緊急事態、都市、支配、奴隷、個人、・・・

緊急事態宣言 「今必要なのは人・ハコ・モノの大胆な供給」 山岡淳一郎さん

緊急事態宣言 「今必要なのは人・ハコ・モノの大胆な供給」 山岡淳一郎さん

毎日新聞2021年1月17日 17時21分  野村房代

 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、首都圏の1都3県に続き、大阪など2府5県にも緊急事態宣言が再発令
された。2020年8月に「ドキュメント 感染症利権――医療を蝕む闇の構造」を出版し、危機的な状況にある医
療機関の取材を続けるノンフィクション作家、山岡淳一郎さん(61)に政府の対応の課題について聞いた。
【野村房代/統合デジタル取材センター】

緊急事態宣言は11月に出すべきだった
 ――2度目の緊急事態宣言をどのように評価していますか。

 ◆まず遅すぎました。緊急事態宣言は何のために出すかというと、医療崩壊を防ぐためですよね。感染者や
その他の患者たちの命を助けるのが眼目であるべきです。

 ところが報道によると、20年3~12月に全国の警察が扱った変死事案のうち、新型コロナウイルスに感染して
いた人が122人いて、そのうち56人は12月に集中していた。医療機関以外で死亡し、大半は死後に感染が確認さ
れた人たちです。およそ100年前、スペイン風邪が流行した当時の新聞記事を見ると、病院にかかれなかったり
診療を拒否されたりして、行き倒れになった患者が多数いた。それに似たことが21世紀の今も起きている可能
性を示唆しています。

 11月下旬、政府が「勝負の3週間」なんて言っていた頃、北海道や大阪では既に感染爆発に近い水準に達して
いました。東京の感染者も急増し始めたあのタイミングで宣言を出すべきだったのではないかと思います。

 宣言が遅れたのは、やはりGoToキャンペーンにこだわった菅義偉首相の政治的責任が大きい。「経済を回す
」という大義名分の下、全国旅行業協会の会長を長年務める二階俊博・自民党幹事長にそんたくしたと考える
のが自然です。

個人の行動変容に依存 検査数いまだ低水準
 ――時期の他にも問題はありますか。

 ◆宣言の内容も疑問です。いまだに「個人の行動変容」に大きく依存している。中学校の教科書にも載って
いますが、、、

==

しかし自宅や職場から映像を見る黒人市民の多くは、暴徒が警官に射殺されることはないと知っていた。暴徒
の圧倒的多数が白人だったからだ。同時に、これがもし黒人なら瞬く間に一斉射撃になっているだろうとも考
えた。   
やがて暴徒は米国民主主義の象徴である議事堂の内部になだれ込んだ、、、
銃を構えた警官を見ても、支持者らはなぜ怯まないのか
この暴動による死者は5人。うち1人は警官による射殺。カリフォルニア州から駆け付けていた元空軍の女性を
含む暴徒の一団は、議員たちがいる議場へと続くガラスのドアを打ち破ろうとしていた。ドアの向こう側では
警官が銃を構えていたが、女性はドアによじ登り、そこで射殺された。女性は「TRUMP」と書かれた旗をマント
のように纏っていたが、武器は持っていなかった。   
他の3人は暴動の最中に心臓発作、脳卒中、他の暴徒に踏み潰されて死亡。暴徒に消火器で頭部を殴られた警官
1名も死亡。いずれも白人だった。   
射殺された女性は、白人で女性、さらに元軍人である自分が警官の標的になるとは想像さえしなかったはずだ
。   
ドアのガラス越しに銃を構えた警官の姿は見えていた。映像を撮影していたジャーナリストは何度も「銃だ!」
と叫んでいた。それでも女性はドアを突破しようとした。本人も気付かないままに白人特権意識を植え付けら
れていたからこそ、議員がいる議場に暴徒として乗り込む行為の代償の大きさに思い至らなかったのだ。

https://bit.ly/35NX2rk

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明日月曜 夜 

> 100分de名著「資本論」のすすめ
>
>
> 第3回 イノベーションが「クソどうでもいい仕事」を産む!?
> 2021年1月18日(月)午後10時25分~10時50分/Eテレ
> 【再放送】
> 2021年1月20日(水)午前5時30分~5時55分/Eテレ
> 2021年1月20日(水)午後0時00分~0時25分/Eテレ

