半が亡くなり、逃亡した者も少しはいた。
奴隷所有者は、まじめに働く奴隷なら2年後には利益を生み出しはじめると計算した。
しかし、5年ないし6年後には使い物にならなくなり、新たな奴隷が必要となった。
そして、彼らの労働条件を改善したり、家族を持たせたりするより、死ぬまで働かせて、
後釜に切り換える方が費用対効果の点で有利であることが明らかになった。
あらゆる歴史のなかで、これほど人間の尊厳を損なった金儲けの例は稀である」

<クリス・ブレイジャ『世界史の瞬間』2001 青土社 p.108-109>

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本書の論点は2つある。
その1つは、18世紀の半ば1750年頃まで、西欧と東アジアの経済発展の度合いにはほとんど差が
なく、「驚くほど似ていた、ひとつの世界」であったことを明らかにした。
旧世界に散在した4つの中核地域――中国の長江デルタ、日本の畿内・関東、
西欧のイギリスとオランダ、北インド――では、比較的自由な市場、広範な分業による
手工業の展開(プロト工業化の進展)、高度に商業化された農業の発展を特徴とする
「スミス的成長」が共通に見られた。
資本蓄積のみならず、ミクロな指標として1人当たりカロリー摂取量、日常生活での砂糖や
綿布消費量や出生率でも、これら4地域では差がなかった。
比較対象として、中国全土でなく、最も経済が発展し人口密度も高かった長江デルタと
西欧(現在のEU圏)に着目した点がユニークである。 
第2は、ユーラシア大陸において発達した市場経済が、18世紀後半の人口増加に伴う生態環境の制約
(エネルギー源としての森林資源の縮小や土壌流出など)に直面する中で、
西欧だけがその危機を突破した原因を解明する。
食糧・繊維(衣服)・燃料・建築用材のいずれを増産するにも、土地の制約に直面するなかで、
イギリス(西欧)のみが、身近にあったエネルギーとしての石炭と、
新大陸アメリカの広大な土地の活用によって、産業革命につながる社会経済の変革を実現できた。
石炭と新大陸という全く偶然的な「幸運」があって初めて、西欧の台頭と工業化は
可能になったのである。

https://s.nikkei.com/37G2dLb

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「IR参入は口実で、中国資本の真の狙いは、北海道内に居留区を確保することだ。
背後に中国共産党がついていて、すべて計画通り」

「中国資本は、1700億円ほどつぎ込んで、留寿都(るすつ)村にホテルやコンドミニアム、
学校、病院、プライベートジェット用の滑走路を造って、中国人集落を造成する計画だった。
中国共産党の指示で、3年ほど前から計画が出ていた。
最初はカジノの話は出なかったと聞いている」

https://bit.ly/34CYvjz

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軍関係労働者は検疫も隔離もなし

その一方、米連邦政府からグアム島内の米軍軍事施設の工事のために送り込まれる労働者に
限っては、「必要不可欠な労働力」としてH2就労ビザが与えられ、入島時の検疫のみならず
14日間の強制隔離も免除されている。
島民や観光客とは明らかに異なる扱いを受けているが、グアム政府はそれに対して
反対も抗議もできない。
なぜなら、米連邦法上「グアムはアンインコーポレッド・テリトリー(未編入領土)
であり米連邦政府の所有物である」と明記されているからだ。
未編入領土というと聞こえはよいが、事実上グアムは米国の「植民地」である。
1950年、グアム島民に米国市民権が付与されて以来70年も連邦政府が定める
法的義務を果たし、合衆国憲法を順守しながら生活をしているにもかかわらず、
大統領選挙はおろか国政選挙の選挙権もなく、
ワシントンDCの連邦議会に地域代表の議員を立てる権利も認められていない。
つまり、米軍基地外に住むグアム島民のコミュニティーは存在していないも同然で、
グアム政府は連邦政府の決定には口出しができない一方的な支配関係が
21世紀の現在も続いているのだ。

