ドクター・ササ(ササ医師)をご存知ですか。

 Dr.SaSaことドクター・ササ(ササ医師)をご存知ですか。

Dr.SaSaことドクター・ササ(ササ医師)をご存知ですか。

ミャンマー北西部チン州からの出身の優秀な医師で、人々への医療や保健環境を
整えるための活動を行っています。

クーデター後、2月22日ドクター・ササが、CRPHから国連特使として選出されました。

このニュースは日々悪化する境遇にあるミャンマーの人に明るい希望をもたらしました。

そのドクター・ササのこれまでの道のりは、彼の慈善団体Health & Hope
にも書かれていますが、より長いストーリーがミャンマー語でシェアされています。

そちらをミャンマー地方在住の日本人の友人が翻訳してくれましたので、
こちらに載せさせていただきます。

ドラマチックとも言える彼の半生を読めば、
なぜミャンマー人が希望だと思うかがわかると思います。

https://bit.ly/3paiHSU

ドクター・ササの歴史   Lai Lin Pi, Chin State

当時のササ少年は、1年に1回しか水浴びをしたことがないというようなライレンピー村の子供だった。「この
子は医者になる」と父が言ったとき、村の人たちは彼の頭がおかしくなったと思った。彼の物語だけを見て決
めることはできない。その地域に教育を受けた者はいるだろうか。もし、教育を受けた者がいるなら、その地
域の未来を予言してはいけない。何事も起こりえるからだ。ドクター・ササの言葉を借りると、

“The greatest gift we can give to the younger generation is education.
They will be able to do so many things.
Just watch we will change their story.”

(若い世代への一番の贈り物は教育である。
彼らはたくさんのことをできるようになるだろう。
見ていてほしい。
私たちは彼らのストーリーを変える)

History of Dr.SaSa

ドクター・ササは、雨の降る日の朝に生まれた。誕生日はわからない。彼の母は文字が全く読めない。彼の父
は小学校1年生を通信制で修了したそうだ。

助産師もいない。学校もない。なので、ドクター・ササの生年月日を知る者は誰もいない。雨が降る日の朝が
ドクター・ササの誕生日だ。(彼の母は、台所で一人で出産したそうだ。ドクター・ササが医科大学で自分の
出生について語った時、学校の人たちは誰も信じなかった)

13歳になると、彼の村には進学する上の学校がなく、紛争もあったので、進学するためにライレンピー村から
ヤンゴンに命懸けで出てきた。身一つで。ヤンゴンの大都会へ学びに行くと言うので、村の人たちが鶏をたく
さんくれた。鶏を竹の棒にぶらさげて、ヤンゴンまでやってきた。徒歩で。20日間かかった。学費の足しのた
めの鶏たちも、旅の途中で食べ尽くしてしまった。

1年に1回だけ水浴びをする人。髪の毛も長く伸びきって、頭はシラミだらけ。ミャンマー語は一言もわからな
い。ヤンゴンに着くと、路線バスの人が彼を泥棒だと思って蹴り飛ばした。

片っ端からいろいろな仕事をして、1997年に高校卒業試験に合格した。大学の学位もとりたいと思ったが、当
時は大学が閉鎖されていたため、ライレンピー村に帰ってきた。

ヤンゴン帰りで教育を受けた人だということで、村の人たちは彼に勉強を教えさせた。ライレンピーで、ボラ
ンティアとして2年勉強を教えた。村に住みながら何ができるだろうかと考えていると、村の人たちはいろいろ
な理由で、簡単に亡くなってしまうことに彼は気づいた…。

彼が勉強を教えていた3人の子供が下痢で亡くなり、彼は悲しんだ…。

彼の親戚は、妊娠中に死亡した…。

この地域には医者が必要だと彼は悟った…。

政府からの保健に関するケアはなく、村人は健康についての知識を持たないため、自分が医学を学び、広めよ
うと決意した。

1999年に村の人たちが協力し、彼を陸路でインドに送った。村がくれたたくさんの鶏をかつぎ、インドまでた
どり着いた。警察が彼を鶏泥棒だと言って鶏を殺して食べてしまい、彼を拘留してしまった。