 AIをはじめとする「イノベーション」で、さまざまなことが便利になった現代。
 つらい労働は機械に任せて、人間は快適で充実した人生を送れるようになるはずだった。
 しかし、現実は「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」といわれる労働だけが増え続け、逆に労
働者の負担は減るどころかますます増えるばかり。
 いったいなぜこんなことが起こるのか?
 資本主義下、企業間の競争が激化する中でのイノベーションは、効率化を求めるあまり過度な分業化を推し
進めてしまう。
 その結果、本来豊かな労働を「構想」と「実行」に分離、創造的な「構想」のみを資本家が奪い、単純労働
のみを労働者に押し付けるといった過酷な状況が構造的に生じてしまうという。
 第三回は、「資本論」を読むことでイノベーションの矛盾を浮かび上がらせ、本来あるべき豊かな労働を取
り戻すには何が必要かを考える。

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もちろん反応の程度にもよるが、腫れや発熱などをむやみに副反応だといって怖がる必要はなく、むしろ感染
に打ち勝つための抗体を作る正常な反応の一つだと考えることが重要だ。
今回、日本にも導入される新型コロナワクチンのうちmRNAワクチン(米ファイザー・独ビオンテック両社
製や米モデルナ製)は、こうした局所・全身反応の頻度が他のワクチンに比べて多いことがわかっている。一方
で、mRNAワクチンは新型コロナウイルス感染の発症を防ぐ効果が極めて高いことも判明しており、まさに
「良薬は口に苦し」といったワクチンなのだ。
これらの反応は特に2回目の接種後に多くみられるが、そのほとんどが軽度から中等度で収まり、数日以内に
回復することや、高齢者のほうがこうした痛みや発熱などの反応が出ることが若い人より少ないこともわかっ
ている。

https://bit.ly/3ijMPYu

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「都市」 羽仁五郎

それは何だ。
それは市民である。
市民のない都市の歴史、市民をそっちのけにした都市計画、
それらは都市の歴史ではなく、都市計画ではない。
市民なければ都市もないのである。

岩波新書「都市」1941年

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創意や工夫に富む者すら、犯罪者なみに危険視され抹殺されることがすくなくなかった。
大和の飛鳥寺はたびたび焼けて、現在の寺は小さいものになっているが、日本ではもっとも古い寺で、
その本尊の阿弥陀如来は止利仏師のつくったものといわれる。
坐像八尺で、丈六の大仏とよばれているが、ふしぎに仏像だけは残った。
そこでいまの寺をたてて仏像をそのなかへ納めようとしたとき、建物が小さいために軒につかえて
どうしてもはいらない。
困りはてていると子どもがきて、
「これはなんでもないことだ。
もとを掘りくぼめ、軒の下をくぐらせて入れればよい」
といった。
なるほどよい考えだというので、そうやってなかへ仏像を納めたが、
さてその子どもの知恵におどろいた大人たちは、
「そういう子どもを生かしておいては、いつお上(かみ)からにらまれるようなことが起るかもわからぬ」
とひそかに相談して、子どもを殺してしまったという。

日本残酷物語 第三部 序 1960年 平凡社

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言葉と戦車 加藤周一

「イヴァンよ、おまえにやる花はない」
(チェコスロヴァキアの花屋の広告)

チェコスロヴァキア政府は、軍隊に無抵抗を指示し、大衆に冷静を保つように訴えていた。
占領軍の兵力は、50万に及び、戦車は1500台以上に達したといわれる。
(占領直後ヴィーン放送局の報道による)
武力の面では、占領側が被占領側よりも、比べものにならないほど強力であった。

しかし言葉の面では、逆に、被占領側が占領側を圧倒した、、、

放浪の癖収らず、私は、68年の初夏に、東京を発ち、モスクワを通り、ワルシャワに一瞥を投げ、
しばらくヴィーンに旅装を解いてから、再び8月の初旬に、ドナウ河畔を南下して、
ブラティスラヴァを訪ね、東に向かって、タトゥラ山中に彷い、それから一転して、
モラヴィアの丘を越え、ボヘミアの森を横切り、プラハの数日の後、再び、ヴィーンへ戻った、、、

ソ連はなぜチェコスロヴァキアに介入したか、、、

ソ連はなぜ軍事的手段に訴えたのか、、、

1956年ハンガリーと、68年チェコスロヴァキアとの、国際的にみて大きな相似点は、
いずれの場合にも、西側がスエズまたはヴィエトナムの紛争にしばられ、
強く反応する余力をほとんど全く残していなかったということである。
大きな相違点は、56年のソ連の行動は、各国の共産党に支持され、
68年の行動は、世界の共産党を賛否の立場に両分したということであろう、、、

