長崎原爆資料館の入り口に、「長崎からのメッセージ」が掲げられたのは昨年4月10日のことだった。被爆から75年の節目、核廃絶に向けたステップの年に、との意気込みにもかかわらず、館はこの日からコロナ対策で臨時休館となった。

 メッセージは、核兵器、環境問題、新型コロナという「世界規模の問題」を三つ挙げ、それらに「立ち向かう時に必要なこと その根っこは、同じだと思います」と語りかける。

 すなわち「自分が当事者だと自覚すること。人を思いやること。結末を想像すること。そして行動に移すこと」。

 誰もがウイルスに襲われうることを人々は知った。感染や、その拡大という「結末」を想像し、一人ひとりが行動を律する必要も、人々は知った。

 そんな時期に、核や地球温暖化でも、誰もが「当事者」であり、みんなの「行動」が求められていることを訴えたい。休館を前にした市職員らの思いが、メッセージには込められた。

 資料館は6月に再開、メッセージは年を越し、いまも玄関に掲げられている。

 ■牙をむく巨大リスク

 パンデミックが世界を覆い尽くす速度は昔日の比ではない。

 地球環境は「気候危機」に立ち至った。

 核の恐怖を伝える「終末時計」は昨年、人類滅亡まで「残り100秒」を指し、史上最悪を記録した。

 いずれも、現代文明が産み落としたグローバルな巨大リスクである。

 3・11東日本大震災と福島原発事故の3カ月半後、政府の復興構想会議が出した提言の一節が思い出される。

 「われわれの文明の性格そのものが問われているのではないか」

 人類に豊かさをもたらしたはずの文明が、人類に牙をむく。この逆説を、改めて深く銘記せざるをえない。

 コロナ禍という非常時は、以前からあった数々の問題を大写しにした。生態系への野放図な介入しかり、都市への人口密集しかり、である。

 効率優先の行き着くところ、社会の余力がそぎ落とされ、医療崩壊につながった地域がある。看護、介護、物流といった日常を支える「エッセンシャルワーカー」の役割に光が当たったが、テレワークが広がり、デジタル化が加速する見通しの一方で、対面労働に携わる人々との格差が論点となる。

 これらの課題にどう答えを出すか。感染の抑え込みに加え、人類社会が課される荷は重い。

 ■世界は覚醒できるか

 興味深いことに、コロナ禍で傷んだ経済の再生を、脱炭素や生態系の保全といった気候変動への取り組みと連動させようという機運が生じている。「グリーンリカバリー(緑の復興)」である。

 「経済を回す」ことを単に取り戻すのではなく、環境に目配りし、次代の人類社会の姿を描きつつ、二兎(にと)を追う。

 命か、経済か。時に口の端にのぼった二分法からの、発想の転換といっていい。

 この分野では今年、国際社会が様変わりを見せる。バイデン政権が発足する米国は、温室効果ガスの排出削減をめざす枠組み「パリ協定」に復帰する。

 日本政府も昨年10月、「2050年に実質排出ゼロ」を打ち出した。世界的な潮流に押され、やはり「発想の転換」(菅首相)に踏み切った。

 「終末時計」の針を後戻りさせることは可能だろうか。

 今月22日に核兵器禁止条約が発効する。核兵器は非人道的で違法だとする国際規範であり、「核なき世界」への大きな一歩である。

 広島、長崎の被爆者に加え、国際的な非政府組織に集う世界の市民が運動を繰り広げ、有志国の政府との連帯を通じてこぎつけた。

 米ロはじめ核保有国と、「核の傘」の下にある日本などは、この条約に背を向ける。「恐怖の均衡」による核抑止論から抜け出せていない。世界はなお、偶発的な核惨事が発生する危険と隣り合わせである。

 こんなことをいつまでも続けていていいのか――。危機への覚醒いかんが、時計の針を進めもすれば遅らせもする。

 ■未来の当事者が動く

 10年前の原発事故後、思想史家の渡辺京二氏は短い文章を書いた。「人類の生きかた在りかたを変えねばならぬのは、昨日今日始まった話ではないのだ」「つまり、潮時が来ていたのだ」(『未踏の野を過ぎて』)

 潮目の変化がはっきりしているのに、頑として動かない山もある。それでも2021年は、山を動かす挑戦をより一層進める好機である。

 環境活動家のグレタ・トゥンベリさんをはじめ、様々な領域で若い世代が声を上げていることは心強い。未来社会の当事者たちが、このままで人類は持続可能なのかという問いの波頭に立っている。