https://bit.ly/3nI6Qdg

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「おとなしいと思っていた沖縄の人がここまでやるとは。
今まで虐げられ、たまっていたものが一気に噴き出した」と雛さんは感じた。
今でこそ、地方都市でよく見かける市街地のようなこの場所で、
たった1件の交通事故がここまで大きな騒動に発展した背景には、25年に及ぶ米統治下
では全てが軍事優先で住民の安全、人権がないがしろにされてきたことがある。 
住民を巻き込んだ地上戦で当時の県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。
戦後は新たな苦難の始まりだった。
沖縄を統治した米民政府は1953年、「土地収用令」を公布・施行。
当時の真和志村銘苅(現在の那覇新都心地区)、伊江島、宜野湾村(現宜野湾市)伊佐浜などで、
武装米兵を動員し強制的に接収した。
56年にはアメリカの沖縄統治を批判しその不当性を訴えた瀬長亀次郎氏が那覇市長に当選したが
米民政府は財政融資資金を凍結するなどして瀬長市政を麻痺させようとした。 
米軍人・軍属による犯罪も多発していた。
ベトナム戦争が激化する1960年代半ばには年間千件を超え、
コザ騒動が発生した70年は960件の犯罪が起きていた。
犯罪多発の一方で、米軍人・軍属に関わる交通事故の場合、捜査権、逮捕権、裁判権などは
全て米軍当局に委ねられ、沖縄側ではどうすることもできなかった。
加害者が無罪になったり、アメリカへ帰ったまま未解決になった例も少なくなかった。 
1963年には那覇市内の軍道1号(現国道58号)で青信号の横断歩道を渡っていた中学生が、
突っ込んできた米軍トラックにひかれ死亡した。
赤信号を無視して人命を奪った米兵は、軍事裁判で
「太陽の光がビルの壁に反射して信号が見えなかった」という趣旨の主張をし、無罪になった。
コザ騒動が起きる3カ月前の1970年の9月には糸満町(現糸満市)で、酒に酔った米兵が
運転するスピード超過の車が主婦をひき殺したが、
12月11日に上級軍法会議は「証拠不十分」として米兵に無罪判決を下していた。

https://bit.ly/38H3ukz

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2021年1月
斎藤幸平『100分de名著 カール・マルクス『資本論』』NHK出版
斎藤幸平(@koheisaito0131)さんがツイートしました: 紅白は見るんだ笑

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「資本主義的生産は物質代謝の次元を十分に考慮することができないために、自然を破壊し、
人類の生存までを脅かす。
資本にとっては、価値増殖という目的がなんらかの形で実現されればいいのだから、
地球の大半が人間や動物の生存に適さなくなろうとも関係がない。
それゆえ、自然の復讐による資本主義の崩壊を待っているわけにはいかず、むしろ、
こうしたエコロジー危機に直面した労働する諸個人が自然との物質代謝の意識的・能動的な制御
を行うようになることが、未来社会の実現にとって不可欠なのである」

「大洪水の前に」マルクスと惑星の物質代謝 斉藤幸平 19年4月

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「環境危機の問題は利潤の減少ではなく、資本主義という社会システムが人間の自由で、
持続可能な発展という観点にとって非合理的なシステムであるということであり、
だからこそ、それは人々の手で意識的に変革されなくてはならないのだ。
その際に重要なのが、階級という視点である。
なぜなら、1%の人々は気候変動から生じる環境危機をオフショア化しながら、
資本主義蓄積を継続する一方で、
資本と違って簡単に移動することができない99%の人々は『環境プロレタリアート』、
あるいは『環境難民』として、自然からの疎外に苦しむことになるからである。
その限りで、気候正義への取り組みは階級闘争という問題を避けることができないのである」

「大洪水の前に」マルクスと惑星の物質代謝 斉藤幸平 19年4月

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「奴隷制がなければ綿花はない。
綿花がなければ近代工業はない。
奴隷制は植民地に価値を与え、
植民地は世界貿易をつくりだし、
世界貿易は機械制大工業(産業革命)の必須要件だった」

マルクス 1846年12月28日書簡

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独立不羈の生活をおくっていたインディアンは、体質的・気質的に、苛酷なプランテーション奴隷制に適応し
えなかった、、、「インディアンの部族心、宗教的祭式を無視して鉱山に送り、単調、苛烈かつ異常な労働に
従事せしめることは、インディアンよりその生の意味を奪掠するにひとしい、、、それは身体のみならずイン
ディアンとしての魂をも奴隷化することにほかならぬ」、、、
インディアン奴隷の能率は低かった。スペイン人の観察によれば、一人の黒人は四人のインディアンに匹敵し
た、、、
インディアン奴隷の供給源は限られていたのにたいし、アフリカ人奴隷の供給源は無尽蔵だった。このような
わけで、アフリカから強奪された黒人が、インディアンから強奪されたアメリカの土地を耕すことになったの
である。航海者エンリケ公の航海が、コロンブスの航海を補足したように、西アフリカの歴史は西インド諸島
史の補遺となった。
しかしながら、インディアンの後を継いだものは、直接には黒人ではない。白人貧困層(プア・ホワイト)だ
った。
「資本主義と奴隷制」エリック・ウィリアムズ 20、22、23p