ソ連のチェコスロヴァキア侵入は、われわれに、米国のキューバ上陸や北ヴィエトナム爆撃
を想い出させた、、、

今私は8月21日以前についてただひそかにボードレールの一句を呟くほかはない。

さようなら、あまりに、短かかりしわれらが夏のきらめきよ。

(1968年9月25日、カナダ) 「世界」1968年11月号

==

迫害に直面して、、、甘んじて死を引き受け殉教の栄冠を勝ち得るように信徒を教育していた筈の宣教師が、
内部の書翰には、
「神はこのキリスト教会を救う方法を無数にご存知である。
中でも最も容易な方法は暴君の生命を奪うことである。
そうすれば日本中が内乱になり、領主たちは皆天下人(セニョール・ダ・テンカ)になるのを望むであろう。
この野心のとりこになった者は、われわれの存在を許し、キリスト教会にさほど反対しなくなるであろう。」
(1618年10月16日付け日本発、ヴェレイラの総長宛て書翰)と記し、その素顔を覗かせている。
表向きの顔だけを見てキリシタンを語ることは出来ない。
イベリア両国の国家事業の一翼を担う形で布教が行なわれた教会活動の現実、それにイエズス会特有の体質も
加わって政治や貿易に余りに深入りしすぎたこと、さらには日本布教方針の面での破綻と挫折等を考えれば、
キリシタン教会がわが国で排斥されたのは当然の成り行きと言えないであろうか。

https://bit.ly/38NUtqN

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ガスパール・コエリョ  

https://bit.ly/2XLHQ9p

高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」『キリシタン時代の研究』1997 岩波書店

https://bit.ly/3nI6m5W

https://bit.ly/2XBcLFu  キリシタン宣教師の軍事計画(上)  1970

https://bit.ly/2LMoHSi  キリシタン宣教師の軍事計画(中)  1970

https://bit.ly/39xJTn4  キリシタン宣教師の軍事計画(下)   1972

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天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による
日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定がある。日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結
びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(くせごと = 犯罪)。付(つけたり)、日本におゐ
て人之売買停止之事。 右之条々、堅く停止せられおはんぬ、若違犯之族之あらば、忽厳科に処せらるべき者也
。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格」)

 日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終わり頃から早
くもはじまったと考えられている。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は
送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の一行も、世界各地で多数の
日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。「我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯
に落ちた日本人を親しく見たときには、 こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が
民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童
男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に
就くのを見て、憐 憫の情を催さない者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。
この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年代頃から奴
隷貿易航路になっていたことが考えられる。
 秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル
人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」
と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易
が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は晴天の霹靂に見舞われたかのよう
に怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが
、それは本書の本文でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。「中間航路」は、大
西洋だけでなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引
き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、
地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」といった記
述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
 ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」
という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」
に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よ
りの脅威であったことがその背景にある。
 しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポ
ルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。--奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動であっ
たか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。
池本幸三/布留川正博/下山晃共著

『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』
人文書院、1995年、
第2章コラム、pp.158-160 より転載

==

中世の慣習では自分の子供を他人の家に送り出してしまうということである。自分の子供たちを自分の手元に
は置かないのである、、、
十五世紀を起点とした近代化の過程の中で、以前は例外であったはずの学校に通う子供の数が増加していくこ
とになる、、、
近代的な学校では、生徒と教師という構図が生まれる。これは言い換えると、大人と子供の分離がなされたと
言える、、、
中世の共同体においては、職業生活、私生活、社交ないし社会生活の間に区別が存在しなかった。家族は生産
組織であると同時に、友人や取引相手との重要な社交場でもあったのだ。夜中まで友人が家を訪問していると
いった事態が頻繁に見られていた。また、血縁関係にないものも住んでいる人数の多い大所帯であり、、、
近代家族というものはブルジョワジーから普及した形態であるということだ。中世的家族が近代家族へと変化
していくといっても、それは長い間、貴族やブルジョワ、富裕な職人、富裕な勤労者に限られていたのである
。それ以外の階層では、慣習として徒弟修業は根強く残ったのであり、実用的な教養を教えない学校は嫌われ
る存在であった。十九世紀においてもなお、人口の大部分を占める最も貧しく最も人数の多い層は、中世的な
家族のあり方、暮らしようを保持していたのであり、子供たちは親元にとどまることはなかった。しかし時が
経つに連れ、近代家族は貴族階級やブルジョワに起源を持つことも忘れ去られてしまうほどに、社会のほぼ全
体に拡大したのである。