最終的にデリーにたどり着いた。カレッジに通うためだ。学校には西洋風の服で通わなければいけないと言う
ので、ズボンを急いで買いに行った。お金がないので、一番安いズボンを買った。シャツは友人のを借りたた
め、少し窮屈だった。買ったズボンは、女性用だった。きついシャツと女性物のズボンだったので、校長先生
は彼をオカマだと思い、拒絶したらしい。男らしく山賊のような偉大なるチン族ササの間違いがこれだ。

33校のカレッジに出願したが、ダメだった。最後の1校で入学が許可された。医科大に申請するための点数には
達していた。そして、Prospect Burma校と連絡がとれた。

Prospect Burma校は、アウンサンスーチーのノーベル平和賞の賞金の一部を使って創設されたニューデリーに
ある学校だ。ミャンマーから来た難民たちに、英語やコンピューターなどを無償で教えていた。旅費や書籍、
文房具、さまざまな研修のための奨学金を与えていた。

まだ英語が得意でなかったササは、彼のできる限りの英語で、医師になりたいことを何度も説明した。

最終的に、Prospect Burmaはササに奨学金を支給することを決定した。Prospect Burmaも、学費が高いLondon
までは支援できない。人口が300万人しかいないアルメニアの医科大学に1年通うための学費だけ支給できた。
生活費や他の経費は、彼が自分で稼がなければならなかった。試験に落ちたら支給は打ち切りにすることを約
束しなければならなかった。

そしてアルメニアに着いた。生活のために屋台で皿洗いなどの雑用をし、あちこちに行くためには足を使い、
書籍は図書館や人から借りまくり、試験に落ちないように頑張らなければならなかった。

彼の志を試すものもあった。彼のことを知ったあるお金持ちの女性が、彼に車を買うためと言って、5,000ドル
を渡してきた。
5,000ドルを抱えて帰りながら、彼の心の中にあった「車でアルメニアの女子医大生とドライブをする妄想」は
、彼の狭い部屋についた途端、変化した。

なぜかというと、昨日、彼の村のチンの山奥から届いた「村に水がなくなっているので、とても遠くまで山を
登り、山を下り、命懸けで飲み水を汲みに行っている」と書いてある手紙を机の上で見つけたからだ。彼の手
の中で温かくなった5,000ドルは、彼の村や周りの村に水タンクや水道管を作るために送ろうと決意した。彼は
村のことを忘れなかったのだ。

2008年、6年生のときに、イギリスのチャールズ皇太子に会った。場所はロンドンのAbbey Gardens, Westminst
erだ。皇太子に会ったとき、挨拶の仕方がわからずどうすればいいかササは考えていた。幸運なことに、階段
の上から降りてくるチャールズ皇太子が、階段の中ほどで、「カラフルな服装でがっしりと大柄な若者は誰か
」と言った。そして彼の近くに来て、彼の二の腕をつかんだのだ。なので、作法を知らないササも落ち着くこ
とができた。

ササのチン族の民族衣装を「カラフルで美しい」と5回くらい言ったチャールズ皇太子。ササは、その年、チン
州で50年に一度の竹の開花が起こり、ネズミが増えて、人々が飢餓に苦しんでいることを話した。

ロンドンからの帰り、チン州で飢餓に苦しむ3757人のために、医薬品と米769袋をチャールズ皇太子から支援し
てもらった。

2009年にアルメニア大学からササは一人、優秀な成績で医学の学位をとった。Prospect Burmaの支援と、ササ
の頑張りのおかげだ。

彼の村の保健環境を向上させるという志で、ドクター・ササは、道路もない、電気もない、近代的な設備も何
もない山の上の村に戻ってきた。村に戻るとすぐ、彼の村や周りの村の病人を治療しはじめた。