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奴隷海岸に酒への嗜好をひろくゆきわたらせること、それは儲けになることだった。黒人の仲買人を酒攻めに
し、正気を失うまで飲ます。そこで買いたたくという寸法だった。ある奴隷仲買人は、かり集めた奴隷を売っ
た代金で鞄をいっぱいにしたが、奴隷船の船長から食事に招待され、愚かにもそれにのってしまった。かれは
酒攻めにされ、翌朝目覚めてみたら、金は行方不明、あまつさえ衣服まではぎとられて焼印をおされ、自分が
たたき売った連中といっしょに奴隷にされているのに気がついた。
「資本主義と奴隷制」エリック・ウィリアムズ 133p

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19世紀においては、バーミンガム製銃器はアフリカ産ヤシ油と交換された。しかし、18世紀においては、
もっと悪辣な取引がみられた。18世紀のバーミンガム製銃器は、人間と交換された。黒人一人の値段はバー
ミンガム銃一丁と言い慣わされていたくらいである。アフリカ・マスケット銃はバーミンガムの重要な輸出品
であり、年間の輸出は10万ないし15万丁に及んだ。バーミンガムの銃器製造業者にとって、アフリカは、
イギリス政府および東インド会社と並ぶ最大のおとくいだった。
「資本主義と奴隷制」エリック・ウィリアムズ 139p

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ジャマイカにおいては、わずか1780年から1787年のあいだに1万5000人の奴隷が餓死した。アメ
リカの独立は、砂糖島嶼凋落の第一歩をしるしたのである、、、
アメリカは外国となり、航海法の全条項の適用を受けることになった。西インド諸島は、当時の世界史的状況
からすればごく自然な市場からひきはなされた。ノヴァ・スコシアを、なんとしても、もう一つのニュー・イ
ングランドたらしめる必要があった。しかし、ノヴァ・スコシアは一夜にしてならず、かといって、アメリカ
喪失の痛手を償う手だては他になかった。
「資本主義と奴隷制」エリック・ウィリアムズ 202、203p

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クラークソンは、虎穴に入るの危険をおかし、一身を賭してリヴァプール、ブリストル、ロンドン等の埠頭を
訪問し、船員に面会し、乗組員名簿を調査し、奴隷貿易のおよぼした影響、といっても今度は黒人側ではなく
白人側にたいする影響の証拠を集めたのである。
この証拠物件は、身の毛もよだつ告発状となった、、、
リヴァプールおよびブリストルの乗組員名簿に基づいてウィルバーフォースが議会に示した数字によると、奴
隷船350隻の乗組員1万2263名のうち、12カ月間に2643名が死亡した。すなわち、死亡率は21
・5%に達した。他方、西インド諸島貿易に従事する船舶462隻の乗組員7640名についてみれば、7カ
月間にそのうちのわずか118名が死亡したにとどまる。
すなわち死亡率は年率にして3%を下まわった、、、
「それは、船員を養成するのではなく損耗している。
このような船員の損耗こそ、奴隷貿易廃止のための有力な論拠である。
船員の生命を少しでも尊重するなら、かくも無益に人命を蕩尽する貿易部門は廃棄されねばならない」。
「資本主義と奴隷制」エリック・ウィリアムズ 274p