https://bit.ly/35OfZKi

==

秋山は「男子にとって必要なことは、若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかという
ことである」を信条とし、、、
秋山の本質は穏やかな性格の根っからの教育者、争いを好まぬリベラリストであり、第二次世界大戦後の民主
教育者、すなわち現代民主主義国家の学校教育に通じる先駆的教育者として今日、評価されるようになってい
る。軍人時代の部下、犠牲者の霊を生涯に渡って弔い続け、当時の世界情勢から日本が次第に傾倒していく全
体主義的な流れを嫌い、自らの功績を努めて隠した。中学校長就任後、生徒や親から「日露戦争の事を話して
欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」などと頼まれても「そんな昔のことを訊いて何になるのか。今は
中学の校長である」と一切断り、軍服姿(もっとも軍服での登校を嫌い、軍服を着るのは指定されている時に
限られていた。)の秋山の写真を生徒に販売しようとする動きがあった際には断固として止めさせ、武勲を披
露することは無かった。そして「生徒は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らし、生徒が落ちつ
いて学ぶことのできる環境を整えることに尽力している。
秋山は当時、先進的すぎて解らないの意味も含む「超教育家」とも評され、このことが秋山の軍人としての実
績と相まって教育者としての秋山の先駆的業績の本質を20世紀の終わりまで埋もれさせることにもなった。当
時、中学校の校長職はいわゆる名誉職であり、秋山のように正規に教員の資格を有し、教育現場での経験のあ
る者が校長に就任し、毎日登校して直接に生徒に接することだけでも珍しく、加えて教育学的に研究した生徒
教授まで実践というのは皆無に等しい状態であり、秋山は異例中の異例であったためである。
秋山は社会的集団教育(普通学校教育)の目的を、21世紀の現在にも通じる「個人の確立(独立)による社会
(国家)の確立(独立)」「個人の生活安定による個人の確立」「個人の生活安定のための個性(適性)の見
出しと育成」と考えており、実学、勤労を重視し、生徒個人の人格形成、そのための個性・適性を見出して育
てることに徹し、その実践として毎日、早朝から校門に立ち、登校してくる生徒ひとりひとりに挨拶をする、
よく生徒を誉め、誉めるのと同時に、字をきれいに書きなさいといったことなどを丁寧に指導する、いつも微
笑みをたたえて生徒の様子を眺めている校長であった。そして生徒に「もう私は老いている。私が死んでしま
った時には、私の屍を踏み越えて未来に進みなさい」との訓示をする校長であった。
一方、秋山は生徒、教職員の不祥事は全て校長の責任に帰するものとし、在任中に何度も引責辞職願を理事会
に提出、都度、驚かれて慰留されている。当時の中学校では全国的に、生徒のみならず教員も、遅刻、無断欠
勤は普通であり、秋山はこの学校側の計画性のなさに中等教育の諸問題の根本がある、学生が独立している(
自我が完成されている)ことを前提とした高等教育と、独立途上にある(自我の形成途上である)生徒を相手
にする中等教育は異なるものであるとし、遅刻・欠勤した教員の担当授業を自ら代行し、定刻開始、定刻終了
、欠課なしとしてみせた。すなわちこれは2020年現在言われているところの生徒の学習権保証のひとつである
。しかし秋山は当該教員を叱責、処分することはなく、一身に自らの責任として自らを処分したことから、北
予中学校では教職員の勤務態度が大きく変わり、遅刻・無断欠勤をする者がおよそいなくなり、教員は自主的
によく勉強し、各々が学習指導計画を立てて実行するようになった。この実践と成果は全国に新聞報道され、
全国の中学校、女学校などの中等教育機関で、授業の定刻開始、定刻終了、欠課なしが実施されるようになり
、併せて中等教育に携わる教員の自主性とその責任範囲について明確化させるものとなった。
さらに特筆されるのは、当時珍しかった朝鮮への修学旅行の実施である。これは全く支配者としてではなく、
関東大震災での朝鮮人虐殺事件に心を痛めた秋山が、生徒たちの異文化への理解や敬意を育むために考え、実
施したことであった。
そして最晩年の世界大恐慌の際には、国際協調の観念を涵養する大切さを生徒たちに説き、デンマークはもと
は貧しい国であったが、国民の農地改良によって豊かになった例を紹介し、日本も国民の勤労さえあれば必ず
大丈夫であると説き続けたことなどである。