医学の学位を得て、ロンドンの育ての母と言える国会議員の紹介で1年ほど過ごした後、ドクター・ササは彼の
村に戻る準備をした。ロンドンの友人たちは「ロンドンで暮らせるのに、なぜ山奥に帰るんだ」と聞いた。

彼の村の保健環境を向上させるという志で、ドクター・ササは、道路もない、電気もない、近代的な設備も何
もない山の上の村に戻ってきた。村に戻るとすぐ、彼の村や周りの村の病人を治療しはじめた。

1日に400人以上の病人を診察したドクター・ササは、2週間くらいすると疲労がたまり、彼自身が病人になりそ
うなほどだった。このままでは長期的には良くないと思い、基本的な保健知識を持つ人を村ごとに育てなけれ
ばいけないと考え始めた。147村に研修を行い、1つの村につき2名ずつの基礎保健師を育成する事業を、2009年
11月から開始した。

彼のカリキュラムは「医師のいない場所」という本にして、体温計や聴診器、血圧計を1つずつ、研修終了時に
渡した。Prospect Burmaや支援者からの寄付を使用した。その研修を受けた基礎保健師は300人を超え、10万人
以上のチン州の人々の健康を守っている。

“Where there is no Doctor”

後に、そのプロジェクトは、ドクター・ササがHealth and Hopeという名前でファウンデーションを立ち上げた
。チャールズ皇太子が顧問として名を連ねている。このファウンデーションは、チン州から100人以上を外国に
留学に送り出した。礼儀正しく頑張る優等生たちの運命に光を与えたのだ。

彼の地域では、道路のアクセス向上、教育の向上、健康の向上などが彼の目標となり、小さな空港も支援によ
り建設中である。もうすぐ完成する。

世界銀行の総裁もアルメニア人であり、ドクター・ササとも仲が良い。最新の病院も建設できるように頑張っ
ている。カレッジを作るようにも努力している。

ミャンマー全体が発展することも考えていることが、彼のインタビューから伝わってくる。

自分の民族、自分の地域をこれほど愛し、これほど素晴らしい彼に託したいのが、ミャンマーの国民皆の願い
ではないか。

このような人がどの地域にも現れますようにと願いを込めて
アウン・モー・ルィン

2020年8月19日

(素晴らしい人がインスピレーションを得るためにシェアしてください。他の政党を貶めることを言うために
シェアしないでください)

===

6/6 国会議員×研究者「最新情勢を学び、次の一手を考える勉強会」第二回 -ミャンマーの悲劇を食い止め、
市民の希望をかなえるための日本の役割-
日時:2021年6月6日(日)14:00-16:00
言語:英語、日本語
配信:ZOOMウェビナー(同時通訳あり)&YouTubeライブ配信(同時通訳なし)
申込:フォームよりお申込みください。
*YouTubeライブ配信(同時通訳なし)の視聴は申込不要です。
主催:超党派「ミャンマーの民主化を支援する議員連盟」
協力:ミャンマーの人々を応援する有志の会

プログラム/登壇者:
<開会挨拶>ミャンマーの民主化を支援する議員連盟 中川 正春 会長

<第一部> 14:05-14:35
基調講演①Dr. Sasa 国際協力大臣
「暴力支配のない国へ -多様なアイデンティティを持つ人々によるボトムアップの国づくり」
解説①根本敬 上智大学教授
「日本政府とミャンマー国軍の関係の歴史」

<第二部> 14:35-15:05
基調講演②Dr. Sai Khaing Myo Tun 教育副大臣
「市民不服従運動(CDM)と市民の未来」
解説②篠田英朗 東京外国語大学教授
「なぜ日本外交は国軍偏重なのか」

<第三部 コメント&質疑応答>  15:05-15:50
登壇者へのコメント&質疑応答
◆コメント&モデレーター:石橋通宏議員(ミャンマーの民主化を支援する議員連盟)

<3世代の在日ミャンマー人からメッセージ> 15:50-16:00
日本で活躍するX,Z,Y世代のミャンマー人女性3名より

◆司会:甲野綾子(名古屋大学大学院)

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