========

みずからの国民が、ヨーロッパからの来訪者によってみすみす奴 隷化され、大西洋のかなたに連行されること
を阻止できないほどの、弱体な国家であったかのよ うにみえるからである。だが、そうした考えは完全な誤り
である。じつのところ西アフリカでは、 複数の強力な国家が奴隷貿易を管理統制しており、またそれら諸国の
行動は、内政および外交の 諸局面に応じて複雑に変化した。他方でヨーロッパ人の交易者は、ただそれらに黙
従するのみの、 無力な主体であったといえる。それゆえに、優勢なヨーロッパ人が・劣勢なアフリカ人を搾取
す るという構図は、少なくとも大西洋「三角」貿易の盛期には、まったくあてはまらないのである。 これに
は 2 つの理由があるので説明しよう。
第 1 に、ヨーロッパ人は、西アフリカに分布する熱帯性の赤痢アメーバやマラリア原虫に対 する抗体を有さ
ない場合が多く、したがって、そこに滞在することじたいが致命的となりえた。 じじつ、マラリアの特効薬が
開発される 1820 年代までは、そこへの定住を試みたヨーロッパ人 の約半数が、1 年以内に死亡している。第
 2 に、かれらは、機関銃などの新兵器が開発される 19 世紀後半までは、西アフリカにおいて、暴力の行使を
通じた目的の実現を望めなかった。これを 端的に示す事例を 1 つ提示しよう。すなわち 1564 年、イングラ
ンドの提督ジョン・ホーキンズ は、西アフリカ沿岸の集落を襲撃し、激戦のすえ 10 人の奴隷を捕獲したもの
の、かわりに配下 の将兵 7 名が戦死し、27 名が重軽傷を負ってしまった。このようでは、かれらが現地の政
府・ 商人と対等ないしそれ以上の立場で交渉したり、そこの市場を自力で支配したりすることなど、 まず不
可能であったといわざるをえない。
だが、それでもなお、ヨーロッパ人は銃の供給量を調整する戦略を通じて、西アフリカ諸国の 行動を、恣意的
に操作できたと考えられるかもしれない。なぜなら、銃の製造は西アフリカでは 難しかったからである。しか
しながら、この想定もやはり誤りである。当時の銃には、交戦相手 を容易に制圧しうるほどの性能はなく、そ
れゆえに、西アフリカの王たちによって、必ずしも熱 心に追求されなかった。じじつそこでは、コンゴのルン
ダ国(Lunda)や、ベニンのオヨ国(Oyo) のように、銃をほとんどあるいはまったく装備しないにもかかわらず、
軍事的な強勢をほこる国 家がいくつも存在した。このようでは、銃を排他的に供給できるからといって、ヨー
ロッパ人の 立場が強化されることはなかったといわざるをえない。
みられるとおり、ヨーロッパ人といえども、西アフリカを訪れればまったくの無力であった。

https://bit.ly/3mCs8rr

========

「母は差別する側」と思ってた娘 数十年後に知った事情    
喜園尚史 朝日新聞 2020年12月19日

 ずっと封じ込めていた水俣の記憶。40年余の歳月を経て、語り始めた女性がいる。故・石牟礼道子さんの「
苦海浄土 わが水俣病」を読んだのは大学生の時。水俣病が伝染病だと恐れられていた当初、商店で小銭を受
け取ってもらえなかった、恨みの言葉がつづられていた。お金を受け取らなかったのは母の店だ。知らなかっ
た――。

 換気のため開けていた入り口から、小さな背中が見えた。東京都新宿区のJR高田馬場駅近く、週末の雑居ビ
ルの一室で、郡山リエさん(71)は、一人で資料作りをしていた。「水俣フォーラム」(実川悠太理事長)の
事務所へ、神奈川県厚木市の自宅から通う。展示会を開くなど水俣病問題を伝える活動に参加し、5年前から理
事を務める。

 水俣の湯堂(ゆどう)という100軒ほどの小さな漁村に生まれました。4人姉妹の2番目。祖父は漁師、父は地
元のチッソ工場で働き、母は村で唯一の商店を営んでいました。

 水俣病が公式確認された時(1956年)、小学2年生でした。当時、両親から水俣病のことを聞いた記憶はあり
ません。ただ、棺を運ぶ葬列をたびたび見かけるようになったことや、父が「今日は墓掘り番じゃ」と出かけ
ていったことは覚えています。当時は火葬ではなく、土葬でした。

 学校では、平均台の上を歩いたり、目をつぶって両手の指先を合わせたりする検査を受けました。理由は言
われなかったと思います。海で泳ぐことも禁止になりました。湯堂は初期に水俣病が多く発生した地域ですが
、私は何が起きているのか、ほとんどわかりませんでした。

「苦海浄土」の一節に…

 熊本市内の高校、そして鹿児島大学に進みました。入学の翌年(68年)に、水俣病がチッソによる公害病と
認定されました。患者の支援活動が活発になり、私も友人と水俣病問題の研究会を作って講演会を催しました