https://bit.ly/3qx70oz

==

韮山反射炉を見た多くの人が、こんなちっぽけな、簡単 な炉で鉄が溶けるものかと思われるかも知れない。そ
のイ メージから、鉄は溶けなかったとする人も多い。まず、溶 かすのは融点 1536°Cの鉄ではなく、炭素が
4.3%程度以上 入った融点 1153°Cの鋳鉄であることを頭に入れておく必 要がある。凝固温度が 1153°Cの成
分の鋳鉄であるならば、 溶解温度は 100°C高い 1250°C程度で十分である。煉瓦を焼 くのに使われた登り窯
の温度は 1200‾1250°Cであること を考えると、登り窯よりも若干高い程度の温度である。

https://bit.ly/3nNPoTX

==

半藤一利さんを悼む
 昭和史の誤りを克服、継いでいかねば 
 ノンフィクション作家・保阪正康
朝日新聞2021/1/15
 半藤さんとはこの20年、対談や共著など仕事を通じて日常的に話をしてきたが、「自分は『絶対』という
言葉を原稿で使わない」と言っていた。旧制中学のときに敗戦を迎え、「お国のために死ね」という時代から
民主主義へと社会の価値観ががらっと変わるのを体験したからだ。「大東亜戦争」など戦前の価値観にもとづ
く言葉も使わないようにしていた。相対的にものを見る視点を明確に持っている半藤さんの生き方を尊敬して
いた。
 僕より9歳上の半藤さんは、昭和史の取材で旧日本軍の将官・佐官、つまり決定する側の人たちによく会っ
ていた。一方、僕はそれより下の佐官・尉官に会っていた。半藤さんと「この人に会ったか」「会ったよ」な
どと話をしていると、軍が起案して決定するプロセスが浮かび上がってきた。お互い、歴史を演繹(えんえき
)的にではなく、鈍重ではあるけれども、帰納的に見ていこうという姿勢で一致していた。学問の殻に閉じこ
もらず、人がどう生きたかを見つめていこう、と。抽象的な概念を嫌い、自分の手で触ったものだけを信用す
る人だった。
 ■人間観察学に魅了
 一緒に取材することもあり、半藤さんの「人間観察学」に魅せられた。瀬島龍三氏に取材した後、「瀬島が
うそをつくときの顔、わかるか?」。千人単位の人に会い、戦争体験も数多く聞いている半藤さんは、頭の中
で考えたことを言っている人は、声の調子や目の動きなどからすべて分かる、と言っていた。「証言の垂れ流
しは罪」と肝に銘じて、精査して信用に足るものだけを使っていた。
 東大では勉強そっちのけでボート部の活動に明け暮れた。全日本選手権の決勝で慶応に敗れてヘルシンキ五
輪(1952年)出場を逃したことは本当に悔しかったようで、「50センチの差で五輪に行けなかった」と
いつまでたっても言っていた。
 半藤さんといえば、文芸春秋の人だ。昭和28(1953)年に入社してすぐに「坂口安吾の原稿をとって
こい」と言われ、群馬の安吾の家で酒を飲んで寝泊まりしたことから編集者としての歩みが始まる。司馬遼太
郎や松本清張らを担当した。文春では役員も務め、「文春リベラリズム」を具現化した人でもあった。それは
戦後のブルジョア民主主義であり、社会のリーダー的役割を担った。文春には右派の流れもあるが、それとは
一線を画し、一つの系譜をつくり今につながっている。
 記憶に残るエピソードといえば、1989年にベルリンの壁が崩壊した後、奥さんと一緒に壁を見に行った
そうだ。壁の前に立ったとき、体が自然と能の舞を始めた。すると、周りに人だかりができて、終わったら拍
手が起きた、と。「恥ずかしくなかったの?」と僕がきいたら、「うれしくてね」。東西冷戦が終わったとい
う感慨の大きさをうかがい知った。
 平成のころ、2人で天皇皇后両陛下(現上皇ご夫妻)にお会いしたことも思い出深い。天皇とすでにお会い
していた半藤さんから、「雲の上から声がかかったけど一緒に行くか?」と誘われ、ご進講ではなく歴史に関
するお話をしに何度か皇居へうかがった。天皇は歴史に深い関心を持たれていて、半藤さんが天皇のご質問に
真摯(しんし)に答える姿が印象的だった。そのような場で半藤さんは「象徴としての天皇」を心から理解し
たのだと思う。そして、昭和天皇を神格化した軍事指導者の政治的無責任さを痛感したはずだ。
 ■憲法100年もたそう
 2人で進めていた運動がある。九条の会の護憲とは少し違い、より現実的に今の憲法を100年もたそう、
というもの。お互い講演のときに呼びかけようと約束していた。組織や事務局があるわけではないが、みんな
の思いを広げようと。そういう試みだった。
 僕も人の死を悲しむような年ではないが、半藤さんを失い、大木が倒れたように感じる。歴史の分野におい
てアカデミズムとジャーナリズムの枠を取っ払い、相互乗り入れを実現した先駆的な存在だった。
 「死んだらダメだよ。言論界の地図が変わるから」と言っていたのに。半藤さんは、近代日本が犯した多く
の誤りを書き残していかなきゃいけないと遺言のように言っていた。いろんな国に迷惑をかけたことの歴史的
総括をやっておかないと日本は信用されない、と。半藤さんに触れた人たちは、昭和史の誤りを克服していく
方法を、継いでいかなければならない。(談)
     *
 ほさか・まさやす 1939年生まれ。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。著書に『近現代史からの警告』など

==

白人の誤解
合衆国の白人たちは、インディアンの文化について、根本的に勘違いをしていた。白人たちはインディアンの
酋長を、「部族を率いる指導者」だと思い込んでいたのである。しかし、完全合議制民主主義社会であるイン
ディアンの社会では、独任制の「首長」や「部族長」は存在しない、、、インディアンの戦士は、おのおの個
人の判断で行動するものであって、誰かに指図されるような存在ではない。白人が考えるような「軍事指導者
」や「戦争酋長(War Chief)」は、実際にはインディアン社会には存在しない。インディアンの戦士団は集団
であって、命令系統のもとで動くような「軍隊」、「隊」ではない、、、
スー族を始め、インディアンの社会にこのような「絶対権力者」は過去にも現在にも存在しない。
「気前の良さ」を美徳とし、すべてを共有するのがインディアンの文化である、、、
スー族は、盟約を破り次から次へと要求を変える白人に、「白人には一体何人酋長(調停者)がいるのか」と
、不信を募らせる一方だった。
インディアンの文化を理解していない白人のこうした思い込みによる力づくの和平は、インディアン戦士の怒
りと不満を買うばかりだった。

https://bit.ly/3nUmQYR

==

実際は植民地時 代にアメリカに渡ったイギリス(ヨーロッパ)人 の少なくとも3分の2は、白人債務奴隷ともい
え る「年季奉公人」だったと当時の資料を用いて論 じる。また、恩赦になった犯罪者の流刑地でもあ ったの
がアメリカ植民地であり、当地ではそうい った犯罪者は、自由移民と等しく「労働力」とし て扱われたとい
うことである。川北によれば、ピューリタンがア メリカを作ったということは WASP がでっちあ げた神話に
すぎないというのである。
以上のことは、カウボーイにもあてはまる。英 文学者の鶴谷は Kansas 大の David Dary 教授の 「Cowboy Cu
lture」に、コロンブスの 二回目の航海の時に牛のような家畜動物が持ち込 まれたとの記述を紹介する。牛馬
はまず西インド 諸島にもたらされ、その後、プエルトリコ、ジャ マイカ、キューバを経て、メキシコで多く
繁殖し た。そこで修道士達がインデイオ達に乗馬や牛の世話を教えた。それがカウボーイの始まりである。
当初のカウボーイは、スペイン人はおろか、メキ シコ人達からも、馬に乗って仕事をする賤しい労 働者と見
なされていた。

https://bit.ly/2XODbE0

==

発端は戦前に祖父が朝鮮人の丁稚さんを使っていた頃に始まります。
とても良く働いてくれる丁稚さんだったので戦後、祖父はこの丁稚さんに河内菌の種を渡して、「この菌を使
って韓国で一旗あげなさい。それとマッコリな、あれはいい酒じゃ。でも河内菌を使えばもっとうまくなる。
」と作り方まで伝授して帰したそうです。
この丁稚さんが韓国で大成功
今や韓国の焼酎もマッコリもすべてこの河内菌で作られています。
彼らも祖父に敬意を表して麹の事をカワチキンと呼んでいます。
ソウルオリンピックの時も本家の技術を学びたいと韓国の焼酎メーカーが大挙して我が社に来られました。も
ちろん技術の交流もさせていただきとてもいい関係を結べたと考えています。

https://bit.ly/3nRL5H9

ーーーーー
色平

==

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