 「苦海浄土」を手にしたのは大学3年の時でしたか、最初は故郷が美しく描かれていましたが、読み進めると
、こんな一節がありました。

 「店に行ってもおとろしさに店の人は銭ば自分の手で取んなはらん。仕方なしに板の間の上に置いてきより
ました。箸ででもはさんで、鍋ででも煮らしたじゃろ、あのときの銭は。七生まで忘れんばい」

 母の店が村で唯一の商店だったので、すぐにわかりました。そんなことがあったとは知りませんでした。た
だ、自分でも不思議なんですが、本を読んだ時のことが思い出せないんです。自分が何を感じたのかを。母が
差別する側にたっていることを知ってつらかったので、自分の中に封じ込めていたのか……。

 その後、私は水俣病から遠ざかりました。振り返ると、いろんな感情を抱いていたことを思い出します。支
援運動にかかわる団体同士の反目や、補償金をめぐる住民同士のあつれきへの嫌悪感。活動の輪の中に入りた
いのに、入っていけない自分自身へのふがいなさ。結局、いろんなことを言い訳にして避けていたんだと思い
ます。

 大学卒業後、鹿児島県内の福祉施設で働いていましたが、結婚を機に神奈川県で暮らし始めました。仕事と
子育てに追われる生活でした。でも、水俣病のことを決して忘れたわけではありません。心のどこかにありま
した。

よみがえったあの一節

 石牟礼道子さんの著書「苦海浄土」を手にしてから40年余。水俣病と向き合うきっかけは2012年、水俣フォ
ーラム主催の「水俣病大学」で、土本典昭監督のドキュメンタリー映画「水俣―患者さんとその世界」を見た
ことだった。あの一節がよみがえってきた。

 上映が始まってしばらくして、古びた家屋が出てきました。母の店でした。「買いにいってもお金は直接と
らんしな」。懐かしい近所のおじさんの声が流れました。

 映画が終わると、受講生が一人ずつ発言を求められました。「映画に出てきた店は母の店です」と話しまし
た。「当時は伝染病の可能性も言われていました。差別したと言われる人の思いも知ってほしいし、母がその
患者さんたちに謝ったかどうかも気になります」。そんなことも話しました。話すことに、ためらいはありま
せんでした。苦海浄土を読んだ時と、自分の中で何かが変わったのでしょうか。自分でもよくわかりません。

 この体験がきっかけで、翌年から水俣フォーラムでボランティア活動を始めました。あのころ、水俣で何が
起きていたのか、知りたくなりました。でも、父母は他界していました。親類の人に当時のことを聞いてみた
ら、自分が知らないことばかりでした。

 しばらくして、チッソの第一組合委員長だった岡本達明さん(民衆史研究者)が住民の証言をまとめた「水
俣病の民衆史」が発刊されました。その中に、母の店のことが書かれていました。当時は伝染病の疑いがあっ
たので市から注意して売るように指導されていた。だから、患者と家族が持ってきたお金を消毒するのは当然
だと、岡本さんは書いていました。

父に生返事しかしなかった自分

 正直救われる思いがしました。母に、そうせざるを得ない事情があったということがわかりました。でも、
患者さんや家族に深い傷を与えたことも事実です。思いやりのある優しい母が、どんな気持ちだったのかと考
えると……。

 父にも申し訳ない気持ちです。父はチッソを退職後、無農薬ミカンの栽培をしながら岡本さんの聞き取り調
査を手伝っていました。たまに帰省すると、父は調査のことを話しかけてきましたが、私は生返事しかしませ
んでした。

 父は、毒を流した現場にいました。一方で、認定患者の母親をもつ被害者ですが、その認定申請には最後ま
で反対したようです。加害と被害のはざまで、どれほど苦しんだことか。

 水俣フォーラムと出会えたおかげで、ようやく一歩を踏み出せました。昨年、フォーラムが主催する「水俣
病大学」でこれまでの自分のことを話しました。自分が変わるきっかけをいただいた場所に、自分が立つなん
て思ってもいませんでした。

 私自身、何のつらい経験もしていません。ずっと水俣病を遠ざけてきた、ふがいない、情けないことばかり
です。自分にどれだけの時間が残されているかはわかりません。でも、こんな自分の思いを語ることも、水俣
病を伝え続けることの役に立てばと思っています。

(喜園尚史)

ーーーーー
(色平)
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